Strange Days

九州横断ツーリング2日目

2010年04月26日(月曜日) 22時36分 , 自転車 ( 自転車旅行記 ) 天気:快晴のち雨

 今日は長崎から島原半島南端の口之津に移動し、フェリーで天草に渡る。そこまではどう走ってもいいのだが、楽して移動すべく島原鉄道で島原市まで輪行することにした。


 いや、楽したいだけじゃなくて、島原城も見ておきたいと思ったんだよ?
 そういうわけで、朝早くに起床。まずはトラベルケースを別府の宿に別送し、宿を後にした。流石に両パニアに荷物をずっしり詰めると、相当に重い。とはいえ走りにくくなるというわけでもない。
 長崎駅まで走り、輪行状態にして、諫早まで移動。そこから島原鉄道に乗り換えた。ちなみに輪行状態はこうだ。パニア、ヘルメットなどの自転車本体以外を、大きなトートバッグにまとめてしまった。このトートはIKDでBromptonを買った時に貰ったものだ。Bomptonはイージーカバーを使うので使わなかったのだが、思わぬ形で役に立った。意外に小さくたためるので、走っている時にも邪魔にはならない。こうすると荷物を2式にまとめてしまえるのだ。
 島鉄で島原まで移動する。月曜日の午前中という時間帯もあるのかもしれないが、途中駅での乗降客は非常に少なかった。地方私鉄の厳しい状況が窺える。
 島原に着き、再び走り出した。まずは見えている島原城に。
 島原城の駐車料金は有料だが、自転車は無料だった。本丸への立ち入りも有料。
 本丸の1Fはいきなりキリシタン受難の歴史がテーマになっていて、キリシタンの刑死っぷり殉死っぷりがこれでもかと述べられている。中には雲仙地獄や島原の乱の処置など、ほとんど弁解の余地のない惨事も含まれている。しかし有馬晴信は入信前後に仏教寺院をキリスト教勢力に寄進し*1、大友宗麟などはもっとはっきり仏教神道への弾圧を行い、寺社の破却を積極的に行っている。どっちが先かという論に意味はないのかもしれないが、形の上で先に暴挙を行ったのはキリスト教勢力ではなかったか。それゆえに、僕はこの大殉教史を、いささかシニカルに眺めざるを得なかった。そもそも、島原の乱の根本原因は領主松倉氏の重税と苛斂誅求ぶりにあり、宗教対立は乱を継続するためにとられた方便だというのが、現在の通説だ。また乱には大殉教劇とは言い兼ねる側面も多数存在するため、島原の死者たちはカソリック世界でも未だに列聖されていないのである。
 上層は民俗、歴史のパネルのごとき陳列で、最上階が展望台になっている。それにしても立派すぎる城だ。小藩がこんなものを持てば、そりゃ凄まじい重税にもなろう。乱の主因は、結局はこの松倉氏*2の暗愚にあったのだ。
 少し離れた場所に武家屋敷が残っているというので、そこまで移動してみた。小さな水路を挟んだ一帯がそうらしい。何軒かの武家家屋が残っており、立ち入ることが出来る。また立派な売店も設けられ、結構力を入れている気配が伺える。その売店でおやつをいただいた。白玉に甘い蜜がかかっており、優しい、懐かしい口当たりだった。
 さて、口之津まで走らねばならない。距離は35~6km程度で、楽勝かと思われたが、案外に難儀した。思いの外アップダウンがあり、荷の重さに足が引っ張られたからだ。確かにMR-4F辺りに比べればずっと軽く坂を制することが出来たが、それでもだんだん疲労がたまってゆく。
 途中、立派な橋を渡る。川かと思いきや、実は平成の雲仙災害の際に土石流が流れた川筋だった。遠くに平成新山が見える。
 この近くに道の駅があるのだが、そこに土石流で埋まった家屋が、そのまま展示されている。平成のポンペイというところか。もっとも、避難計画が有効に機能し、あの突発的な火砕流の死者をのぞき、民間人の死傷者はごく少なかったそうだ。
 さて、南風もあって疲労が募っていたが、どうしても行きたい場所がある。島原の乱の舞台となった原城跡だ。今はあっけらかんとした公園になっている。上に書いたように、ここで落命したキリスト教徒たちにどうしても距離を感じる。それは多分に、ここに立てこもった人々の決着点が、37000もの全滅劇という場所にあったという事実そのものに、ぬぐいがたい違和感を覚えるからだ。もっと尋常な着地点はなかったのか。ありていに言って、転べば*3、助命はされた可能性があったはずだ。『あのバテレンの四郎とかいう奴輩に騙されたのです』とこぞって言い募れば、全滅は免れる可能性はあったはずだ。だがそうしなかった。みんな天草四郎とともに自殺的な籠城を続けた。そして皆殺しにされてしまった。南島原の住民が惣一揆を決行し、天草四郎勢が島原へと渡ったときに、もう生きる望みは捨ててしまったのかもしれない。だが乱の最終局面で、生き残った女子供数千人がことごとく斬られる際、『喜んで死んでいった*4*5という逸話を目にするにつけ、宗教というものの恐ろしさを見せつけられる思いがするのである。その果てに37000の死があるのだ。
 ようやく口之津に近づき、そういえば端午の節句が間近だと見て取る余裕も生まれた頃、フェリーターミナルに到着した。折良く、乗船開始寸前だった。自転車はいの一番に乗り込める。
 島原に渡り、しかし宿のある本渡までは10km以上走らねばならない。この道もアップダウンがあり、やや消耗する。
 宿は天草ゲストハウスという低価格の宿で、基本的に寝床を提供されるだけの場所だ。が、台所の使用が自由で、長期滞在の場合に便利そうだ。
 なんぞ夕食を食べに行こうと思いつつ横になっていたら、あに図らんや夜中になっていた。雨が降り出している。近所にマックがあったのでそこで飯を済ませ、この雨はやむのだろうかといぶかしみつつ夜を迎えた。

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