Strange Days

2003年02月16日(日曜日)

NHKスペシャル

23時00分 テレビ 天気:雨

 今日のNHKスペシャルは、久しぶりの自然シリーズ。北海道の中央にある富良野の森の話題だった。
 富良野は北海道の中央という海から離れた場所ゆえに、日本でもっとも低温になる場所だ。氷点下41度というとんでもない記録も残されている。
 富良野には東京大学の演習林がある。人手が全く入ってない、原始の森の姿が残されている。
 この森には、他の地域では見られないような、珍しい生き物たちが棲息している。
 クマゲラは、日本に生息するキツツキ類の中ではもっとも大きくなる鳥だ。力強い両足で体を支え、強力なくちばしで倒木に穴を穿ち、そこに潜む虫などを捕食する。
 エゾリスはオニグルミなどの果実を取っては、そこら中に埋めて蓄えてしまう。なんだかラブリーな生き物だ。
 また植物相も独特だ。
 この地にはエゾマツという松の一種が良く見られる。その形状は不可思議で、根元の部分が大きく地上から競りあがって、下に空洞が出来ているのだ。
 5月、遅い春がきて、短い夏が去り、あっという間に収穫の秋も過ぎ去ってしまう。そしてやってくる過酷な冬に、生き物たちは生き残るための戦いを繰り広げるのだ。
 冬眠しないエゾリスにとって、秋に蓄えた木の実は生き残るための糧だ。だが、厚い雪の下からどうやって探し当てることが出来るのだろう。エゾリスは嗅覚が非常に鋭く、こんな状況でも匂いでかぎ当てられるのだとか。
 エゾシカは、冬に入ると葉や木の実といった物を口に出来なくなる。彼らが飢えを凌ぐために、森の若木が犠牲になる。すなわち、まだ柔らかいそれらの皮を削ぎ喰らい、飢えを凌ぐのだ。しかしそれも冬が深まると喰らい尽くしてしまい、彼らは餌を求めて争うようになる。幼い子供たちが、この飢えに耐えかねて力尽きてしまうこともある。
 クマゲラは、まだ雪が少ないうちは、そのくちばしで器用に除雪し、暖かい頃と同じように虫を取ることが出来る。しかし、冬が深まり、分厚く雪が積もるようになると、もうそれも不可能になってしまう。倒木には雪が積もりやすいというのもあるのだろう。すると、クマゲラはこの時期にしか見られない不思議な行動を取り始める。通常、クマゲラが虫を探すのは、既に寿命を終えた倒木などの腐った木だ。健康な木には、虫などは寄り付かないからだ。ところが、真冬になると、そうした健康な木に穴を穿ち始めるのだ。健康な木は腐った木よりも組織がしっかりしており、通常よりなお労力が必要だ。しかし、延々と掘り進んだ果てに現れたのは、表面には見られないような黒ずんだ、死んだ組織だった。健康そうな木でも、中心に近づくと組織が壊疽を起こし、そこにアリなどが住むつくことがある。冬のクマゲラは、そうした虫たちを取って、飢えを凌いでいるのだ。どうやって、そんな深部の状況を把握しているのか、これは不思議なことだ。トライ・アンド・エラーで手当たり次第にやっているのだろうか。
 さて、件のエゾマツの根の秘密は? それには、エゾマツ特有の繁殖戦略が関わっている。
 エゾマツは、秋には無数の松ぼっくりを実らせる。そのそれぞれに100以上の種子を格納している。一本のエゾマツが果実させる種は、数万個に及ぶ。しかし、エゾマツの種は雑菌に弱く、地面に落ちると雑菌にやられ、実ることが出来ない。秋、エゾマツは種子の半分を散布させるが、それは実ることなく消えてしまうという。
 冬になっても、エゾマツはじっと種子を抱えている。ある得意な気候の日を待っているのだ。やがてその日が来る。
 極度の低温のために大気中の水分が凍りつき、ダイアモンドダスト現象が発生するような日がやってきた。大気中の湿度は極限まで下がり、また地上も乾ききった風と雪に覆われ、全てがさらさらと流れてしまうような日だ。エゾマツはこの日を待っていた。恐らく、低温と低湿度がキーになっていたのだろう、種子が一斉に放出されたのだ。種子は乾ききった雪原を、風に吹かれて散って行く。雑菌が極端に少ないこの時期なら、雪面に落ちても腐ることは無い。そうして風に飛ばされながら、種子はある特殊な地点を目指すのだ。
 やがて春を迎え、生き残ったエゾマツの種子は、新天地で芽吹く。そこは……力尽きて倒れた倒木の上なのだ。倒木は雑菌が少なく、また栄養も豊富なので、エゾマツの種子には絶好の苗床となるのだ。そうしてすくすく育っていったエゾマツが、大きく幹を伸ばす頃、苗床となった倒木は朽ちて消えてしまう。そして、エゾマツの不思議な形態が形作られるのだ。
 冬は生き物にとって苛烈な季節だが、反面、その生き残りをかけて能力の極限を発揮する躍動の季節でもあるようだ。いや、こっちは傍観者だから気楽なもんだけど。

2003年02月13日(木曜日)

ビデオデッキ更新したいが

00時00分 テレビ 天気:いいのかな

 ビデオデッキを更新したいと思っている。更新したいとずっと思っている。なにせ、ウチにある最新のものですら、'95年製造の8mm/VHSのデュアルデッキなのだ。8mmがフェードアウトした今、真剣に後継を考えねばならない。
 巷では回り物(DVD-xなど)が主流になっており、PCとの共用を考えるとDVD系とHDDのデュアル機がいいのかなと思う。しかし、どうせDVDに落とすのだったら、デッキと適当な手段で交信できればいいのだから、IEEE1394インタフェース付の適当なデッキでいいような気もする。そういう意味で、シャープが発表したパーソナルサーバも気になるなあ。実売10万以下だったら、こいつにしちゃうかも。
 なんにせよ、今のデュアルデッキが生きているうちに後継機を決めなければ、手持ちのテープが再生不能になってしまう。こういう時に限って、急に逝っちゃったりしてな。嫌な予感にうなされるような今日この頃だ。

2003年02月08日(土曜日)

NHKスペシャル「ギリシア正教秘められた聖地・アトス」

23時00分 テレビ 天気:晴れ

 今夜のNHKスペシャルは、ギリシア正教の聖地、アトスの話題だった。
 正直、ギリシア正教は、カソリック、プロテスタントはおろか、ロシア正教よりなおなじみが無く、そういえばそういう宗派もあったな、という印象だ。
 アトスは、ギリシア北部にある半島の南端に位置するアトス山を中心としている。古く8世紀頃からビザンティン帝国の聖地として名高い土地だ。10世紀前後には最盛期を迎え、100もの僧房が並び立っていたという。
 現在、アトスには20の僧房があり、そこで2000人ほどの修行僧が祈りの日々を送っている。
 アトスの修行僧たちは、用が無ければ僧房の外に出ることは無い。その生涯を、祈りの中に終える。なんか、非生産的すぎないか。
 この地では、外交権を除く自治が確立されており、自前の政府を持っている。15世紀からこちら、厳格な女人禁制を貫いているアトスでは、猫を除いて家畜の雌さえも存在しない。猫だけは、増やして鼠を取らせるためと言う名目で、特別に許可されているという。鼠は家財にダメージを与えるだけでなく、伝染病を広げもするので、格別恐れられたのだろう。
 アトスではビザンチン帝国以来の古制が、いまだに頑なに守られている。ユリウス暦を使用するのもその一つだ。暦も、生活時間も、アトスの外とは大きく異なっている。
 一日は日没とともに終わる。その前後、修行僧たちは、一日のうち最も大切とされる、長い祈りの儀式を執り行う。キリスト教の儀式には疎いのだが、儀式には聖グレゴリオ讃歌とはまた違う、古い歌謡の形式を持った讃歌が用いられているようだ。
 儀式を終えた修行僧たちは、自室に戻り、そこで個々の祈りと、神との対話の時間を持つ。それは深夜、あるいは明け方まで続けられることがある、深い内観の時間なのだろう。
 明け方、まだ日の無いうちに、再び祈りの儀式が執り行われる。それから、ようやく朝餉となる。食事は日に2回だけ。それも、完全な自給自足体制ゆえに、ごく慎ましやかなものだ。
 昼の間、修行僧たちはそれぞれに労働に精を出す。畑を耕すもの、家屋の修繕を行うもの、など。イコンの模写もその一つだ。イコンは正教系の教会に唯一登場する偶像で、定められた道具と手法で模写が行われる。新たにイコンが起こされるということは無さそうだ。いや、身内の僧が聖列された時など、もしかしたら新しいイコンが加えられるのかもしれない。
 アトスには、ギリシア全土だけでなく、ロシア正教や、さらに遠いキリスト教世界からも、数日の滞在のために人々が訪れている。彼等を受け入れ、善導するのも仕事の一つだ。
 僧房を離れて修行する人々もいる。彼らは厳格な僧房の生活を離れるかわり、全てを自給自足しなければならない。ある青年僧は、師匠である老僧とともに暮らしている。彼は幼い頃にスラムに捨てられ、それ以来どん底の生活を送ってきた。俗世間に未練が無いように見える彼にも、実は両親への郷愁が残っており、いまだに断ちがたいという。「自分も50までは(そういった誘惑に)苦しんだ」と老僧も語る。50を越えると、さすがに枯れて来るということか。
 修行僧たちがアトスに入る動機は、様々なものだ。かつては10代でアトス入りするのが普通だったが、今では20台、30台の、一度社会に出た人がやってくることが多いという。ある修行僧は、人間関係や仕事のことで苦しんだ挙句、とうとうアトスでの修行生活を選んだ。この辺、万国共通の現象なのかなと思う。
 アトスは、ビザンティン帝国の庇護の元、10世紀までは大いに栄えた。だが、ビザンティン帝国がオスマントルコに屈服すると、その圧政下、重税に苦しむことになる。しかも、海賊の侵攻にも悩まされることになる。そのような状況のもと、自衛のための武装も備えられていった。今でも、武装した修行僧によるパトロールが続けられている。
 アトスに匹敵するのは比叡山、あるいは高野山辺りだろうか。信仰を持つ人々への評論は措くとして、信仰というものの継続性が、国家の寿命を凌駕するという現実に、目を瞠る思いがする。などと司馬遼太郎風に締めたりしてな。