Strange Days

ヒロシマの祈り

2001年08月06日(月曜日) 20時09分 思考 天気:曇り

 なんだか眠れずに明け方にはごろごろする羽目に。どうも眠るタイミングを逸したような。
 会社にうすぼんやりしながらでかけ、食堂で朝食をとりながらテレビを見ていたら、高校野球の始球式かなんかで、原爆記念日に付き黙祷、というのをやっていた。そういえば、平和大行進とかいう催しも耳にした。原爆記念日は夏の風物詩化している。
 自分が広島出身で、日教組の洗脳工作(笑)に苦しめられてきたせいか、長崎や広島で起こった事件を、その悲劇性を認めながらも、やや冷ややかに見てしまう。正確には、"あの日"以降に起こった事件を。原水禁と原水協の分裂劇は、歴史に残るお笑いといえるだろう。イデオロギーの前には、核兵器による死者など物の数ではないのだ。なにしろ、旧ソ連では、スターリンによる粛清だけでも、WW2時の日本人戦死者を軽く上回る人々が死んでいる(統計によって数値は違うが、最低でも600万人は死んでいるらしい)。つまり、イデオロギーの殺傷能力は、核兵器のそれなど軽く凌駕しているといえるのではないか。なんてのはブラック過ぎるだろうか。
 もちろん、だからといって長崎や広島でたいした理由も無く死なねばならなかった、あるいは後遺症に苦しまねばならなかった人々の悲劇性が、いささかでも薄まるわけではない。いやむしろ、南北戦争からこちら累々と積みあがってきた何億という死者の中にあって、その位置を確かに確定できるからこそ、8/6、8/9の死者たちの悲劇性は、やはり際立っているといえるのではないだろうか。そこにはドラマがある。そしてそうだからこそ、様々な修飾が、後世の僕らによって施され、利用されうるのである。
 今年も様々な形で、"人類史上最初の核兵器による死者"と"その日"が利用されている。そのほとんどは、イデオロギー的な修飾を免れてはいまい。せめて、その利用目的が正しくありますように、そう祈りたくなる。
 しかし、たとえこの一週間ほどの間に営まれる様々な行事が、それを主催する人々の思惑に縛られてしまうにせよ、それらに通底する祈りには、無死の、純粋なものが含まれているはずだ。その思いが通じる日は来るのだろうか。広島の外に生きる人々にとって、夕食ほどの注意も喚起出来ないに違いない諸行事を見ながら、なんとなく歯がゆく感じるのは僕だけだろうか。


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