Strange Days

ちょいと戸塚へ

2000年12月10日(日曜日) 17時00分 思考 天気:晴れ時々雨

 昼前には目覚めた。昼過ぎまでうだうだとDiablo2をプレイしていたが、前に較べてかなり安定しているような気がしてきた。CD-ROMドライブを交換する前は、時によっては1時間以内にハングアップの憂き目に遭っていたのだが、昨日交換してからはそういう目に遭っていない。まだプレイ中にガクガクした動きを見せることはあるが、まあ許容範囲だろう。色んな手を打った効果が出てきたのだろうか。
 そんなことをしてたら15:00を回ってしまった。慌てて身支度をして部屋を出た。
 戸塚に出て、図書館で本をむさぼり読む。最近、通常は神聖不可侵なものとして扱われている「人権」が、では何者によって保障され、かつまた必要に応じて国家による制限が可能になるのかという疑問を持っているので、その筋の本を読んでいる。
 ざっと概観した限り、憲法などの法律で明文化され、取り扱われている「基本的人権」と、その背景に言及される「人権思想」は別物らしい。前者は個人が社会共同体の一員として義務を負い、その代わりに権利を得るという社会契約論に基づいている。Civil Rights、日本語では公民権とか市民権とかいった言葉で表されているモノだ。しかし後者はやや毛色が異なる。というのは、この「人権思想」、つまり人間の基本的な権利には人間によって奪ったり拡張したり出来ないものがある、つまり「神聖不可侵」なモノを含んでいるという思想を実現するには、どうしても人間以上の何者かの存在と、それによる保証を必要とするからだ。僕たち日本人の場合は、それを「社会」だと素朴に考えてしまうのだが、しかし個人の権利の集合体に過ぎない「社会」なら、そこに生じる全ての権利を自由に制限したり抹消したり出来るはずではないだろうか。個人、さらにはその集合体である社会の枠外からの保証があるからこそ、抹消することが出来ない権利が生じるとは考えられないだろうか。
 考えてみれば、その創生期において「人権」が神聖不可侵なものとされなければならなかった背景には、当時(例えば権利章典が書かれた当時)の権力、つまり王権に対抗する必要があったからだと思う。そして王権をも上回る権力の持ち主として想定されたのは、神ではなかっただろうか。つまり当時の王権神授説を逆用し、王権をも自由に授与できる神が人間に与えたものなのだから、「人権」は王権によって左右することは出来ないとされたのだろう。このようにして、当時正統とされた王権を保証する力を利用することで、人権思想は自らを正統化できたのではないだろうか。
 こう考えると、アメリカが人権思想を建国の基本思想にしながらも、20世紀まで黒人のCivil Rightsが制限されてきた謎が解ける。つまり人権はそもそも人間によって左右できないのだから、全ての"人間"(有色人種は19世紀まで人として扱われなかったわけではあるが)が生まれつき持っているような「人権」としては不可侵であり、そもそもいかなる制限も不可能なので政府の責任も生じない。しかし「基本的人権」は個人が社会と契約した結果生じるものなのだから、責任能力がない(とされていた有色人種などの)人間に対しては制限できるとしたのではないだろうか。その結果、教会では共に友愛を謳いながら、その外では1級、2級市民として公民権を軸に争っていた謎が解けるように思う。
 翻って日本国憲法を読むと、そこには色濃い「人権思想」が見える。憲法で様々な保証の対象とされているのは「基本的人権」だが、財産権などが滅多やたらと個人の権利に軸を置き、公共側の比重が軽いのは「人権思想」の影響だと思う。元々、土地などの財産は個人の寿命を超えて永続するものであり、それは対社会レベルの効果をも視界に置かなければならないだろう。ところが日本では個人の権利が声高に主張されるあまり、本来公益として捉えて推進されなければならない公共施設の建築が困難になる。例えば各地で頻発しているゴミ処理場問題もそうであり、また成田空港建設時のドタバタもそうだろう。さらにいえば、国家によってさえ左右できない権利が個人にあるという思想からは、国家の重量を軽視する思想をも生じさせるのではないだろうか。先鋭的な市民運動家に見られる主張、「国家などいらない」というあまりに無理のある主張(では村は、家族は?)は、こうした背景からしか生まれないのではないだろうか。というのは、共産主義思想は人民の総意である国家が全てを決定するという思想であり、そもそも「神聖不可侵」なものなど生じない。旧ソ連での独裁の歴史、そして中国での死刑の凄まじい多さは、人間の価値など国家のそれに較べれば紙切れ一枚ほどでしかないという、共産主義思想の本音をあらわしていると思う。つまり、日本の市民運動の背骨には、共産主義思想は通ってないと思うのだ。
 んで、読んだ本の中で面白かったのは、「アメリカ憲法には人権思想が見られない」というものだ。当のアメリカ人には、「人権思想」と「基本的人権」の差異が自明のものだったらしく、用心深く「人権思想」を取り除いている。下手に「人権思想」を明記すると、国家が個人の総意を越える権限をもつか、国家を超える権限の担い手を想定するかの二つに一つしかなくなる。近代国家を成立させる上では危険なことだ。それなのに日本国憲法では人権思想が色濃く見られ、それだけではなく憲法の条文中で言及さえされている。この謎は、日本国憲法の起草者やマッカーサーが、半ば宗教的な意味での「人権思想」の信奉者だったことで説明できる。さらにいえば、日本国憲法において「戦力の放棄」という画期的な条文が明記されたことも、人権思想によって説明できそうだ。つまり、人間に人権というものを保証する超人格的な実体が存在するからこそ、戦力を放棄しても平和を維持することが出来るというわけだ。
 しかしながら、現代の日本人に超人格的な実体など想定できるだろうか。超国家的な権力の担い手など。例えば日本の裁判所で「神でも仏でもいいからあなたが絶対的に信頼する超越的な存在に宣誓せよ」と言われれば、ほとんどの人は宣誓を拒否するのではないだろうか(いやシリウス星人とかチャネリング友達に喜んで宣誓する人もいそうだが)。日本人は宗教意識が薄いといわれつつ、様々な宗教行事を催す人間集団だ。しかしその「薄さ」の実態は、「世界の全てを決定する超越的存在」の存在を信頼できないという点に掛かっているように思える。そのことは、多分キリスト教徒の少なさが傍証していると思う。そういう日本人に、ナマの「人権思想」は向いてないのではないだろうか。
 むしろ個人と国家との関係性を明らかにし、その諸権利、諸義務の積極/消極的保証内容を列挙した方が良いと思うのだが。これは憲法改正程度では難しそうだな。
 図書館を出て、ドトールに寄ってシグマリオンで日記を書き、さらに本屋に寄って帰宅した。


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