Strange Days

2006年07月22日(土曜日)

自走で鎌倉の近代美術館に行ってきた

23時55分 思考 天気:くもり

 今日は久しぶりに雨に悩まされることの無さそうな日だ。前からやりたかったことを2つ、片付けることにする。
 昼過ぎ、 MR-4Fで辻堂方面に向かった。境川を南下し、遊行寺の前を走る道を南西に向かうと、しばらくして左手にラーメン屋を発見した。発見したも何も、ここを目指していたのだがな。
 ここ、ねぎ家は、ずっと前は湘南台でだし家という店を営んでいた親父がやっているラーメン屋だ。一時、名前をねぎ家に変えて湘南台近辺の石川に移っていたのだが、去年だったかにこの地に再移転したらしい。だし家時代のラーメンを気に入っていたので、ちょっと確かめに行ったのだ。
 店は、以前よりもずっと小さく、カウンター10席、4人掛けテーブル2つという構成。店主の親父と、女性とで切り盛りしていた。石川にあった頃は、親父は常にピリピリしていて、いやんな緊張感が厨房にあったのだが、今は非常に愛想が良くなっている。
 頼んだのは叉焼麺と煮卵。スープは以前から家系にしては薄味だったのだが、今は更に薄くなっている。パンチは無い代わり、やさしい口当たりだ。煮卵は半熟で、絶妙な味付け。普通のラーメン+煮卵で十分だったかも。冷蔵庫から取り出してきたので、最初にラーメンに放り込んでおいて、温まってから口にした。
 腹が膨れたら、第2の目的地に向かう。鎌倉の県立近代美術館に行きたかった。雨の心配が少ないからか、鎌倉までの道で多くの自転車乗りと行き会った。
 近美で開催中だったのは、スペインのエドゥアルド・チリーダという彫刻家の回顧展だった。彫刻、なかんずく石を使ったそれは、眺めても不安に感じることが少ないので、好きだ。絵画だと、どうしても自分が問いかけられているような気になって、常に不安になってしまう。
 このチリーダというおっさん、環境型の大型オブジェ*1、石や鉄を使った小型のオブジェを得意としている。また素焼きの土器に線を刻んだ作品も多いし、紙を素材としたものも数多く残している。素焼きの土器シリーズを見ていると、クッキーが欲しくなってくる。
 比較的小型のオブジェ、特に鉄を使ったものは、大きくて重いものの持つ本質的な二律背反性、安定性と不安定性を常にバランスさせているように見えた。重くて大きいから、それは安定している。しかし重くて大きくても、重心次第では安定しない。チリーダの作品は、例えば箱型の土台の上に、水平方向に大きく延びた腕のようなものが突き出しているものが多い。一見して頭でっかちで不安定そうなのだが、良く見ると別の腕が接地していたりして、実はどっしりとした安定性をも表現に取り込んでいる。見る角度によって、その相反する要素が顔を出してくるわけだ。
 このおっさんの言葉として掲げられているものとして、一つ気に入ったものがあった。意図的に短縮すると、『私は経験を重視しない。それは過去に向かうものだから。私が重んずるのは知覚、未知なるものへと、未来へと向かう知覚だ』と。いいね、こういう言葉をさらりと吐く境地に立ってみたいものだ。
 鎌倉館の入場券で、別館にも入れるので、立ち寄ってみた。企画展は、『彫刻の変容』と題し、明治以降の日本での彫刻の展開を追ったものだった。簡潔に言えば、基本的に職工しかいなかった日本の彫刻の流れに、明治以降は西欧の写実主義の流れが取り込まれる。最初はそこにあるありのままを表現しようという流れだったのだが、やがて『見たまま』に、つまり自分の主観として表現しようという流れが生まれてくる。これが戦前まで。
 戦後、強烈な戦争体験を経た多くの作家が、さらに主観的な作品を手がけるようになった。ある意味、彫刻の私小説化だね。しかし、この流れに抵抗するように、むしろ公共の場で何かを展開しようとする動きも出てきた。彫刻の社会化だ。戦後の彫刻界は百花繚乱で、思い思いの方向に向かってはいるが、それを支えているのは素材の多様化、近代建築の要素であるコンクリート、プラスチック、ガラスなどの受容にあるといえるだろう。
 別館は、鎌倉館に較べてもずっと人が少ないのが良い。
 帰路も七里ガ浜経由で走り戻った。今日はやたらと後に着かれたり、逆に前を塞がれたりする日だったのだが、mixiを見るとどこかで岡山氏と遭遇していたらしい。全然気づきませんでした。
 さて、明日は休出だわ。