Strange Days

NHKスペシャル「誕生の風景」

2001年03月24日(土曜日) 23時30分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「誕生の風景」。21世紀の最初の年に、三つの命の誕生の風景を見る。
 世界最先端の医療技術が、命の意味を変えつつあるという。アメリカでは、人工授精技術の進歩が、全く新しい種類の"養子縁組"を成立させている。
 ある夫婦は、長年子供が出来ないという悩みを持っていた。そこで人工受胎(?)という手段を選択した。この方法の目新しい点は、受胎する受精卵の精子、卵子共にこの夫婦のものではないということだ。この受精卵を提供したのは、やはり不妊治療に人工授精という手段を選択した、別の夫婦だった。
 恐らくキリスト教圏に根強い考えだと思うのだが、命の始まりを受精の瞬間だとする考えがある。堕胎に非常に非寛容なキリスト教圏では、胎児を既に人間とみなすという思想が支持されている。ならば、その胎児の始まりである受精卵をも尊重するのは、そうした思想の持ち主にならば自然な考えだろう。
 人工授精では、実際に使われる以上の受精卵が用意される。それらのうち、ごく一部だけが用いられ、残りはたいていの場合破棄される。しかし受精卵を破棄することに、それを人間の始まりだとみなす人々は、耐えがたい罪の意識を持つようだ。そこで、こうして"生まれた"受精卵を生かし、自力では人工授精も出来ない夫婦との間に"養子縁組"を取り持つ組織が現れた。先の夫婦も、そうした組織が仲介して、別の夫婦の不要な受精卵を提供してもらったのだ。しかし、この"養子縁組"は、提供者の夫婦にある種の不安を抱かせた。
 受精卵を尊重して別の夫婦への提供に同意したことから分かるように、提供者夫婦も受精卵を既に人間だとみなしている。少なくとも、それを否定しきれない。その"我が子"を別の、見ず知らずの夫婦に提供することは、果たして正しかったのか。その夫婦にどう扱われるかという不安もあったようだ。むしろ我が子として生み育てるべきだったのではないか。それは別の楽しみを、いわば別の"未来"を見せてくれたのではないか。死児の齢を数えるという言葉があるが、この場合は未生の児の歳を数えて、不安や希望を見出しているわけだ。
 そのような不安に満ちた日々は、やがて新生児の遺伝子解析の結果が出たことにより、終止符を打った。今回のケースでは、対象の夫婦に対して二組の、別々の夫婦の受精卵が同時使用された。そして新生児は、先の夫婦と遺伝上の関係が無いことが明らかになったのだ。この夫は「人生の一部が終わった」と形容した。妻は「ホッとした」といった。それぞれ、遂に生まれ出事の無かった"我が子"の運命に区切りがついたことを感じている。
 裕福なアメリカのキリスト教徒の間では受精卵すら尊重されるのに、同じキリスト教圏のフィリピンでは今、生きている子供たちが深い貧困にさらされている。首都マニラでは、地方から職を求めて集まってくる人がスラムを形成している。スラムに住む子供たちは、その日の食にさえ事欠く有様だ。
 スラムに暮らすある一家は、両親と男の子一人、女の子二人という家族構成だ。父親には定職が無く、時々運転手をして現金を得ているに過ぎない。生活は、この父親の乏しい現金収入にかかっている。
 最近、母親はまた妊娠した。キリスト教圏のフィリピンでは妊娠中絶は厳禁であり、妊娠は即出産を意味する。しかし貧しい暮らしに、4人目の子供は重荷だ。
 国民の平均収入が低く、貧困国とされているフィリピンで人口増加に歯止めが掛からないのは、宗教的な理由により前記のように中絶が困難であるからだ。その一方、避妊に対する意識も低い。
 政府は中絶を厳禁しながらも、人口増加に歯止めをかけるべく避妊そのものは広く普及させようとしている。しかし、国民の側の意識の問題により、あまり真剣には受け取られていない。日本がそうであるように、避妊では男性側の処置が手軽で効果的だ。コンドームの使用は、日本ではほとんどデフォルトと考えてよいくらいに普及している。しかし、フィリピンでは避妊は女性の責任とされ、より確度の低いペッサリーや、危険を伴う避妊手術しか普及して無いようだ。政府の政策に沿って、出産直後になら無料で避妊手術を受けられる。しかし、この女性はそれに躊躇した。一家の主婦である自分が入院している間、家族の面倒は夫が見るしかない。しかしそれでは夫の現金収入が途絶え、暮らしが成り立たなくなる。結局、この女性は避妊手術を諦めた。これでこの先の家族計画が成り立つのか、疑問が残るといわざるを得ない。子供は天からの授かり物、という類の大らかな意識が、あるいは彼らの現実の生活を困窮せしめているかもしれない。
 科学技術が新しい生命を育む一方、その科学技術が命を危険にさらすことも増えている。ロシアのセミパラチンスク郊外の寒村では、悪名高い核実験場の風下にあり、住民が長年にわたって高濃度の放射性物質を浴びてきた。そのことが明らかになったのは、ソ連崩壊後のことだった。
 住民の間には癌に冒されるものが多く、また生まれつき異常を持つ者も有意に多い。
 ある主婦は、こうした環境下で子供を生み育てることに躊躇しながらも、新しい子供を産む決意をした。彼女の長男は、生まれつき脳に障害があり、5歳になっても言葉を話せない。しかし兄弟が出来れば、あるいはより感情が活発になり、言葉を話せるようになるのではないか。そのような望みから新しい子供をもうけたのだ。
 それにしても、最初の家族と、続く二つの家族、そしてそのそれぞれの間の落差はなんだろう。裕福な国に生じたがために、ある受精卵はその段階から尊重される。ある国では生きている子供でさえもさほど尊重されない。こういう格差は、しかし先進国の内部にさえあるものだ。とはいえ、これほどの不均衡が生まれている状況を、命の多様性と捉えてしまっていいのだろうか。三つの事例全てに科学技術が影を落としていることを思うと、冷静に受け取ることは難しい。


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