Strange Days

NHKスペシャル

2000年05月07日(日曜日) 23時51分 テレビ

 連休の終わりゆえか、NHKスペシャルは昨夜に続いて面白そうなものだった。今夜は村上龍が"インターネット・エッセー"と題して、バブル崩壊後の日本のあり方に思考を巡らす。
 最近、村上は経済に興味を持ち、メールマガジンを主催して読者の意見を募ることを始めている。彼は'90年バブル経済崩壊後の『失われた10年』とはなんだった(あるいはなんなの)だろうかという問いを読者に投げてみた。
 村上は、まず「バブルの原因はなんだったのか」という問いをMLに投げてみた。それに対する読者の回答は様々だった。
 単に官僚や不動産、銀行関係者に原因を求める意見も多かったと推測するが、いくつか新しい知見をもたらしてくれる意見もあった。
 イギリスの経済アナリストは「欲が無かったからだ」と逆説的な意見を述べた。バブル当時にありあまる資金の投下先を見つけることが出来ず、結局土地神話にしがみついて『確実な回収』を怠ったというのがそのアナリストの意見だ。あるいは土地神話から目覚めていれば、このアナリストの言うとおりに確実な回収を心がけることも重視されたに違いない。今なら確実にそういう思考が働くはずだ(今もそうでないのなら銀行関係者の無能さに絶望するしかない)。しかし当時は地価が下がるなどという事態は想像の外にあり(このこと自体は官僚、銀行関係者の想像力の貧困さを反映したものではある)、土地を担保に取ることが『確実な回収』と等号で結べるとされていたのだ。このアナリストの意見は正鵠を射たものではあると思うが、同時に局外に立ちすぎて"なぜ"(つまり"犯行動機")を見失っているのではないかと思った。
 「バブルのときに何に金を使えばよかったか」という問いとも密接に関係するだろう。その中には「ベンチャー企業に投資すればいい」という意見が散見された。しかしベンチャー企業に投じることが出来る資金は多くなく、また回収率にも問題がある。日長銀の元行員の「かつてベンチャーに大量の資金を投じたことがあったが、回収率は惨憺たるものだった」という指摘を知れば、ベンチャーに投資されなかったことを一概に非難は出来ない。残念ながら、日本ではベンチャーが育つ土壌が醸成されていないように思われる。
 村上は、これらの結果を踏まえ、バブル当時には土地以外に大量の余剰資本を吸収できる物件は無かったとする。銀行員たちは儲けに走ってバブルを引き起こしたのではなく、資金を消化するためにやむなく土地に走ったのだ、と。バブルの悲喜劇が銀行マンたちのまじめさによるものだとすれば、まことに日本的な状況だといわざるを得ない。
 銀行内部でも土地神話の危うさは盛んに指摘されていた。「土地が下がったらおしまいだ」という指摘は、既にバブル当時から散見されていた記憶がある。しかし銀行のノルマ主義という現実を前に、そういった市場の現実は無視されてしまった。一線の銀行マンたちの懸念の声は、ノルマ消化のための軍事機構とでも言うべき銀行組織の内部で消滅する運命にあったのだ。
 そう、バブルは'80年代という特殊な状況で用意されたものではなく、実は日本的な組織運営が抱えてきた時限爆弾が、あの日あの時に炸裂したものに過ぎないのだ。
 日本的組織の限界、あるいはその崩壊というものを白日の下に曝したのが、海外での日本金融機関の不祥事、そして海外企業による日本企業の買収だった。前者は海外の、つまり世界デファクトのモラルと日本的モラルの深刻なズレを、後者は日本型組織の自己浄化機能の低さを暴き立てる結果になった。日産、マツダのトップ人事は、日本型組織の限界を確かに示している。
 バブルの原因はどこに求められるだろう。村上は、'60年代も終わりに入り、日本の高度成長期が終わりを告げた時期に求められるのではないかという。日本はその時期に"大人"になったのだ。しかしその新しい経済的現実に見合った体制を作ることを怠ってしまった。これは社会のすべての階層、すべての人々に当てはまることだ。当時の人々は未来に関してのビジョンを持つことなく、ただ過去の継承という形でしか未来を生きることが出来なかったのだ。そしてビジョン無き社会が一気に破綻したのがバブル(バブルそのものが破綻だったといっていいだろう)であり、その後の荒涼とした焼け野原のような日本だったのだ。
 村上は「高度成長期の日本を心の拠り所にしてもいいのではないだろうか」という。あの時代、確かに奇跡のような経済成長を達成できたことを、日本人はもっと誇りにしてもいいのかもしれない。しかしあの時代の再現はもはや出来ない。日本は質的に違ってしまったのだ。
 村上が20代の読者を対象にした簡単な実験が面白い。'60年代に多い白黒画像の中の"日本"を見せ、感想を求めたのだ。彼らの感想は「同じ日本とは思えない」というものだった。そして同時代、あるいは直後に多いカラー映像に関しては、なんとなく今との均質性を感じているようだ。'60年代に巨大な断層があるという村上の感想は当たっているのだろうか。
 最後に村上は「生まれ変われるとしたらいつの時代がいいか」と問うた。答えは圧倒的多数の「現在」だった。このことは人間の本能的な保守性にのみ求めうるものではなく、恐らく現在ただいまがやはり住み良いという認識を反映したものだと考えて良さそうだ。そんな時代を築いたこと、そんな時代に生きていることを、もっと誇りにして良いのではないだろうか。村上はそういう。
 確かに、過去に戻ることだけは出来ない。昨日、「後退する勇気をもつべきだ」と書いたけれど、実際に実現可能なのは、過去を参考にした未来に過ぎないのではないか。
 我々は誰でも過去の苦さを感じている。アメリカはベトナム戦争に、イギリスは植民地経済に翻弄され、そこからようやく這い上がったのだ。そしてそれぞれの経験は貴重な知識につながったと思う。
 僕たちがやるべきことは、バブルという過去を忘れることではなく、その苦味を思い返しつつ新しい知識を創出することだと思う。そのとき、バブルは決して無益で有害な経験ではなく、いずれ通らねばならなかった道だと思い返せることだろう。


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