Strange Days

少年犯罪にどう対応するのか

2000年12月05日(火曜日) 23時55分 思考

 以前から「犯罪者、特に少年犯罪者はその後どうなるのだろう」ということに関心があった。刑事法学的には、犯罪者はその罪の重さによって刑が定められ、その刑を終えて世に出てきたときには更生して真人間に戻っているとする。まあその間に収監者の態度を計るような仕組みもあるわけだが、平たく言えばこういうことになるだろう。だが本当に更生しているのだろうか。そういう疑問は誰だって持っているはずだ。
 一応、性犯罪者の再犯率は高いとか、そういう統計的なデータはある。しかし僕は個々の犯罪者が、その後どのようにして更生できたのか、あるいはできなかったのか、そのナマの実態を知りたいと思った。
 まるでそんな声が届いたかのように、テレビ朝日のニュースステーションで、かつてあった殺人事件の加害者と、被害者の遺族のその後を追うという企画があった、らしい。らしいというのは、検索にヒットしたのはその番組を見た視聴者からの声を集めたページで、当の番組は先週のうちに放映されてしまっていたからだ。そんなわけで、直接の感想ではなく、その番組を見た視聴者の反応を見ての感想ということになってしまう。
 その番組では、事件の経緯、加害者の一人が語る事件当時の心の動き、そして少年院を出所してからのことが、本人の口を通して語られたらしい。また別の加害者の一人が家に閉じこもって、家族にも社会にも向き合えていない現状が語られたようだ。
 そのページでは、様々な点に非難が集中していた。事件について語った加害者("彼"とする)があまりに淡々と事件を客観的に語りすぎた点、そんな彼が今は結婚して子供まで設けている点、遺族が当初「放映しないで」と申し出たのに番組の放映が強行された点、そして番組側の総括があまりにもありきたりな点に、多くの人が怒りを表明していた。僕はそのページの意見を一つ一つ読み、時々熊のようにうろうろと歩き回りながら、しばらく考え込んだ。

 この事件は有名なので、ある年齢以上の人は知っているだろう。数人の少年たちが、何の関係も無い一人の少女を拉致し、一月あまりも性的な暴力を加えつづけ、挙句の果てに殺害して死体をドラム缶に詰めて捨ててしまったという事件だ。およそ良心というものを持つ人間には想像することすら耐えがたい、無惨な事件だった。この少年たちは野獣のような存在で、完全に狂っていた。
 多くの視聴者の意見のうち、かなりの部分を占めるのは「どうして犯罪者をのうのうと生かせておくのか」というものだった。「社会に出すべきではない」、「同じような目にあわせてやりたい」という声が多かったように思う。このような声が出る背景には、現在の少年法や刑法への不信があると思われる。視聴者からの反応に多量に含有されていた「厳罰主義」の主張も、そうした不信を背景にしている。
 少年への厳罰を望む声が大きいのは、こうした犯罪少年たちに二度と社会に出てきて欲しくないという希望を表しているのではないだろうか。というのは、厳罰主義には限界が無いからだ。たとえば今回の少年法の変更で、逆送致処分の下限年齢を14歳に改めたが、それでも14歳以下での凶悪犯罪を起こす特異例は発生するはずだ。するとそうした特異な少数例がマスコミによって扇情的に取り上げられ、さらに引き下げるような圧力が生じるはずだ。しかしこの方向には限界がある(年齢には下限があるので)ので、次は拘置期間の延長という方向に必然的に向かうだろう。実際、前記の視聴者たちの声には、拘置期間を延長せよという主張の方が圧倒的に強い。すると拘置期間を延長する方向に働き始めるだろう。しかし厳罰、というのは、ある基準に比べて厳しいということだ。この場合、今まさに実施されている処置に比べて、さらに厳しいものを望むことに他ならない。すると以前より厳罰化された新基準よりさらに厳しいものを望む主張が現れ、さらに厳罰化が進められてゆきかねない。その結果、少年たちが僕たち(特に厳罰主義者)の前に現れることはずっと先か、あるいはその機会がなくなるだろう。厳罰化を主張する人々の根源には、そのような希望があるのだと思う。「殺人犯はたとえ少年でも死刑にせよ」という主張が散見されるのは、こうしたニーズの極限にあると思って良さそうだ。
 厳罰化のもう一つの意味は、その犯罪責任の按分を本人に多く負わせることにあると思う。犯罪の主体は個人なのだから、その個人が責任を免れうるとは考えられない。しかし、その周囲の環境、特に人間関係というものを無視して本人責任を設定するのも馬鹿げた話だと思う。
 実は本人の責任を強調することは、そう強調する人を含む社会による関与、責任を低減させることを意味するのではないか。つまり、当人の責任を極めて大きく捉えようとする声は、実は自分自身がこの事件のプロモーターに回っているという事実を否定しようとする心理の現われではないだろうか。僕らにだって同じ社会に生きる他人、特に少年たちに様々な注意を促す義務があるはずだ。「罪は罪」と叫ぶ(そう、ほとんどすべてが怒りに満ちた"叫び"なのだ)人々は、自分自身はそういった義務をまったく果たせていないという負い目を否定するために、そうしているのではないだろうか。
 もちろん、環境の責任を重く見すぎることは逆の効果もあるだろう。事実は二つの立場のどこかにあり、犯罪に環境が関わっていること自身は否定しようが無い。

 特に厳罰化を望む人たちの意見を読んで驚くのは、事実関係をまったく調査していないらしいということだ。たとえば、少年法改正反対を主張する人々に対し、「人権屋」というラベリングを行い、そして「被害者の気持ちをまったくわかっていない」と一刀両断にする。しかしその人権屋(とされるのは例えば日弁連だろう)ほど被害者救済の必要性を痛感している人々はいないのではないかと思う。というのは、少年法や死刑廃止の論議に絡めて、被害者救済の具体的方策を示すのは、必ずといっていいほどその"人権屋"の方だからだ。特に今回の少年法改正問題に絡めて、被害者保護の重要性が反対派から示されなかったことは無いといってよいように思う。確かに、"人権屋"の名にふさわしい人権ゴロとでもいうべき連中も多いだろう。だが具体的で論理的な被害者救済策を示しつづけているのは、日弁連のような"人権屋"の方なのだ。

 では「厳罰化」を主張する人々はなにか言っているだろうか。ほとんどすべての場合、被害者救済=厳罰化ということらしい。他に主張らしい主張は無いからだ。厳罰化を進めれば被害者救済は成ると、とてつもない単純さで信じているようだ。今回の少年法改正案がいい例だ。被害者側への言及は、わずかに検察による事実関係の開示という、すでに実施されていることの明文化だけに過ぎないのだ。だがこんな馬鹿な話はあるだろうか。被害者の権利が侵害されているのに、加害者の権利を蹂躙すればそれで被害者が救済されるなど、教育を受けてきた大人たちが本当に考えることなのだろうか。被害者の救済には、その失われてしまった権利を回復するしかない。そのことは少しでも考えてみれば容易に思い至るはずだ。
 では当の被害者団体が掲げる要求はどうだろう。その主張を読むと、実は「厳罰化」という項目は重要度が低いものなのだ。被害者が望むのは、被害者自身の名誉の回復と、社会からの様々な援助、そしてなにより真実を知ることなのだ。「厳罰化」はほとんどオプショナルな項目とみなしてかまわない。むしろ、適正な処罰が行われているという確証を求める心理が、被害者たち自身を厳罰化に言及させているのではないかと思う。
 「厳罰化」を叫び、こうした被害者団体の要望を支持していると表明する、怒りに満ちた「1市民」(彼らは多くの場合こう名乗る)たちは、実は当の被害者団体の要望にまったく不勉強、無頓着で、実際には己の闇雲な欲求に従って主張し、その出汁に被害者たちを使っているだけなのではないか。この図式はあるものとそっくりだ。己の欲望に忠実に、他者の希望や真実を踏みにじり、その欲求を満たす。そう、あの少女をレイプして、挙句の果てに殺害した少年たちと、この怒る「市民」たちは、その本質においてまったく同一の存在ではないのか。

 しかし「厳罰化」に本当に抑止効果があるのなら、採用に吝かではないという声もあるし、決して無視できないと思う。この場合、好例としてはアメリカの場合を挙げるべきだろう。アメリカでは、'80年代に少年に対する刑罰の強化が行われている。それは効果があったのだろうか。効果ありとする意見もある。例えば、'90年代に入って少年犯罪は確かに減少しているからだ。しかしそれは、犯罪件数だけを取り上げた乱暴な論議なのではないだろうか。そういう指摘は日本だけではなく、アメリカでもなされている。例えば'80年代に施行された法律が、'90年代に入って突然効果をあげ始めたのはなぜなのか。むしろ別の要因に起因するのではないかという意見が多い。そして'80年代からの状況を、人口動態、犯罪の質的変化を視野に入れて統計を取ると、むしろ増えているのではないかという指摘も多いのだ。'90年代の現象に関しては、アメリカの景気動向によるという説が有力だ。このようにして、アメリカの状況を見る限り、厳罰化は逆効果、せいぜい中立的だという意見が有力だと見ている。'90年代の現象は、少年犯罪の発生率には環境の問題が大きく関わっているという主張を裏付けるものでもある。
 そもそも、日本で本当に少年犯罪が増加しているのだろうか。確かにここ数年の傾向を見ると、増加しているようだ。しかしそれは直前に'90年代初頭のピークがあり、その直後の底を打った状態から観測した結果だ。少年犯罪が猛威を振るった'80年代初頭の状況からすると、まだまだ低水準なのだ。しかも近年の少年犯罪はグループ型であり、検挙者数は増加しやすいという背景もある。被害者数は、むしろ減少しているという指摘もあるくらいだ。こうしてみると、特異な少年犯罪は発生しているものの、総件数として増えているとは単純にはいえない。

 以上のように概観してみると、「厳罰化」による抑止効果には、大いに疑問符がつく。そもそも、「厳罰化」という代物が、本来ならば別個の問題である被害者救済と絡めて(さらには同一視されて)語られるのは、被害者救済という問題の真実から目を逸らすガス抜きに過ぎないからなのではないだろうか。
 では日本の少年法には効果がなく、悪法であるという主張はどうだろう。まず、効果は「ある」のである。日本の少年の犯罪率、さらにはその先にある20代の青年の犯罪率は、実は先進国中際だって低い。特に少年の犯罪率は、少年法が施行された昭和20年代以降、低下の一途をたどってきた。いくつかのピークはあるものの、低減傾向は疑うべくもない。青少年の犯罪防止には、少年法は非常な威力を発揮しつづけているのである。むしろ、今回の変更以前の少年法の枠内で、様々な運用状況を改善すれば、さらに効果を挙げることができたという指摘もある。また少年院を経た少年たちは、社会に出て再度犯罪に手を染める確率が25%程度と低い(刑務所を経た成人の場合は45%近く)ということも挙げられる。凶悪犯罪に限れば、ほとんどゼロに近い。
 このように少年法は非常に有効な法律であるといえる。悪法とは思えない。むしろ、現行の刑法に少年法の教育主義的な理念を盛り込めないかとすら思える。
 少年法にせよ、刑法にせよ、その目的は、被害者と加害者のどちらも社会から排除することではないはずだ。一人でも多く、健全な生活を送れる個人を増やすこと。それが法の目的とすべきものではないだろうか。

 ニュースステーションに出演して、自らの口で語った"彼"が、あまりにも客観的に、紋切り型に語りすぎたという印象を持った人は多かったようだ。確かに、今の"彼"が改心しているかどうかは分からない。しかしそれは、例えば刑務所に収監するようにしても同じ事ではないだろうか。例えば殺人を犯した犯罪者の全てが7年の刑期で改心するなどとは、誰にも言い切れないはずだ。さらにいえば、例えば殺人を犯した少年を、20年ほど刑務所に放り込むことにしたとしよう。出所した彼は、しかしまったく反省の色がなかったとすると、やはり被害者は救われないのではないだろうか。必要なことは、犯罪者が確かに改心したかどうかを継続してチェックする仕組みであり、さらにその情報を被害者に確実に伝えてゆく仕組みではないだろうか。それは厳罰主義では決して達成できないことだ。"彼"に関して、さらにはいまだに自らの罪に向き合えていないというDに関して思うのは、今の法体系は犯罪者の心の問題に対して課題を抱えているということだ。Dのような個人が社会に出てしまうのは問題だと思う。特に被害者が救われてないと思い、加害者の処遇に疑問を投げかける背景には、確かに改心したかという情報が、というよりもそもそも加害者の情報が何一つ入ってこないことにあるのだと思う。被害者は、加害者を社会からスポイルすることよりも、その加害者が自らに与えた損害を悔い、立ち直ることの方を望むことが多いのではないだろうか。もちろん、怒りに任せてその抹殺を心から望みつづける被害者もいるかもしれない。しかし現状、そのような被害者も多いことの背景には、被害者に対するケアがほとんど機能していないという事実があるのではないだろうか。社会からの物心両面の支援さえあれば、被害者たちにもより理性的な思考が可能になるはずだ。
 "彼"が他人事のように語ったということは、実は僕はそれでいいと思う。まだ"彼"は、自分の罪を罪として受け止めきれてないのかもしれない。しかし事件の事実を語るということは、必ず彼の思考に影響を及ぼすはずだ。何の思考もなしに論理的に話せるはずがない。大切なことは、それをただ一度の免罪符とせず、幾度となく語らせつづけることではないだろうか。そしてその語りの中から加害者の現状を抽出し、適切な指導を与える社会での受け皿が必要になるだろう。そのような「社会に出てからのフォロー」が、加害者には必要であり、またそこから得られた情報の全て(例えば加害者は被害者を逆恨みして更に加害する可能性があるなど)をプライバシー保護の名のもとに封印するのではなく、適切に被害者に、さらには社会に伝達する仕組みが望まれているのだと思う。

 "彼"が家庭を持っているということ、それは確かに苦い現実ではあるけれど、"彼"が一人の人間である限り避けがたい事態ではないだろうか。むしろ、そのようにしてごく普通の幸福を持ちうる個人へと回復することこそが、真の改心の前提になるとはいえないだろうか。なんの幸福も知らない野獣のような生き物に、そもそも"反省"など出来るだろうか。自分が踏みにじったものの重みを知らない限り、真の改心はありえない。確かに彼らは、一人のなんの罪もない少女の尊厳の全てを踏みにじり、その命まで奪った。だが彼女の尊厳と命の回復が、加害者たちの権利、財産、生命を奪うことで達成できるのか。簡潔にいえば、彼らを殺して少女が生き返るのか。もしもそうならば、加害者たちの処刑を実行しても構わないと思う。なぜならば、なによりも必要とされるのは被害者の損害の回復なのだから。そこには厳然とした優先順位がある。だが加害者たちを蹂躙することが被害者の権利回復になんら影響を与えない以上、無益な行為も制限も行うべきではない。

 番組が遺族の要望に逆らうようにして放映されたということ。これは問題だと思う。いかに報道目的とはいえ、加害者をセカンドレイプするような報道は許されるものではない。遺族の痛みを和らげるような番組に出来たはずだ。逆に遺族の痛みを増幅させたのだとすれば、番組制作者たちは無神経の謗りを受けてもやむを得ないだろう。被害者のプライバシーを守る仕組みが必要だ。

 番組の総括がありきたりだったという指摘。これはまあニュースステーションなので(笑)しょうがないのではないだろうか。しかし前記のような遺族への酷い仕打ちを除けば、番組を放映した価値があったことは、視聴者の反応の大きさが物語っているように思える。

 ざっとまとめてみる。まず「厳罰主義」は被害者救済を意味しないし、犯罪防止に役立つかどうかも疑問だ。また加害者の、特に少年のそれの真の反省のためにも役に立たない。これらの目的の達成には、むしろ加害者を立ち直らせ、その過程で奪ったものの重さを認識させる長期的な指導が必要になるだろう。例えば再犯可能性があるような場合(番組中のDのようなケース)、再度収監して教育することも考えなければならない。Dのことを考えると、そのケアを家族にだけ押し付けるのには限界があり、よけいに再犯可能性を高めることになりかねない。殺人の場合には、一生に渡って教育が行われるべきだと思う。そのような社会での受け皿(現状の保護観察制度のようなもの)を拡充することが望まれる。
 被害者の救済のために、加害者の権利を奪うことは意味がない。被害者が望んでいるのはその尊厳と権利の回復、そのための社会からの物心両面の支援、そして加害者が確かに罪の重さを認識し、悔いているという確証だと思う。そのためには、まず現状野放し状態のマスコミによる被害者のプライバシー侵害を禁止しなければならない。また被害者、そして遺族に対する金銭的な支援、心のケアが必須だ。なかんずく子供を失った親たちの場合、その生きる意志を回復させることが急がれる。さらには前記のような加害者に対する指導の経過を、被害者に対して適切に伝えなければならない。場合によっては、被害者と加害者が直接対話することも考えられるだろう。

 犯罪を犯した少年たちは、まだ生まれ変われる余地を大きく残している。彼らを刑務所に長期にわたって閉じ込めておくことは、彼らを犯罪者のまま固定してしまうことになりかねないのではないだろうか。そしてそれは社会にとって良いことなのだろうか。それが本当に社会正義の実現につながるのだろうか。
 一つの事件が起きた時、望まれることは別の事件を作り出すことではなく、繰り返さないことだと思う。繰り返さないためにはその事件の記録を被害者の涙、加害者の権利もろとも封印することではなく、その事件から多くの教訓を抽出し、社会全体で共有することが望まれるのではないだろう。そしてそれは被害者のプライバシーを蹂躙することなく達成できると思う。またそうでなければならないのではないだろうか。


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