Strange Days

誰かが責任をとる社会

2001年06月08日(金曜日) 20時28分 思考 天気:曇りですか

 ボーナスも無事に出て、少しだけ気分がよい。だが、世間では恐るべき事件が発生していた。
 昼頃、gooのニュースチャンネルを見ると、「小学校に男が乱入。児童ら多数が死傷」という見出しがあった。それから、1時間おきくらいにニュースを眺めていたのだが、見る度に死者が増えている。しかも亡くなったのは小学校低学年の児童ばかりだという。いったいどうして、こんな、むごい......。日頃、不謹慎なことばかり考えている僕も、始まったばかりで、こんな不条理な終わりを迎えた子供たちの人生を考えると、どうにもやりきれなくなった。
 犯人に関しては断片的な情報しか入っていない。どうやら薬物を大量に服用していたとか、以前にも薬物を使った事件を起こしているとか、精神病院に処置入院させられていたらしいとか、そういう情報が飛び交っている。以前起こしたという事件はおぼろげに記憶にあるので、検索すれば出てくるかもしれない。
 しかし、もしも処置入院させられていたという情報が本当なら、誰が世の中に出してしまったのかという問題がまたしても問われることだろう。西鉄バスジャック事件と同様に、だ。犯人は処置入院以来壊れっぱなしだったのにそれを見逃したのか、あるいは外に出てからまた壊れたのか、あるいは壊れた振りをしているだけなのか。壊れっぱなしだったというのなら、それを見逃して野放しにしていた担当医師、あるいはそれを監察する立場にある人々の責任が問われるだろう。次の場合も、再発可能性が高かった(はずの)人物に適当な処置を取らなかった人々の責任を問われるだろう。最後の場合は、いうまでもなく当人の責任が問われる。いずれにせよ、誰かが責任を問われるだろう。いや、そうであって欲しい。またしても「誰も悪くありませんでした」では、社会に対する信用が低落するばかりだ。それよりは、誰かが必ず責任を負わなければならないという緊張感が欲しいのだ。世界の不可知性に逃げ込むばかりでは、何も変わらないのではないか。例え不条理であっても、誰かに責任が収束する結末であって欲しい。そしてその誰かが不条理だと考えたのならば、またそれを世界に対してアピールして欲しい。そのように議論が継続してゆかず、どこかで途切れてしまうのならば、亡くなった子供たちは本当に浮かばれまい。


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