Strange Days

2001年01月14日(日曜日)

NHKスペシャル

23時16分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「犯罪交渉人 命を巡る攻防」。ネゴシエータという職種は、アメリカで'71年に発生した刑務所での大規模暴動で、多数の死傷者が出た苦い経験から生まれたものなのだそうだ。ちょっと驚いたのだが、日本では犯罪者の説得に警察がその家族を連れてきたりするのだが、それは禁止事項となっていたりする。日本とアメリカとでは、ネゴシエータが生まれた背景も、その役割も違うようだ。
 番組では、ある事件を題材に、ネゴシエータと犯罪者の交渉の経緯を追った。ネゴシエータは、まず犯人側との関係を構築することに力を注ぐ。例えば食料の供給と引き換えに人質解放があったなら、それは資源を交換し合う関係になる。そのようにして、犯人に自分が味方だと思わせるのが第一歩なのだそうだ。その為には、警察側の上位の指揮者でない方が良い。なにか犯人側の要求を飲めない場合でも、上司が許可しないからといった風に上司の責任にすれば、犯人がネゴシエータに怒りを向けることを避けられる。このようにして、次第に犯人に取り入ってゆくわけだ。
 この事件は、宝石店に押し入った強盗団が、警察側のすばやい手配に逃げられず、立てこもったというのが端緒だった。犯人側のリーダーは正確な氏名も判明せず、警察側では専門家の意見を聞きながら犯人像を推定するしかなかった。犯人は交渉の途上で怒りを見せたりしたが、警察側は犯人が高い教育を受け、こうした一見感情的な行動も演技かもしれないと考えた。こうして難しい交渉が続いた。突破口になったのは、食料の差し入れと交換に人質解放を求める交渉の中での、犯人の発言だった。交渉は何度ももつれかかったが、犯人がベトナム帰りであることなどのプロファイルの一端、そして比較的法律に知識があり、前科があるために刑務所で残りの一生を過ごさなければならないことを恐れている、などのことが分かったのだ。ネゴシエータを担当した女性は、ここで賭けに出た。犯人にこの事件でも最大7年の刑にしかならないと信じ込ませようとしたのだ。さらに犯人側の要求に応え弁護士を召喚したが、その弁護士にも口裏を合わせるように要請したのだ。
 2時間に渡って弁護士と話した犯人は、最終的に投降することに決めた。だが一番痛かったのは、犯人が最後にネゴシエータに向かっていった言葉だ。彼は「あんたの言うことが本当だったら、俺はまた人を信じられるようになるかもしれないのに」といったのだ。彼はネゴシエータが最終的に嘘をついている可能性が高いことを知りつつ、それでもわずかな善意の可能性を求めてその要請に応じたのだ。ベトナム帰り、前科者と、世間が冷たく当たる条件が揃っているこの犯人も、心のどこかで自分を受け容れてくれる世界を求めていたのだろう。重犯罪者に対して単純に重罪を課せという意見は多いのだが、本当の意味で犯罪防止に役立つかどうかは一筋縄ではいかないということを思い出させた。
 ネゴシエータは当の人質には感謝されない職種だという。番組中、元祖ネゴシエータとでも言うべき男性がいっていたが、多数の事件を穏当に解決したにも関わらず、感謝の言葉をかけてくれたのは一人だけだったという。あまり報われることの無いネゴシエータたちは、しかし今日もアメリカのどこかで活躍しているだろう。

2001年01月07日(日曜日)

NHKスペシャル「三蔵法師祈りの旅」

23時55分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、昨夜放映された「三蔵法師祈りの旅」の後半だった。
 画家平山郁夫氏は、20年がかりで大作壁画を完成させ、奈良薬師寺に寄贈した。7部の絵で構成された壁画は、玄奘三蔵によるインド往還をテーマにした連作壁画だった。
 平山は、玄奘三蔵を幾度か描いている。平山は、少年の頃に広島で被爆している。自身は原爆炸裂の瞬間に物陰にあった偶然から生き残ることが出来た。が、その直後の凄惨な被爆地を目にし、その情景が頭から離れなくなった。何故、戦争との関連の薄かった一般市民が、このような惨い目に遭わねばならないのか。そして何故、これほどの惨禍にあってまで、人は生きなければならないのか。平山は悩みつづけた。
 やがて平山の脳裏に浮かび上がったのは、苦難に満ちた旅を続ける一人の若い僧侶の姿だったという。玄奘三蔵。唐代に単身東方に旅し、仏教の中心地だったインドから膨大な経典を手に入れた僧侶だった。
 唐初、隋の滅亡に続く戦乱が人々を痛めつけた。玄奘は苦難に喘ぐ人々の生きる拠り所を求める声に答えるべく、無謀とも言えるインド往還を志したのだ。当時、中国における仏教は内部抗争に明け暮れ、その地盤が揺らいでいた。その確かな拠り所を得るには、仏教の中心地と考えられていたインドで、本場の仏典を学ばねばならないと考えたのだ。
 当時、唐からの出国は禁じられており、玄奘の行動は国禁に背くものだった。しかしあえてその禁を犯した。
 玄奘は長安を発ち、やがてタクラマカン砂漠に入り、唐の西境を出た。そして多くの異民族の間を抜けながら、崑崙山脈へとひた歩いた。唐とインドの間には、ヒマラヤの大山塊があり、容易には超えられない。そこでまずは西アジアを経由する必要があった。当時、西域には様々な宗教が混交していた。イスラム教はまだ登場してなかっただろうが、ゾロアスター教などの古教が健在だったはずだ。玄奘はそれらに触れながら、多様な認識を獲得し、人間的に強靭になっていったのではないか、と番組では述べていた。
 平山は、あるときは砂漠で路頭に迷い、あるときは異民族に取り囲まれながら、なおもインドへの旅を諦めなかった玄奘の姿を、彼自身の生きる縁にした。平山の初期の作に、歩く玄奘の姿を描いたものがあるのだ。
 玄奘はやがてインドに到着した。しかしそこで彼が目にしたのは、インドでの仏教衰退の現実だった。インドに行けば本当の仏教を目にすることが出来る。その期待は裏切られた。極楽浄土がそこにあると考えるほどには無知ではなかったろうが、玄奘はインドの現実に無知ではあったかもしれない。彼はヒンドゥー教に飲み込まれる寸前の、インド仏教最後の時期にやってきてしまったのだ。存続していた仏教大学でその精髄を学んだものの、気は晴れない。やがて6年をかけて仏典を学び終えた彼は、インドを一周する旅に出る。すぐに唐に戻る気になれなかったのだろう。一体、インドにおいても衰退期に入った仏教を持ち帰る意味があるのか。そう自問したに違いない。
 彼はその旅において、様々な神々に祈りを捧げる人々の姿を目にした。祈ること。これこそが信仰の中心であり、そして祈る縁を与えるものが彼の持ち帰る仏典なのである。あるいは玄奘は、そう考えたのかもしれない。そして結局のところ、玄奘は唐への帰還を果たすのである。
 番組として、平山の体験と玄奘の旅とが交互に語られたので、やや分かり難い部分があった。特に玄奘がインドの旅で見出した希望の正体が、いまいち分かり難いのである。これは仏教そのものが、現代社会において混迷しているという事情と、恐らく不可分ではあるまい。