Strange Days

猛烈なる安っぽさ~篠原有司男展

2005年10月02日(日曜日) 19時26分 思考 天気:晴れ

 さて、今日くらいはちょっと走ってこようかな。昼過ぎ、長後のCoCo壱番屋で久しぶりにカレーを食って、境川沿いに下り始めた。自転車はMasterXLだったので、今からでも葉山まで往復するのは余裕のはずだ。葉山の神奈川県立近代美術館葉山館に行ってくるつもりだった。
 しかし、この陽気が俺様の脳髄に染みとおってくる。逗子~葉山の狭い道を、必死に走るのはアホらしい。もういいや、鎌倉館の方に行こう(意志力皆無)。鎌倉館には、まだ入ったこと無いしな。
 鎌倉までは、海沿いルートを走った。鎌倉までは、色んなルートを通ってきたが、結局はここがいちばん楽なのかもしれない。道幅が十分あるのと、ほぼ平坦だからだ。車は鎌倉駅裏に続く道の方が少ないが、狭くて車と張り合わざるを得ないのが難点だ。
 鎌倉館の駐輪場にMasterXLを停め、900円なりを支払って入館した。ちょっとお高い気はしたが、これで別館も入れるのがお得なところ。
 鎌倉館での催しは、篠原有司男展だった。このオッサン知ってるぜ。ペンキまみれになりながら、白いキャンバスをバシバシ殴りつけてるのをテレビでやっていた。
 入ると、いきなり大判のキャンバスにド派手な色彩がぶちまけられたような、奇妙な絵に出くわした。この人、基本的に小さなものはあまり描かないようだ。見ているうちに、頭がくらくらと酩酊してくるような色彩だ。それも、悪酔いの方だろう。
 毒気に当てられながら、次の作品を見る。最初の展示室には、大判の絵の他、大きなモータサイクルのオブジェもあった。これが潔いくらい、正面斜め前からの観望"だけ"考えているような代物だった。すげえデフォルメだなと思いつつ、ちょっと毒気に当てられた気分で次に。
 ほとんど、こういう作品ばかりだった。そして問題のボクシングペイント。なんというか、こんにゃろこんにゃろこんにゃろこんにゃろこんちくしょー、という芸術家の意気込みだけが伝わってくるようなものだった。
 それにしても、全ての作品に共通する安っぽさはなんだろう。木材とアクリルボードと襤褸切れで出来たようなオブジェ、わざわざ見るのが嫌になるようなものばかりを選んだような色彩。
 しかし、見ているうちに、これは芸術家がまさしく意図したものではないかと思い始めた。確かに全てが安っぽい。しかし、そこに置かれている作品の一つ一つには、表層的な安っぽさなど吹き飛ばしてしまうような、中から突き上げてくるような迫力が漲っている。オブジェはそのマスをずっしりと感じさせられるし、絵画は描かれた者たちの烈しい主張に打ちのめされるようだ。後期になるほど、登場人物のモンスター化は進んでいるようで、とうとう目ん玉が飛び出してまでくる始末だ。だが、人間がモノから感じる質感*1は案外に騙しやすいもので、往々にして宛にならんという場面もある。これらの作品群は、そうした表面的な質感を内からぶち抜いて、その主張するところを適当かつ乱雑にワーッと叩きつけるような、異様な迫力がある。『汝、クオリアに騙される無かれ』、という芸術家の強い主張を空耳したような気分になった。お高く留まった高踏芸術の対極にあるだろう。とはいえ、ほとんどの作品を前にしての僕の態度は、アホのようにぽかんと見上げているばかりだったのだが。
 一通り見終わって、外へと抜けてゆくところで、一人のオッサンが館員を前になにやら滔々と述べているところに出くわした。美術館でこれは迷惑だな、と思いつつ、外に出た。そこで気づいたのだが、もしかして、今のオッサンこそが、恐らくは篠原有司男その人だったのでは無かろうか。
 ついでに別館にも立ち寄る。ごく近所だろうと、歩きにくいSPD-SLなシューズのまま、徒歩で向かったのだが、案外に遠い。北鎌倉への道の、傾斜が始まった辺りにあった。
 別館では『彫刻家のペーパーワークと彫刻展』が開かれていた。国内の現代彫刻家たちの作品と、彼らが書いたペーパーワークとが展示されている。彫刻家の中には、もちろんいきなりモノと格闘する人もいるのだろう。でも、多くの彫刻家は、まず頭の中で、そして次に紙の上に、モノとして表現すべき作品の構想を描くのだろう。この展示では、そうした企画としてのペーパーワークも多かった。しかし、一つの作品として独立したものも多かった。
 彫刻家が紙に描くという行為は、多分芸術家としての素養の一つであって、前提条件とさえいえるのだろう。だから、デッサンの一つであれ、もちろん作品としてであれ、プロとしての手馴れた手業を感じさせるものばかりだ。だが、紙に書かれるものには、実際には現実世界では表現不可能なものもあるはず。僕は、そういった彫刻家たちの"粗相"を拝めるのではないかと期待していたのだが、案外にそうしたものは皆無だった。もちろん、作品として描かれたものには、現実には不可能なものも多かったのだが。しかし、あくまでもデッサンの一つとして紙を扱った作家、作品としてモノと同列に扱った作家、様々だったが、モノの質感を越えるものはなかったように思えた。
 日暮れ時の境川を戻り、帰宅した。


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