Strange Days

番組改編期だ

2000年03月18日(土曜日) 23時55分 テレビ

 NHKの番組に3月一杯で終わりというのを見かけるようになった。サイエンス・アイは4月から23:30に移動してこっそりと続くようだが、三井ゆりが降りた。三井さん、ご苦労様でした。って何者か知りもせんで気安く労う俺様は何者だ。
 日本映像の20世紀もそろそろ全都道府県をカバーする頃だろうから、たぶん終わりだろう。すると9:00からぽっかり開くことになるが、なにを入れるんだろう。未来潮流が復活するならちょっと嬉しいぞ。大穴でYOUの復活だ(どんな大穴だ)。
 23:00からの「街道をゆく」も今週で最終回。今回は司馬の絶筆となった、また出版もされてなかった(と思ったらちゃんと出版されていた)濃尾参州紀行だ。実際の道行きは尾張から三河にかけてだが、この地域から出た戦国の三雄のうち、信長、秀吉は美濃と縁が深いので題名のようになる。
 話は信長の桶狭間強襲に始まる。東海一の弓取りといわれ、決して暗愚でも怯懦でもなかった今川義元を討ち取ったこの戦いは、小勢力に過ぎなかった織田勢力を一気に歴史の表舞台に立たせることになった。信長は神仏を奉ずることを嫌い、むしろそれを利用する事に努めた(足利将軍の扱いと同じだ)合理主義者といわれているが、司馬の見方もそれに準じている。信長は熱田神宮の権威を利用して兵を奮い立たせ、桶狭間強襲戦に打ち勝ったという。信長の偉さは、と司馬はいうのだが、この桶狭間の模倣を二度としなかった点にある。つまり桶狭間の戦いを奇跡と見て、同じように圧倒的に不利な状況からの戦いは挑まなかった点にあると。これは確かにそうなのだろうが、同時に織田が既にかなりに勢力を築いていた点も見落とせないだろう。そもそも極小豪族に過ぎなかった毛利元就の場合、その初陣、郡山城籠城戦、そして厳島の奇襲戦と、大勢力になれるまで幾度となく"奇跡の"勝利を遂げねばならなかった。いずれの場合も大勢力を敵に苦しい戦いを強いられ、物量で勝ち抜けるような戦いは老境に差しかかって以降の尼子攻めなど、むしろ少数とさえいえるくらいだ。こうした点を見ると、信長にはいくつもの恵まれた条件、運がついて回った点も否めず。それが天下人に近づいた少数者の条件であったとさえいえるのではないだろうか。
 司馬は三河に残る蜂須賀小六と秀吉、当時日吉丸といわれた小者の出会いにまつわる伝説が残されている。また小六と秀吉が八丁味噌を盗みに蔵に忍び込んだという残されている。美濃から尾張にかけて小勢ながら野盗や野武士を糾合して大勢力の下働きもしていた小六が、なにを好き好んで三河に出張したというのだろう。ともあれ、なぜか小六と秀吉の伝説が三河にいくつも残されているのである。司馬はそれを秀吉が偉くなりすぎたからだといっている。小六程度の小勢力は、歴史のなかに埋もれるはずなのに、秀吉という天下人と結びつけられたがために、純朴な三河人の記憶に「情け容赦無く」残されたというのだ。
 三河といえば最終的な天下人となった家康の祖地だ。家康の祖先は三河松平郷に流れ着いた修行僧だといわれている。その三河の小豪族が徐々に勢力を伸ばし、家康の父の代には三河半国を占める有力勢力にまで発展している。ところが東の今川氏、西の織田氏という有力な勢力に挟まれたのが松平氏の不運で、あっと言う間に三河は二大勢力の草刈り場と化してしまった。家康も少年時代は織田、次いで今川に人質として送られ、更には父が家臣に弑殺されるという事件も体験している。恐怖に満ちたものだったろう。しかしその家康を家臣団がよく支えた。家康にとって唯一最大の宝は、彼の幼少期からともに艱難辛苦を味わってきた家臣団だったといえる。彼ら家臣団から見て、家康は「愛敬のある人」に映っていたらしい。愛敬とは、愛すべき欠陥を抱えていることと見ていい。家康の場合、それは臆病さだったろう。
 家康の臆病さと勇敢さは三方が原の一戦に現れている。家康は彼を無視して進もうとする武田信玄の大軍に挑みかかるという暴挙を図り、思慮深い信玄にまさに鎧袖一触というべき無残な惨敗を遂げてしまう。この時に本多忠勝の勇戦により辛うじて危地を逃れるが、飛び込んだ浜松城ではすべての門を開け放ち、かがり火を皓々と灯すという一か八かの策略に出た。案の定、疑い深い武田の追撃隊は、策の存在を疑い、結局引き返してしまう。この敗戦で、家康は逃げ帰る途中に恐怖のあまり脱糞したという逸話も有名だ。この様に家康という人は勇敢さと臆病さの両極端を揺れ動く振幅の大きい人であり、それが天下取りという大事業を成し遂げたという想像も成り立ちそうだ。
 この家康の人柄に関する考察が、司馬の絶筆となった。
 1年に渡った街道をゆくも、今回が最終回。司馬遼太郎という人は司馬史観という(たぶんに批判的な)ものも語られるほど、近年の歴史観にインパクトを与えた人だった。しかし司馬は小説家だ。桁外れの見識を持つにせよ、その真偽を問われるような立場にはない。司馬の提示する"歴史観"に乗ったり誹ったりする方がおかしいのではないだろうか。
 僕が最近になって司馬の書くものを好むようになったのは、そのものの歴史観というより、歴史を眺めながら密やかに笑ったり悲しんだりする態度を気に入ったからに過ぎない。過ぎないなどと口幅ったいことをいえる相手ではない大作家ではある。しかし司馬自身は、自分の著書を斜め読みしてお気に入りの逸話や、自分の持つ幻想を投影するような読まれ方を、案外に疎ましく思ってはいなかったのではないだろうか。いずれにせよ、歴史とは無数の価値観が、残された事物をその物差しで読んでいく作業のことなのだから。
 司馬の面白さは中国に対して下へも置かぬ評価を書きながら、実はそこかしこで現代中国の矛盾を密やかに暴き立てているような、筆の掠れを読ませるようなところにある。歴史に対しても、また須田画伯に対する剽軽な記述にもそれがある。過ぎ去ったものに哀惜の想いを評しつつ、実はその裏で舌を出しているようなユーモアが、どこか殺伐としがちな歴史という舞台を、これほどまでに魅力的にしてみせたのではないだろうか。
 テレビでの放送は終わったが、本の方はやっと20巻を読み始めたところだ。今しばらく、司馬の剽軽な筆に付き合える。


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