Strange Days

犯罪被害者は訴える

2000年10月14日(土曜日) 22時02分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、犯罪被害からの救済に自ら立ち上がり始めた被害者の話題。
 特に'90年代に入ってから、犯罪被害者の救済という観点から法律のあり方が論じられるようになってきた。死刑廃止に関する論争でも感じられることだが、犯罪者をどう処分するかという観点からは熱心に論じられるのだが、その被害に遭った人々に対する処置は往々にしてなおざりにされてきた。被害によって肉親を失い、あるいは心身ともにダメージを受け、精神的にも経済的にも困窮しがちな被害者に対しては、人権保護に熱心なはずのNGOも結果的にはほぼ無関心に見過ごしてきた。
 こうした境遇に貶められてきた犯罪被害者たちが、ついに立ち上がり始めた。今年、被害者たちが全国的に大同団結した組織が設立され、各政党への働きかけを開始したのだ。会長を務めるのは、自らも妻を殺害された犯罪被害者である老弁護士だ。
 老弁護士は、これまで三十数年にわたって法廷での弁護に参加し、もっぱら犯罪者の権利保護に尽力してきた経験をもつ。老弁護士は、その過程で犯罪被害者の気持ちを踏みにじってきたかもしれないと回顧する。「泣く泣く示談に応じた被害者もあったでしょう」と。彼はそんな被害者の立場の弱さを、自らが犯罪被害者になってやっと分かったという。
 刑事裁判は、被害者による犯罪者への報復という機能を極力排除することを狙っている。刑事裁判の目的は、実は犯罪者による国権侵害、あるいは治安撹乱を罰することに他ならない。また刑罰の内容も報復を目的としたものではなく、あくまでも犯罪者の更生を目的とした教育主義的な機能を担っている。この辺は死刑制度の特異さとの関連でよく語られる部分ではある(死者をどう教育するというのか)。
 では被害者が立つ位置はどこなのだろう。実は被害者の立場はどこにも無いのだ。刑事裁判においては犯罪者と国家という立場のみが存在し、被害者の立つ場はどこにも無い。刑事裁判において、国家、あるいは犯罪者(こっちは滅多に無いだろうが)が求めない限り、被害者が法廷に立つことはありえない。目の前で被害者が辱められても、一言の反論も許されないのだ。またそもそも損害賠償を請求することも出来ない。
 こうした日本での刑事裁判のあり方に対し、諸外国はどうだろう。実は欧州では被害者(あるいはその代理人もありうるだろう)が検事と同席するという形態が広く見られるという。被害者は事実認定の過程で意見を陳述する権利を認められ、さらに損害賠償をも併せて求める権利が認められている。この制度は日本にも導入されるべきだとの意見があり、自民党などの後押しにより、法務省での検討が進められている。また犯罪被害者への裁判記録の開示などを盛り込んだ初めての指針も示されている。
 被害者が裁判に参加する権利を積極的に認めることは、その心理的な窮状を救済するのに役立つだろう。しかしそこには犯罪者対被害者という構図が再度生じ、近代的な法制度が否定してきた私刑的な意味合いが復活しないだろうか。特に陪審員制が導入されるとなると、ますます私刑的な意味合いが濃くなるのは否定できないように思う。それを検事のコントロールによって払拭しようというのだろうが。
 そもそも、被害者たちがもっとも困窮しているのは、経済的な意味合いにおいてである。被害者たちは公共的な救済制度が欲しいと願っているのである。
 犯罪被害者への視線が、せいぜいその憤りという観点(だいたいは殺人者が存在するのに死刑を廃止してよいのか、といった類の論議で見られる)にとどまっていたのは、犯罪の多様さに対し、その被害者の困窮のあり方も実に様々だという事実に拠っていると思う。それ以上に、被害者への眼差しに、その根源にあるべき共感と想像力が欠如していたのだと思う。僕自身、被害者は悲しみに暮れながらも日常をまた送っていくという、あまり根拠の無い漠然とした予想を持っていた。しかし事実は元のような日常を二度と送れなくなり、また時にはいわれなき中傷にも傷つけられるというふうに、精神的にも経済的にも困窮してゆくのだ。これを救済する公共の制度が望まれるのは当然ではないだろうか。自己責任において破綻した私企業を救済するのに何千億円も使うよりも、僕たち自身がいつか同じ立場に立つかも知れない被害者を救済し、その本来の能力を社会に生かせる方向に使う方が、よほど実りある金の使い道というものではないだろうか。それは、僕たちが漠然と抱え始めている、不条理な犯罪に対する恐怖感を、いくらかでも軽減してくれることだろう。


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