Strange Days

世紀を越えて

2000年05月21日(日曜日) 23時04分 テレビ

 今夜の「世紀を越えて」は脳死患者からの臓器移植をめぐる話題。
 脳死患者からの臓器移植は日本でこそ始まったばかりだが、欧米では既に日常化しており、毎年数千人の患者が臓器の提供を受けている。
 冒頭、脳死した男性から臓器を次々に摘出する現場が映し出されたが、まさに人間の部品取り、いや解体工場という感じだった。今や臓器だけでなく骨や皮膚まで利用されている。
 欧米では肉親の同意があれば臓器提供が可能なため、このように臓器移植が盛んになり、それが医療技術の発展につながってきたのだ。
 しかしこうした臓器移植の普及の陰で、提供する側と提供される側ぞれぞれの問題点も浮き彫りにされつつある。
 アメリカに住むある外科医は、重い心臓疾患に苦しめられた末、臓器提供を受ける事を決意した。そして提供を待つ間、彼には奇妙な性癖が現れたという。強盗や事故、火災といった悲惨な記事を追い、肉体は健康でも脳死を迎えた人を探すようになったのだ。それは彼には「ごく当然のこと」だと思っていたという。
 やがて心臓の提供者が現れ、彼は死の時期と宣告された3ヵ月前に移植を受け、そしてかなりの健康を取り戻すことが出来たという。
 しかし移植された心臓は彼に健康をもたらすと同時に、心の問題をももたらすことになった。
 移植された心臓は血管などの接続はされているものの、収縮パルス自身はペースメーカーで作り出しているようだ。そのため、心臓の鼓動は彼の心の動きとは独立して常に一定だ。奇妙なことだが、まるで一体感が感じられないという。「まるで体の中にエイリアンがいて、自分の生死を支配しているようだ」と彼は語る。
 さらに、自分が生きているのが正しいことなのだろうか問う疑問も拭いがたいものになる。一人の人間が死んで、一人の人間が生き長らえる。しかしなぜ提供者が死に、彼が生き延びることになったのだろう。そういういささか抽象的な悩みにも苦しめられた。彼は同じ悩みを抱いているだろう受領者の相談に乗るカウンセリングのボランティアにも関わっている。
 臓器移植は盛んになってはいるが、需給のバランスはいまだ需要の側に大きく傾いたままだ。脳死という概念を受け入れてきた西欧諸国では、もっとも大きな供給を見込める提供者、すなわち脳死者のうち、臓器提供に同意した割合を増やすためにあの手この手を尽くしている。
 オランダでは18歳以上の国民すべてに同意書を送付し、同意、拒否、同意の形態、そして提供する臓器などを決めさせる試みを続けている。国民はこの同意書をいつまででも保留できるのだが、それが大きな誤算を生んだ。いつまでも提出しない人が多いのだ。そのため、イタリアなどでは3ヵ月以内に提出することを義務付けている。しかもイタリアの場合、その後の同意内容の変更はかなり難しく、なおかつ一度提供を決めたらどの臓器を提供するか本人には決定権がない。これはイタリア憲法で国民は公共に尽くすこと、国家は国民の健康を国益として重視することが謳われているからだ。それにしても、これほど強制力を持つ法律を、しかも臓器提供という議論の余地が大きい分野で成立させるというのがすごい。日本ではまず成立しないだろう。しかも、これらの法律が成立している地域は復活の奇蹟を重視するカソリック圏なのだ。死体損壊に対する抵抗は、日本などよりもむしろ大きかったのではないか。これらの地域の政治にキリスト教が大きな影を落としているのは間違いないが、それを超克して新しい認識を切り開いていこうという西欧諸国の姿勢には、日本は学ぶところはあっても教えるものは何もないような気さえする。
 その西欧圏でも、脳死者からの臓器移植が一般化するにつれ、提供者の家族の提供を受けた人たちの事を知りたいという願いが顕在化してきた。
 元々、臓器移植では提供者と受領者のそれぞれが秘密にされる原則があった。臓器提供はあくまでも人の善意によるものであり、それがビジネスや他の関係を生み出してはならないと考えられている。だから双方に深い関係を築かないほうが良いだろうと考えられてきたのだ。しかし提供者の家族の「知りたい」という願いを無視しつづけるわけには行かない。提供者の脳死という最期をどうしても受容できない家族は数多くいるからだ。
 次男の臓器提供に同意したある家族も、それ以来次男の臓器の行き先を知りたいと願い、コーディネータに働きかけるようになった。当初、コーディネータからは、それぞれの臓器の提供を受けた人々の簡単なプロファイルが伝えられただけだった。しかし家族の方は次男の"死"にどうしても納得できないものを抱きつづけざるを得なかった。
 増えつづけるこうした声に、コーディネータたちも従来の方針を転換せざるを得なかった。様々な問題は考えられるものの、心の問題を放っておくことは、臓器提供という行為自身に悪影響を与えかねないと考えられたようだ。結局、双方に念書を取ることで対面を実現することにしたのだ。
 先の家族は、何人かの受領者の中から一人の女性に会うことができた。心臓の提供を受けたその女性も対面を希望したことから、ついに対面が実現することになった。
 提供者の母親は、感動的な対面の場面でその女性と抱き合った。「心臓が脈打っているのが感じられた」と母親は喜ぶ。彼女の息子の心臓は、別の生命を確かに支えている。
 ところが対面を果たした母親の認識は、ある部分で変化を遂げた。彼女が会ったのは他人に渡った息子の心臓なのではなく、息子の心臓を受け継いだ一人の女性なのだ。そのことを感じた母親は、ようやく息子の"死"を受け入れることができそうだという。
 僕が思うに、一人の個人から肉体の一部を部品のようにして取り出すというやり方は、今だけの一時的な方便に過ぎないように思える。クローニングや遺伝子改変技術のおかげで、別の動物から部品取りをするという技術が登場するのも、もう間もなくのことだと思える。恐らく、人間からの部品取りという抵抗の大きい方法にとった変わるのも、そう遠くない日のことだと思える。
 しかしたとえそうであっても、一人の人間の"部品"で別の人間が生き長らえるという事実が今あることに変わりない。それを一時の異常な現象ではなく、人間の生命をめぐる紛れもない一つの真実として考えることを怠りたくはないのだ。


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