Strange Days

祈る

2000年09月25日(月曜日) 17時59分 思考 天気:くもり時々晴れ

 オリンピックたけなわ。各地では自国チームの勝利を祈る人々の姿が見られる。などと見てきたように書いたが、まあ概ね間違ってはいないだろう。
 祈る、ということに関して、面白い記述を見つけた。どこぞのデザイナーの人が、教育に関わる親の事に関して書いたものだ。その人は海外での暮らしの中で、先進国の人々が子供の教育に無関心なことに驚いたという。その象徴的な出来事として、多くの人が子守唄を知らないということを挙げておられた。
 このデザイナー氏は、「子守唄とは結局子供が健やかに眠れるように祈ることだ」と感じたという。子供は大人の思い通りにはなかなかならない。眠らせようとしても思うように眠らずぐずついたり、お話を求めたりする。そこで大人は子守唄を歌う。適当にあやしながら子供のために祈る。子供が寝入ってもまだ歌っている。大人は祈りつづけることで、子供をあやすことからのストレスを免れることができる。このような子守唄は、先進国よりも物質的に貧しい発展途上国に残っている。このデザイナー氏は、日本でも多くの親が子供のお受験などでジンクスを担ぐ様を目の当たりにし、日本ではまだまだこの「祈り」が生き残っていると感じたという。
 まあ子供云々はいいのだ。このデザイナー氏の話で面白いと思ったのは、祈りとはままならぬ現実を前に心の平安を保つ方法の一つだ、としたことだ。人はなにかの課題を前に解決を図る。自力で、合理的な解を求めようとする。しかし現実は、必ずしも合理的な解を用意していてはくれない。むしろしばしば不条理としかいえない状況に陥ることがある。宇宙は人間にほぼ無関心だ。そこで太古、人は祈るという行為を生み出したのだろう。解を見出せないまま、その解決を超自然的な存在に委ねる。こうすることで人は最後の最後で責を免れ、心に平安を取り戻すことができる、ということだろう。
 しかし先進国で生まれ育った人々(僕もそのグループに入るのだろう)は広く普及した近代的な教育の中で、常に合理的な解を選択するように訓練されてきた。否、世界には常に合理的な解が存在するという強迫観念を植え付けられてきた。しかし厳然たる事実として、僕たちを取り囲む世界には、どうやら合理的な解など滅多に無いようだ。合理、などというものが成り立つのは、一部の人間の偏狭な認識の狭間でしかない。自然現象を前にしたとき、そうでなくとも他者と相対したとき、そこに合理的な解があるという保証は何もない。そのことを先進国に生まれ育った僕たちは忘れがちだ。なぜならば、僕たち先進国の人間は、人間自身が生み出した様々な合理、すなわち科学知識や宗教という体系、あるいは圧倒的な物質文明の真っ只中に生きているからだ。人が設計したビルの中で暮らし、人が施工した水道の水を飲んで生きている間は、僕たちは自分を取り巻く世界が不条理の塊であることを忘れていられる。しかしひとたび地震でビルが揺らぎ、想定しなかったような災害が巻き起こるときに初めて、僕たちは合理というものの限界を思い知ることになるわけだ。
 しかし物質的に乏しい発展途上国の人々は、生きる上でこの人間が生み出してきた合理の枠を、日常的に踏み外さざるを得ない。ままならぬ現実と日常的に向き合わざるを得ない。だから彼らは祈るという行為を日常的に遂行しているわけだ。そしてそれは、人間の心の健康を保つための、「合理的」な解決策でもあるのだろう。
 僕には超自然的な、しかも人格的な存在などあるはずもないと思えるが、それなのに僕もしばしば祈るのである。しかしいまや祈りの価値は省みられることもないほど下落しているようにも見える。もしも僕たちの周りに祈る人の姿が増えるとしたら、それは今以上に困難な時代の到来を意味すると考えて間違いないだろう。


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