Strange Days

2004年02月29日(日曜日) 15時54分 思考

 3、2、1、そして0。自分がそんな風にして<無>になってしまうのだとしたら、どんなに恐ろしく、そしてやるせないだろう。
 バラードの代表作(と自分で言っている)『時の声』では、主人公のパワーズ博士が、まさにそうした運命をたどる破目になる。パワーズ博士は、奇病ナルコーマにより、日々眠りが長くなってゆく運命にある。今日は8時間起きていられても、明日は7時間55分、明後日には7時間50分しか目覚めていられる時間が無い。そんな風にして切り詰められてゆく毎日。それをただただ甘受するしかないというのは、なんと残酷な状況なのだろう。やがて最後の目覚めへと、そして二度と目覚めぬ眠りへと繋がってゆく夜。その時間を正気で過ごせるとは、とても考えられない。
 だが、僕だってやがては"0"になってしまう運命にある。人として、いや生命として生まれた以上、終末の到来は避けられぬ定めだ。問題は、その瞬間が正確に分かっているかどうかだ。
 パワーズ博士の病は極端としても、明日をも知れない、いや余命n年などと宣告された人々は、数多い。そうした人々は、何段階かの受容のステップを踏んで(これは、今はオカルト方面に行ってしまったキューブラー・ロス女史の研究が著名)最終的な平穏を得るという。ロス博士の著作は、あまりにも物語的かつ自己完結的に過ぎると感じる部分もあるが、死を見つめることで人の内面が質的に変化したり、より生産的になったりするという事例は、その枚挙に事欠かない。まあ、確かなことなのだろう。そのことは、ターミナルケアの現場レポートを引けばいいだろう。また、一昨年亡くなった日野啓三が、腎臓癌からの生還を果たした後、生死という問題にさらに深い視線を注ぐようになった故事を引いてもいい。死は人間を謙虚にさせる。より正確には、死へのカウントダウンを聞くことは、だろうか。
 だが、死の運命からは、この宇宙そのものさえも逃れられそうに無い。量子論の、現在主流の学説に拠れば、最も安定した素粒子である陽子も、極めて長い時間をかけて崩壊することが予言されている。それはまだ実証されてはいないが、一方で宇宙空間そのものが拡大し続けているというビッグバン理論も、何度も修正を加えられながら、今や実証の段階に達している。ハッブル宇宙天文台を初めとする高性能の大型望遠鏡は、宇宙の果て、時間の果てで起きた、宇宙開闢直後の現象を捉え始めている。宇宙論と観測手段が精緻化されてゆけば、やがて宇宙の現年齢が年単位で、さらには時分秒単位で明らかにされるかもしれない。そうなれば、我々は宇宙の"誕生日"を祝うことが出来るようになるかもしれない。
 だがビッグバン理論は、宇宙に何らかの形での終末が訪れることをも、必然的に予言する。宇宙が閉じている(宇宙空間の拡大を反転させられるほどの物質が宇宙にある)のならば、宇宙はビッグクランチという、空間自身の消滅という形での終末を迎えるだろう。開いている(際限なく空間が拡大してゆく)のならば、物質は延々と希釈され続け、やがて構造を持った安定な物体は何一つ存在できなくなるだろう。そして陽子論の予言通りに、陽子が崩壊することが事実なら、宇宙にはほんのりした熱エネルギー以外には、なにも残らなくなるだろう。
 劇的なビッグクランチ、逆に延々と続く熱的な死、どちらにせよ、僕たちの文明は、やがて宇宙の死ぬ瞬間を算出できるようになるはずだ。そしてその時、僕たちの持つ時間という概念は、大きく反転するかもしれない。
 現在、時というものは、雪のように刻々降り積もって行くものだと信じられている。時間は一方へと増加するばかりで、それが反転することは無い。その認識は、人間の文明に、宇宙の永遠性への素朴な信仰をもたらした。だが、"終わる瞬間"の正確な時刻を知ったとき、人間たちは、終わりの"時"に向けてカウントダウンをするという誘惑を、果たして振り切れるだろうか。宇宙の死を前提とした、漸減的な時間認識、それが僕たちの意識を変えてしまうだろう。
 3、2、1、そして0。そんな風に宇宙もまた終わりを迎えるのだと知ったとき、もしかしたら、人間の文明はより謙虚に、そしてより無害なものへと変わってゆくのかもしれない。『時の声』で、宇宙から届く異星人たちの"放送"に耳を傾け、それらがみな宇宙の死へのカウントダウンだと知ったとき、パワーズ博士が初めて宇宙そのものの運命と同一化できたように。
 それでも、終末に背を向けて、この馬鹿騒ぎを続けてゆくのだろうか。それを知ることが出来るとしたら、それも宇宙論の発展の先に待つ、楽しみの一つではないかと思ったりする。


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