Strange Days

SFセミナー2005

2005年05月03日(火曜日) 20時57分 SF 天気:晴天

 3年ぶりにSFセミナーに参加してきた。
 今年は昼を挟んで4コマ、結構な長丁場だった。
 10:00の開場直後に着き、適当な席を占める。
 10:45に最初のプログラムが開始された。『正しいライトノベルの作り方?――疾走する作家、桜庭一樹のスタイル』と題し、新鋭のライトノベル作家、桜庭一樹女史*1のデビュー前後の話、創作スタイルを聞く。
 正直、あまり興味なかったので、半分寝ながらの聴講*2となったが、別の雑誌間でも編集者間の交流があったり、作家志望者同士の引き合いがあったりするという話は興味深かった。
 ただ、司会の不手際もあり、また司会と桜庭女史の声が少し通りにくかったこともあり、少々眠気を誘われたのも事実だ。
 ここで昼食時間。適当に御茶ノ水駅前に出たら、サンダース大佐と目が合ってしまったので、物凄く久しぶりにケンタでお昼となった。ここ、高くつくから嫌なんだけどなあ。
 会場に戻り、少し昼寝していたら、午後の部開始となった。2コマ目は『異色作家を語る』。浅暮三文氏、中村融氏、牧眞司氏らが、『異色作家』というくくりで、日本では面々と編纂されてきている異色作家アンソロジーを中心に語る。
 異色、という限り、本流、もあるはずだ。主流文学に対する伴流文学のようなもので、正があるからこそ異に意味がある。しかし今、文学全体の状況を俯瞰すると、その主流たる部分が沈没気味ではないか。だというのに、日本では、古くは早川の『異色作家アンソロジー』に端を発し、今も売れ行き好調な異色作家モノがもてはやされている。なぜか。
 という方向には、残念ながらあまり話は進まず、各自が好む異色作家や、異色作家観を告白しあう場になってしまった。これはこれで興味深い。
 中村氏が、手がけた『二人ジャネット』の書評を一覧して、落胆したという話が面白かった。中村氏はずばりネタバレした*3後で、『誰も(こういう正しい解釈に)行き着かなかった。テリー・ビッスンは日本人には理解できない』と読書人たちを切って捨て、『もうビッスンはやらない』と宣言したのには、ちょっとだけ喝采を送りたい。『世界の果てまで何マイル?』でも、『俺たち(私たち)はなにを読んでしまったんだろう、今、どっちを向いているんだろう』と言いたげな、腰の引けた書評が多かったことを憶えている。きっと汲み取るべき寓話性に満ちているに違いない世界を、『なんだか不思議な小説』といった理解を拒絶した適当なラベリングと共に投げ出した責任を、世の書評人たちがこういう形で被るのは当然の結果だろう。あ、なんだか切腹しちゃった気分。
 3コマ目は『SFファンの引越し』ということで、SF者、いや紙魚者ならば誰でも頭を悩ますに違いない、大量の本を抱えたままの引越しに関する話題だった。僕の場合、本はここ10年で購入が激減したし、実家にかなり置いてあるので、手許には1000冊も無いに違いない。それでも、引越し荷物のかなりを占めるには違いない。これに自転車関係が加わると、もうカオスとしか形容しようがない状況がやってくるだけだ。
 壇上のSFファン代表は、先ほども出た牧眞司氏、サイコドクターこと風野春樹氏、徳間でアニメージュの編集長らしい大野修一氏、そしてSF関係のAVコレクターとして名高い門倉純一氏の4名だった。
 独身の大野氏以外は、いずれも一戸建てを購入して転居している。風野氏は、14畳ほどの書庫を用意し、移動式書架を設置したという。これで数万冊はいけるだろう。でもじきに限界だという話にはびっくり。
 門倉氏は、新居の地下にAVルームを設けたのだが、コンクリートを打って、水抜きが終わるのを待って、などと1年がかりだったそうだ。
 大野氏の場合、より広い場所に引っ越したのはいいのだが、引越し後の今も多くの本がダンボールの中に入ったまま積みあがっているそうな(その状況)。斜線の部分がダンボールと書架なのだ。実際には足の踏み場も無さそう。
 牧氏も最近になって書庫を増築したらしい。旧来の書庫の外に、さらに増築したのだとか。住むために家を建てたのか、本を積むために建てたのか、なかなか考えさせられる話だった。
 最後の4コマ目が、『鈴木いづみRETURNS』ということで、スキャンダラスな生き方を(ある意味)貫いた鈴木いづみを、作家として再評価しようというもの。大森望、高橋源一郎、森奈津子が語った。というか、専ら大森 v.s. 高橋。高橋氏は、やはり語りが上手く、話に引き込んでゆく力がある。そこに大森氏を当てたのは、今日の人材の中では、適切な人選といえたのではないか。
 鈴木いづみの場合、僕はSFマガジン掲載の短編と、『恋のサイケデリック』くらいしか読んでない。一部の作品に鮮烈に現れているのが、ジャーゴンの氾濫による異化作用だ。高橋氏は『ガジェットが氾濫して』と形容したが、むしろジャーゴンというべきじゃないかと思う。モノではなくてコトバなのだ。文章にぞりぞりと挿入される耳慣れない言葉によって、鈴木いづみは世界を変えて見せているわけだ。
 高橋氏は、『いづみはGSとか好んで書いてるけど、本当は好きじゃなかったのでは』と指摘した。鈴木いづみの視点は、そういえば冷めている。なにか熱中しているらしいものを語っていても、エバンジェリストというよりはレポーターというべき冷め方だ。だからだろうか、彼女の作品に強い作り物感を覚えたのは。
 終わってみると、森女史がもう少し突っ込んでくれたらよかったのにと思ったりした。まあなにやら鈴木いづみのテキストがかき集められ、出版されている最中なので、今は再評価が端緒についたばかりというところなのかもしれない。
 セミナー会場を後にし、JRでうとうとしているうちに帰宅した。来年は出られるかな。


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