Strange Days

News23でのR.村上 v.s. 筑紫哲也

2000年06月09日(金曜日) 23時39分 テレビ

 この間インターネット中継されたR.村上と筑紫哲也の対談が、News23で放映された。時間的に15分程度のごく短いものだったので、ほとんど要約というレベルだった。まあ移り気な視聴者は深い議論なんざ聞きたくないのだろう。
 対談そのものは筑紫による「共生虫」の予言性に対する指摘に始まった。村上は自分の中で"引きこもり"をシミュレートしたらああなっただけだとかわす。
 対談では、'90年代に入っての相次ぐ経済的社会的破綻を子供たちがつぶさに見て、大人への信頼を喪失した点を指摘している。また少年の犯罪に対する社会全体のばかげて過敏な反応が、自己の位置を見失って犯罪に走る少年たち(とは限らないと思うが)に付け入る隙を与えているとも指摘している。
 これはどういう意味か。大きな犯罪を起こした少年たちの言動を見ていると、何か漠然としたもの、例えば学校、例えば社会に対する復讐というニュアンスが引き出される。この対談でも語られたように、語彙の少ない少年たちの言葉を額面どおり受け取るのは危険だ。だが漠然とした目標に向けられた漠然とした感情というものの存在は明らかだ。そこで自分が起こした犯罪に対し、社会全体があたかもこの世の終わりのような反応を示すことは、犯罪者だけでなく、その予備軍たる少年たちにも達成感を与えてしまうということだと思われる。
 村上は、「子供はもっと愚かであっていいのでは」という。まだ幼いうちからなにかを悟ったように感じ、未来への閉塞感を抱く子供の多いことに、村上は懸念を抱いているようだ。
 それと矛盾するようだが、と村上は前置きを置いて、「戦略的に生きろ」とも語った。自分が何をしたいかを見極め、それを達成していくような生き方をしろというのだ。
 しかしこの前後の論理の乖離は大きい。悟ること、何か結論を出すことを回避しながら、自分の進む道を見極めるというのは本当に可能なのだろうか。この辺、実は村上もまだ未整理の問題なのだと感じた点だ。
 一方筑紫は「モデルの不在」を指摘した。戦前は大将か大臣か、戦後はもう少し具現化して本田総一郎やビル・ゲイツ(マジかよ)か、というモデルがあり、それを目指すというある意味戦略的な生き方が可能だった。ところが今、少年たちには成りたい者がないというのだ。そして筑紫は、そこには肯定的な意味もあるという。多様な生き方を、自分で決めることができるのだから。しかし「モデル探し」をしてしまうのは、これはもう人情というものではないだろうか。
 僕が感じたのは、少年たちの"語る技術"の貧困さは、彼ら自身を苦しめているのではないかというものだ。人間は苦痛を感じたらそれを人に訴えたり、訴えることが出来なくても自分の内部で言語化してその根源と対決することができる。しかし今、子供たちは語ることが苦手になっている。語るということは語彙だけの問題ではない。まず語るべき事項の持つ意味性、それら相互の関連する論理性をも理解し、きちんと行使することが重要だ。また語るべき事項が、現代ではあまりにも複雑になりすぎていることも指摘できるだろう。「ちびくろサンボ」が善だった、あるいは悪だった時代のなんと単純だったことか。
 "語る技術"は、語彙を習得し、それを文法に沿って幾度となく繰り返し使用することで得られるものだ。そこには必ず訓練という要素が必要とされるだろう。しかし教育の現場では訓練という要素が次第に軽視されているように感じている。「個性」という魔物に囚われすぎて、軍隊の記憶を呼び覚まさせる訓練という要素を、現場の教師が次第に排除しつつあるのではないかと勘ぐってしまう。
 語る、ということは人間の生活史全てに関わってくるものだから、いずれにせよ少年に自らを積極的に語らせるように、社会の様々な局面で働きかけていくのが筋ではないだろうか。
 この対談、時々インターネットのBBSでのメッセージを拾い読みしながら進んだ。この点だけはインターネット公開の意味があったといえるだろう。


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