Strange Days

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2000年08月06日(日曜日) 22時45分 テレビ 天気:晴れ BGM:HIROSHIMA MON AMOUR/ALCATRAZZ

 またもや爆睡に次ぐ爆睡に尽きた一日。Diablo2やりすぎです、はい。
 さすがに夕方には起きだして、いずみ野方面にちと散歩。本屋に寄って軍事モノのコーナーで立ち読みし、WW2終結時の帝国海軍残存艦艇について当りをつけた。
 帰宅して、夕食を取ってベランダに双眼鏡を持ち出したが、今夜は雲が多くて観望は断念した。そう毎日好機が続くわけがないのだな。
 21:00からのNHKスペシャルは、「オ願ヒオ知ラセ下サイ」。日が日だけに広島の原爆投下にまつわる話題だ。
 広島市街にある袋町小学校は、原爆ドームから500mの位置にある。原爆投下当時、この学校の校舎も大きな損害を受けたが、焼け残った校舎を利用して臨時の救護所が設けられた。
 最近、この校舎がついに取り壊されることになった。そこで壁に塗られた漆喰の一部を剥がしてみると、その下に被爆当時に書かれたと見られる伝言があった。調査のために慎重に壁の上塗りなどを剥がしてゆくに従い、新しい伝言が次々に見つかった。被爆当時、この校舎に人探しの伝言が多数書き出されたことは知られていたが、現代にいたるまで残されていたというのは意外なことだったという。
 広島市のある女性は、その中に姉の名を見出した。その姉は被爆時、路面電車に乗り合わせていたことが分かっている。しかしその後の消息は不明で、今に至るまで生死が確認されていない。女性は、姉が市電から這い出して、川原で息絶えたものと考えていた。それほど苦しむ時間がなかったろうと、そればかりを救いのように考えていた。ところが、やや離れた袋町まで姉が運び込まれていたとすれば話は別だ。姉はかなり苦しんだかもしれない。女性は、そのような複雑な感情を抱いたという。
 しかし、専門家が参加しての解読作業により、実は名前の誤読であることがわかった。そのことを知らされたこの女性はさほど落胆の色を見せなかった。姉はやはりさほどの時を置かずに逝ったのだろうと考えられるからだ。
 誤読された本当の名前の持ち主は、実は袋町小学校の近隣に建つ医院に住み込みで働いていた、別の女性のものであることが分かった。伝言を書いたのは、この女性の世羅郡に住む母親だった。女性の家族は、被爆直後から何度も女性を探しに来たのだが、ついに探し出せず、遂に女性が死んだもの考えるようになった。しかし母親だけは諦めきれず、娘の消息を尋ねる伝言を書き残したのだった。
 情けない話だが、番組を見ながらやはりどうしても目頭が熱くなるの抑えきれなかった。こういう話にはどうにも弱いのだ。被爆直後の極限下で、それでも家族の消息を必死に求める人々の姿には、どうにも心が動かされてしまう。しかしこうした体験を伝えることは、果たして核兵器を無くすという被爆者たちの悲願に、どれほど役立っているのだろうか。
 昨夜のNHKスペシャルで取り上げられたように、核兵器廃絶という目的に大きな意味を持つのは、実は国家と国家の利害を巡っての駆け引きなのだ。新アジェンダ連合を動かしているのは広島、長崎の被爆体験などではなく、核兵器という巨大な火力に自国の国益が損なわれるかもしれないという恐怖なのだ。細かい部分を端折れば、ほぼそういってよいように思う。もちろん、新アジェンダ連合に連なる国々も知識としては日本での被爆体験を心得ているだろう。しかし自国から遠く離れた、しかも過去の死者がどれほど多かろうと、それは自分たちの利益と関わりの薄い事項でしかない。被爆体験という細々とした肉声を除いた数字の塊だけが、これらの国々にとって意味を持つに過ぎない。自国でも同じだけの死者を出すかもしれないという被害可能性だけがこれらの諸国に共有され、非核へと向かう原動力になっているのである。被爆体験は、各国の国益に沿って都合よく類型化されているのだ。
 しかし、実は「被爆体験の類型化」というのは、その発信元である日本でさえも既に進行しているのではないだろうか。僕たちが接する被爆体験は、必ずといってよいほどその悲惨さと残酷さを伝えるものだ。だがなにかがすっぽり抜け落ちてはいないだろうか。それはそのような運命をもたらした者たちに対する「怒り」だ。
 被爆者たちは、そして彼らを目にした人々は、そのような残酷な運命を強いた大日本帝国、そしてアメリカ、さらには当時の世界に対する怒りを抱かなかったのだろうか。そして彼らに直接的に報復しようとは考えなかったのだろうか。
 僕が目にする「被爆者の怒りの姿」といえば、平和公園での座り込みと、世界中の大都市で行われるデモ行進だけだ。だがそれらのお行儀の良い抗議行動が伝えられるものは、「被爆者の悲しみ」といったようなお行儀の良い、清められた「怒り」に過ぎないのではないだろうか。例えばアメリカにとって、自国民でもない日本国民がいかに苦痛を感じようとも、自国の国益になんら影響が無ければ無視しても構わない事項だ。広島、長崎で繰り広げられる抗議行動にせよ、あちこちの政治団体が主催するそれにせよ、アメリカにとっては安保闘争ほどの深刻さすら持たない政治行動に過ぎない。もしかしたら、ある種の風物詩としてすら見ているかもしれない。そして原水禁だの原水協だのといったふうに、政治団体別に無意味に並立する抗議集会の意味付けは、まさにナマの怒りとはかけ離れた純政治的行動に過ぎない。共産党風の、社会党風の「怒り」などにわずかでも意味はあるのだろうか。愚行というほか無い。
 被爆体験にはもっと伝えるべき形があったのではないだろうか。それは例えば、被爆者一人一人が拳銃を手にし、昭和天皇や旧軍部を、そしてアメリカのトルーマン、メイ、アインシュタイン、ファインマン、さらにはエノラ・ゲイの乗員などを暗殺に向かう。そのような直接的な行動でしか伝えられない種類の「怒り」こそが、実は核保有国にとって最大の脅威になりうる「怒り」足りえたのではなかっただろうか。単に「被爆しました。悲しかったです」という作文を送りつけるだけでは、例えばライフ誌のベトナム報道写真ほどの訴求力も持ち得ないだろうと思うのだ。こう考えてくると、被爆体験の持続性というものに対して絶望的な想いを抱かざるを得ない。
 いずれにせよ、被爆者の平均年齢が70歳を越えている今、生の被爆体験が滅却されていくのはもう避けられないだろう。本当に非核の世界を目指すのなら、原爆記念日のたびに金切り声を上げているという様式化された方法論は、いいかげん見直さざるを得ないのではないだろうか。


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