Strange Days

障害者の家族であるということ

2000年09月08日(金曜日) 22時01分 思考

 インターネットを流離っていると思わぬものに突き当たる。今日もなにかエロエロなものを追い求めて流離っていたのだが、なぜだかなぜか心身障害者を妹に持つ女性の手記のようなページに到達した。
 その女性は物心ついた頃からその妹の世話をすることを期待され、また強制されもした。それはその女性の精神にも強い影響を与え、やがては妹の面倒を見ることが人生全体にわたる課題のようになってしまった。友達と遊びに行く約束をしても妹の面倒のために断らねばならないことが多々あり、またそもそもそんな外向きの約束をする余裕などないほど妹の世話に拘束されたという。中学校の頃には「医者になって妹の面倒を見る」事が将来のコースとして設定され、その通りの道を歩くことが家族から期待された。彼女はある程度までその期待に応えようとしたのだが、恋人を持つことも友人と外泊することもままならぬ生活に嫌気がさし、母親と喧嘩を繰り返すようになった。この母親は自分自身も障害者の我が娘に拘束される生活を続け、それを受け入れている人だ。それ故、娘の態度が「自分の妹のことなのに」と大変気に入らず、自分たちが望むコースを娘が辿らぬことに怒りを抱いている。自分が当然のこととして受け容れている境遇を、同じ家族である娘が拒むのが怒りの原因だ。
 この女性は医大には入らず、環境関係の学部に入った。しかし結婚を両親に反対されたのをきっかけに、とうとう家を出て自殺を考えるようになる。そこで彼女はフェミニズムと出会った。しかし男性への怒りのみを漲らせたフェミニストと同じ道を行くことは出来ず、結局は「障害者介護が充実していれば」という思いからより社会的な運動に参加するようになったという。そして障害者の妹は施設に預けてしまった、ということだ。
 かなりこの女性に同情した書き方になってしまったが、客観的には家族を見捨てて自分の思う道(それも社会運動などというキレイ事)に進んだわけだ。恐らく、この「手記」を読んだ人の何割かが自動的に「身勝手だ」という印象を抱くだろう。
 この人は自分に与えられた境遇に背を向け、そこから生じる様々な義務をも見捨てて、自分の生き方を優先したわけだ。誰もが生き方を選べないという言説が説得力を持つ以上、それを論拠にこの人をなじる考えもそれなりの説得力を持つと考えるべきだろう。誰もが望んでいる人生を歩んでいるわけではない。誰もが嫌な義務を果たしているのだ、と。
 しかし、ちょっと待って欲しい。万人が障害者の家族というわけではない。せいぜいがクラスメートに障害者を持っていたという程度だろう。そんな僕たちに、肉親が障害者であるという意味を理解できるのだろうか。
 ちょっと考えただけでも、家族の介添えとして24時間身近にいなければならないという生活が、個人にとって恐るべきプレッシャーになることは想像に難くない。そのような生き方をこの先もずっと続けなくてはならないとしたら、絶望のあまり死を考えたくもなるというのもありうるような気がする。同じように障害者を家族に持つ人からみても、果たしてこの女性の感じたプレッシャー、絶望は理解できるかどうか確かではない。似たような境遇にあっても、周囲の反応でプレッシャーは変わるものだと思う。例えば、両親が他の家族の生活のために(その障害者である家族を)早々に介護施設に預けてしまうという選択肢もありえたわけで、それを実践する家族があったとしてもおかしくはない。この女性の場合でも、全く同じ状況にある母親との認識には大きな隔たりがある。母親はこのような生き方以外に無いと思い込んでいるのに対し、この女性はそれ以外の生き方をも希求するようになったわけだ。苦悩の根源もそこにある。他の人と同じように生き方を選びたいのに、障害者である家族が足かせ(あえてこう書くけれど)になり、思うように生きられないわけだ。施設に預けることが障害者自身にとって不利益になるとは限らない。充実した専門組織によるケアは、家族によるそれに勝るとも劣らないものになるだろう。愛情が心が、といったところで、果たしてすべての家庭にそれがあるかどうかは定かではない。
 障害者自身の幸福と家族である自分たちのそれを両立させられるように、社会の援助の手が欲しいと思うのは当然のことだと思う。そこで介護施設の充実を、という思いに繋がるわけだ。しかしそこでここまでほぼ無関係であった僕たちにも影響が及ぶことになる。ありていにいえば、障害者介護の充実は、新たな社会負担をもたらすことになるからだ。
 この事を僕たち障害者の家族を持たない者の側から考えてみる。障害者介護を充実させてその家族を解放することは、それら家族の社会への進出を促すものだ。今まで社会に貢献できなかった才能を役立たせることが出来るかもしれない。それは社会の利益に繋がるだろう。めでたしめでたし。
 だがこのような割り切り方にはなにか抵抗を感じる。ヒトを社会貢献度などというモノで量ってしまう行為は、果たしてこのように濫用されてよいモノなのだろうか。なにか同情のような、この場合は障害者と家族全体を見守る慈悲(という表現はなんだが)のようなモノがなくては、僕たち自身がやりきれなくなるのではないだろうか。情を法や科学的視点から捌くのが現代社会ではあるけれど、家族というあくまでも個人的な空間に立ち入る以上、そのような眼差しが必要とされるのではないだろうか。僕たちがそのような眼差しを持つことが、障害者介護に先だって必要とされているのだと思う。もしもそれが僕たちに共有されていたら、この女性だってこれほどまで悩まなくて済んだのかもしれない。様々な約束よりも家族の安全を優先せざるを得ない。そういう了解があれば、障害者を家族に持つことから来るプレッシャーも、ずいぶんと軽減されただろうにと思う。


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