Strange Days

今夜のテレビ

2000年05月28日(日曜日) 23時21分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「世紀を越えて」、"心の病"。近年、続発する巨大事故やテロ、幼児虐待などにより、深い後遺症に悩む人が増えている。なかんずく心の傷は、外からは容易にうかがえないだけに深刻化する傾向にあるという。
 人間は、大きな衝撃を受けると心が変形してしまい、元に戻るのに時間を要する。人間の心は柔軟で、十分な時間をかければ原状に復旧できる。しかしあまりに強い衝撃を受けたり、あるいは回復する暇がないほど続けて衝撃を受けると、回復不能に塑性変形してしまう。これを心的外傷、トラウマという。そしてこのトラウマが引き起こす心の異常な反応をPTSD、心的外傷後ストレス障害という。
 PTSDが引き金となって現れる異常行動の一つが多重人格だ。一人の人間にあたかもスイッチで切り替わるように複数の人格が入れ替わり立ち代わり現れる。多重人格の要因の一つが、個人では対処しきれない衝撃から心を守りたいという欲求だという。『この状況にあるのは自分ではない』と、あたかも傍観するような別の人格を想定することで、自分の心がこれ以上のストレスにさらされるのを防ごうとするのだ。その結果、個人の内部で別の人格が際限なく生成されて行くことになる。
 PTSDは肉体にも強い反応を引き出す。テロによる爆破で強い恐怖を与えられたある女性は、いまでも大きな音に対して押さえがたい恐怖を感じてしまうという。それだけではなく、心拍や血圧の上昇が現われ、理性的な判断が困難になってしまう。
 こうした生理的な反応の原因は、人の恐怖体験の記憶の仕方、そして感情を抑制する脳のメカニズムにあるのではないかと考えられている。人間の脳では興奮を促す機構とそれを抑制しようとする機構がせめぎあっている。前者を扁桃体が、後者を前頭葉が担っている。人は恐怖を感じると扁桃体の活動が活発になる。これが現実の恐怖ならば問題はないが、例えば映画などによる偽の恐怖でも活発になりつづけることは、心に大きな負担を与えてしまい良いことではない。そこでその恐怖が真に存在するかどうかを前頭葉で理性的に判断し、しかるべき抑制を加える。ところが、あまりに強烈な恐怖体験は、脈絡の無い体験の固まりとして記憶されてしまうため、前頭葉で処理できなくなってしまうというのだ。
 PTSDによるストレスは、脳の機能にも障害をもたらす。人間の脳はあちこちの部分がそれぞれの機能に沿って処理した情報を統合して活用する超並列マシンだ。この情報の統合を行うのが海馬という部分だ。ところが海馬はPTSDによるストレスに弱く、長期間にわたってストレスが加えられると、萎縮して機能を減退させてしまうことが知られている。その結果、人の心の統合が緩み、人格乖離や、PTSDが顕著になってしまう。
 これを克服する手段の一つが、かつて受けた強い衝撃の原因となった出来事を言語化することだ。言語化することで前頭葉での判断が可能になり、抑制できるようになる。しかし恐怖体験を思い出すこと事体が苦痛なので、それを克服する作業は容易ではない。
 一方、萎縮した海馬を修復する手段として注目されているのが、セロトニンという物質を投与することだ。セロトニンは人間の情動を平静にする作用があり、海馬にダメージを与えるストレスを抑制することができる。すると海馬の神経組織が回復し始めるのだという。人間の不思議な、しかしすばらしい機能の一つだ。
 セロトニンは投与しなくても人間の脳に自然に存在する。その分泌を促すには、人の心を落ち着かせて平静にしてやることだ。そのことによってセロトニンが分泌され、ますます平静になってゆく。従って心的外傷を負った人の心を癒すには、その平静を取り戻してやるという伝統的で直感的な治療法が正しいことになる。
 以前、自分はPTSDだと主張する人とメールをやり取りしたことがある。以前、NIFTYにいた頃、そのフォーラムの一つで知り合った人だ。その人は周囲と軋轢を起こしやすく、その原因は自分には無いと主張していた。当時の僕は見るところ、その人自身の支離滅裂な主張に周囲が振り回され、当然の帰結として拒絶に遭っただけだと考えていた。自らがどれほど論理的に破綻していても気づかない末期的状況だった。しかしそんな暴走の果てにあったのは、自分を受け入れてくれなかった周囲(主にフォーラムの運営陣)を告訴するという恫喝だった。これでは多くの人が見放してしまうはずだ。僕は多少なりとも説得を試みたのだが、結局手におえなくて引き下がらざるを得なかった。未だに尾を引いている、苦い体験だ。
 僕はフォーラム制というものを憎みつつも、この事態に巻き込まれた運営陣には同情せざるを得なかった。彼ら自身は概ね善意の人々だったからだ。
 しかし、この時どうすれば良かったのだろう。他に道はあったのだろうか。決裂を回避しつつ一人の人間のために他のすべての人々を犠牲にすることも、逆に一人の人間を切り捨ててしまうこともしないで済む道は無かったのだろうか。経済効率とか社会正義というものがそれぞれ登場してくると「無い」という事になってしまうのだろう。しかし粘り強く対話を続けていけば、何かしらの進展があったのではないか。
 その時、一番いけなかったのはフォーラム制の官僚主義と経済効率を押し付けたNIFTY自身、そしてそれを求めて一連の事件を黙殺し早く無いものにしたいと無言の圧力をかけた一般会員ではなかっただろうか。それぞれが当事者同士の解決に時間を与えなかったことが、無惨な決裂へと至ったように思えてならない。せめて周囲の人々が双方の対話継続に好意的な反応を示していたらと思う。彼らに時間を貸してあげられたならば。こんな風に責任が運営陣に集中してしまうことがフォーラムという官僚制度の限界であり、それを越え得なかったことがそのフォーラムを構成していた人々の限界だったのだろう。
 しかしなぜ対話の継続というサインを出せず、むしろ阻害する方向へとサイレント・マジョリティは動いたのだろうか。僕はそこに心の病への根強い無理解があると思う。先のPTSD(と主張している)の人は、元々論理的に支離滅裂なのではなく、感情をまったくコントロールできないのだ。だからこそ大量の感情的記号を含有した文書ばかり書いていたのだと推測する。従ってその人に対して必要だったのは受入れること、それが不可能ならば好意的に中立する事だったと思う。心の平静を取り戻す時間を与えてやるのだ。この両者が困難なのは言うまでもない。支離滅裂な主張を繰り返し、論理的な矛盾を指摘しただけで攻撃してくる相手には、中立でいる事さえも難しい。しかし精神の病とはそういうものだ。バランスを失った精神は退行するか、攻撃的になってしまう。そして僕たちは大なり小なり同じ病を抱えている。それが顕在化しやすいかどうかの違いでしかない。だから拒絶は、その場に心の病への拒絶という負の遺産ばかりを残してしまい、僕たち自身に病の顕在化への恐怖という新たなストレスを付け加えてしまう。
 継続する事は重要だ。しかし支離滅裂な要求は拒絶しなければならない。受入れつつはね付けるという態度をじっと我慢しながら続けなければならない。聖職者以外には不可能そうに思える。
 しかし多くの人が少しずつ分け合えばどうだったろう。何万人も要らない。せいぜい10人ほどが参加すれば事足りたのだろうと思う。それには心の病に関する深い理解までは不要だ。自分もその一人かもしれないという共犯関係への認識と、少しばかりの同情が必要だったのではないだろうか。もしもそんな事が可能だったならば、フォーラム制にだって少しは価値があったのにと残念に思えてならない。


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