Strange Days

NHKスペシャル「文明の道」第一回

2003年04月20日(日曜日) 23時00分 テレビ 天気:雨

 今日のNHKスペシャルは、新シリーズ「文明の道」第一回。マケドニアの若き王、アレクサンドロスの大遠征を取り上げる。
 マケドニア、というのは海沿いや平野部にポリス(城壁に囲まれた都市国家)を築き、結果ギリシャ南部に中心があったギリシャ世界からすると、後進の地といってよかった北方にあった。明確なポリスを築いた形跡は無く、アテネのような民主制政治(もちろん大量の奴隷が支えていた)も、スパルタのような極端な階級制度も無い、まあいい加減な国だったらしい。
 そのマケドニアの大飛躍を用意したのが、アレクサンドロスの父君、フィリッポス二世だった。彼は先進諸国に先駆けて金で雇った職業軍人からなる常備軍を持った。この時代まで、ギリシャ諸国では、市民のみが兵役の義務を負い、その代わりに選挙権(市会への出席権など)を手にすることが出来た。このような軍隊は維持費がかからないのだが、その代わりに全ての兵力を一時に動員できるとは限らない。市民が参軍できても、彼らが連れてくる従兵や、生活の苦しい低ヒエラルキーの市民は、参軍できないこともあったのだ。また日常的に訓練を出来るわけでもなく、錬度も限られた。しかし、常備軍にはそれが無い。実は、この時期には先進諸国でも金で兵士を雇うという行為は日常化してはいた。金で雇った兵士を自分の代わりに戦地に送る市民が増えていたのだ。しかしこれは、悪徳と見られ、大々的には推し進められなかったようだ。実際、軍務を負うことで参政権を得るという、義務と権利の対照関係からすれば、これは悪徳に他ならなかったといえる。しかし、後進地故の柔軟さで、常備軍の利点を見抜いていたフィリッポスは、先進諸国では不徹底だった常備軍化を徹底的に推し進めたのだ。ごく当たり前の王権と有力氏族の連合体だったマケドニアでは、民主制のあり方に頭を悩ます必要は無かった。
 もう一つ、先進諸国の衰退も、マケドニアの躍進に道を開いた。ギリシャ世界は、ペルシャという大敵に対し、集合離散を繰り返してきた。初期にはスパルタが先導していたが、海上兵力の大きなアテネがペルシャの海軍を破ってギリシャ世界の防衛に成功すると、今度はアテネの覇権が伸びた。ところが、アテネは対ペルシャ戦のために徴収していたはずの同盟拠出金を、壮麗なペルセポネ神殿などに費やしたため、スパルタら同盟国との軋轢が増大。スパルタと長い戦いを続けた結果、スパルタの勝利に終わったものの、両者ともポリスを成立させていた農耕地が荒廃し、国力は低下してしまった。さらにスパルタの覇権を快く思わない古豪テーベが決起、極端な軍事国家であるスパルタを打ち破ってしまった。そのテーベも、有力政治家の病死などで勢力を落とす。このようにして、マケドニアが王権を確立した頃、遥かに大きな勢力を持っていたはずの先進諸国は、ことごとく地に墜ちていたのだ。マケドニアは対立する諸国を下し、かなり棚ボタッぽくギリシャ世界の覇者となったのだ。
 マケドニアが強かったのは、軍制の改革によるところが大きい。先の常備軍化もその一つだが、もう一つ、強力な槍隊の整備もあった。
 ギリシャ世界の軍制といえば、重装歩兵中心のファランクスが有名だ。ファランクスは縦隊を中心とする縦連携の強い隊形だ。縦には16人程度、横には数十人、時には数千人も並ぶことがあった。そして先頭の兵士が倒れると、後続する兵士が前進して直ちに穴を埋める。ファランクス縦列がそれぞれが隊長に率いられた一隊をなしている。その縦隊を、必要なだけ横に繋げることで、部隊を形成した。しかし、基本的には基本的に前方への攻撃しか考えてない隊形で、しかも最前列の兵のみが戦闘に参加できた。縦隊(ファイル)が32人いても、直接の打撃力は先頭の一人のみなのだ。
 古典的なファランクスの継戦能力は、ファランクスの厚みに比例する。だから戦術単位としてのファランクスでは、大きな部隊を作るかが問題であった。ファランクスの厚みがあれば、そのファランクスは強固で、長時間戦力を維持できる。だがファランクスを厚くしすぎると、横への展開が短くなり、側面攻撃を受ける可能性が高くなる。経験的に最適な一隊の規模が定められていた。各ポリスで最適と思われるファランクスの構成が考え出され、ポリスごとに縦列の深さは変わった(16~32人という線が多かったようだ)。しかし、横長の短冊形という隊形に変わりは無い。だから、その隊形に変化を導入することは、その攻撃力に大きな影響を与えた。
 先に述べた、歩兵の強さで知られたスパルタをテーベが破った戦いでは、左翼側に厚みを持たせた斜形陣が取り入れられ、これが勝利の決め手になったといわれている。斜形陣の分厚い楔の部分で敵のファランクスを分断してしまえば、側面攻撃に弱いファランクスを崩壊させることが出来るからだ。しかし、いずれの陣形でも攻撃可能なのは最前列の歩兵のみだった。
 フィリッポスは、極端に長い槍を導入することで、槍隊の攻撃力を飛躍的に高めた。非常に長い槍ならば、前面の兵士の肩越しに、前方の敵を攻撃することが出来るのだ。しかも最前列の兵士も、このギリシア世界の標準に較べきわめて長い槍のおかげで、敵の攻撃をアウトレンジ出来た。各縦隊の最前列で発揮できる攻撃力は、敵の4倍以上になった(4人以上戦闘に参加できるので)。これじゃあ古典的なファランクスに勝ち目は無い。その結果、先進諸国は、この後進国に膝を屈することになったのだ。なんだかアメリカと欧州の関係みたいだな。
 番組でも取り上げられていたが、マケドニアの長槍(パイク)は扱いが難しく、完全常備軍以外には扱えなかったろう。長い訓練期間を設けることが出来た常備軍の長所の一つだ。
さらに下って、ローマ時代のレギオンになると、今度は投槍が主力になる。単純に長い槍より、より遠距離から攻撃できるので、さらに有利になったわけだ。
 ギリシア世界を制圧したフィリッポスは、今度はペルシャへの報復戦争を始めようとした。彼は小アジアを制圧して、緩衝地帯とするつもりだったようだ。しかし、その出陣以前に、フィリッポスは暗殺されてしまう。
 この暗殺事件は、アレクサンドロスにとって幸運だったかもしれない。というのは、その頃フィリッポスは、王妃(アレクサンドロスの母)と離縁して、別の女に入れ揚げていたからだ。その過程で両者は仲違いし、一時はアレクサンドロスが亡命生活を送ったことさえあった。表面的に和解はしたものの、フィリッポスは新王妃の子が育ったら、そちらに王位を譲るつもりだったともいわれる。ともあれ、アレクサンドロスは、ギリシャ世界を背負って、その表舞台に登場したわけだ。
 アレクサンドロスは、ギリシャ世界の叛乱の動きを抑えると(この時にテーベを完全に滅ぼした。アレクサンドロス最初の大殺戮)、ついに小アジアに侵入した。最初の戦いで危うく勝ちを拾っていこう、ほとんど負け無しで一気にペルシャ帝国を滅亡させてしまったのだ。その要因の一つが、ペルシャ王ダリウスの意気地なさだろう。なにせ、ろくな軍事知識も無いのに前線に口をはさみ、そのくせ、危うくなると何もかも捨てて逃走してしまうのだ。ペルシャ側にも有能なギリシャ人傭兵部隊を始めとする戦力が揃っていたのに、わざわざそれらをドブに捨てるような真似を繰り返したのだ。これじゃあ、圧倒的な国力を持つとはいえ、滅んで当然だ。トップが無能な国家は惨めだ。
 アレクサンドロスも、メソポタミア流域に入る頃までは、もっぱら報復戦争として対ペルシャ帝国戦を戦っていた。しかし独自の勢力を持つアッシリア人の統治に限界を感じた彼は、思い切って『我こそはペルシャ帝国の正当継承者である』などとぶち上げた。そして、ペルシャ帝国の統治機構をそのまま継承する動きを見せた。この方針変更が無ければ、ペルシャ帝国の心臓部への侵攻は、易々とは運ばなかったかもしれない。ギリシャ人たちは、例えば灌漑技術を広く普及させたようなペルシャ式の統治法を学び、我が物にしていったのだ。
 一方、ダリウスは、王都ペルセポリスまで失い、やがて部下の裏切りに遭って死んでしまった。大帝国の君主の、あっけない最期だった。そしてアレクサンドロスは、占領した王宮でどんちゃん騒ぎをした挙句、火を放って完全に焼失させてしまったのだ。ギリシャ世界のペルシャへの報復は、これで区切りがついた。それまでに、アレクサンドロスが殺した人間の数は、恐らくギリシャ世界でぶっちぎりのNo.1になっていただろう。英雄はうずたかく積みあがった死体を踏み越えて、血まみれの覇権を確立したのだ。
 アレクサンドロスは、残ったペルシャ帝国領域を吸収すると、さらにインドへと歩を進めた。ここに至っても彼の軍事的天才は衰えを知らず、大戦力を持つインドの地方君主を、なかばだまし討ちのような形で下している。ところが、その向こうには、さらに巨大な戦力(総兵力数十万といった単位だったらしい)を持つ別の君主が待っていた。その情報に恐れを抱いた部下たちは、ついに前進を拒否した。なにせ、もう一度ペルシャ帝国を征服するのに等しい苦難が待っているに違いないのだから。最後にはアレクサンドロスも折れて、とうとう彼の東征は、インダス川の端で終わったのだ。
 その後、本国の情勢に不安を感じた彼は、一度マケドニアに帰国しようとする。が、その途上、バビロニアで熱病に罹った彼は、あっけなく死んでしまう。まだ余命があれば、彼はフェニキア人が栄えていたカルタゴ地方、さらにはローマ、ガリアへと出兵しただろうといわれている。もしそれが実行されたなら、3世紀後にローマによって達成される地中海世界の統一が、ずっと早まっていたかもしれない。
 その後、この大帝国は、アレクサンドロスの部下たちによって分割され、最終的にはローマと、復興したペルシャ勢力の手に落ちてしまうのだが、それは促成栽培の悲しさだろうか。


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