Strange Days

NHKスペシャル 「いのちの言葉」

2001年08月18日(土曜日) 23時27分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、ALS(筋委縮症)に冒されて、全ての表現の術を失った男性が、それでも脳波を介した"声"で周囲の人々と語り合うというレポート。
 ALSは、全身の筋肉が突然無力化するという恐ろしい病気だ。海外では車椅子の物理学者、スティーブン・ホーキングがその患者として著名だ。マイケル・フォックスもそうだったろうか。いずれにせよ、国の内外とも相当数の患者が存在している。その原因は不明で、治療の可能性は未だにゼロに近い。
 筋肉が無力化するということは、言葉を発したり、文字を書いたり、目くばせしたりという、人間のもっとも単純なコミュニケーション手段が行使できなくなるということだ。ホーキングは比較的幸運にも(といっても程度の問題ではあるが)指先の筋肉が使えたので、最初の頃はキーボードを介してコミュニケートしていた。しかし症状が進むと、視線を使った入力しか用い得なくなってしまった。このように、症状が進むに従ってコミュニケートがどんどん困難になってしまう。
 番組で取り上げられた男性は、そうした症状がもっとも進んだ例だ。指先はおろか、まぶたの筋肉すら弛緩してしまっているので、もはやあらゆるコミュニケート手段を失ってしまったのだ。それではどうやって外部とコミュニケートするのか。
 ALS患者は、しかし大脳を中心とした思考能力だけは全く損なわれることがない。そのことは、意識を集中した際に起こる脳波の変化は健常者と変わりないことを意味する。そこでこの脳波のピークを捕らえ、それを"ピッ"という音声信号に変える装置が考案された。これにより、少なくともその瞬間、質問者に対して同意したか否か程度の意思は表明できる。これにより、この男性は、「暑いか」とか「XXが見えるか」という程度の質問には答えることが出来るようになった。
 それにしても、思考能力が衰えないという点が、ALSの悲劇性をより強調しているように思う。肉体が生命維持や表現のためのものではなく、いわば精神の牢獄と化してしまうのだ。自分からはいかなる働きかけも出来なくなる。そしてそれを眺めているだけの"意識"......。なんという恐怖だろう。これほどの重い十字架を背負ってしまった人というのは、他にはあまりないだろう。もしも僕がそうなったのなら、むしろ発狂してしまうかもしれない。
 しかし、ALSは自殺する能力すら奪ってしまう。ALS患者は、あらゆる能動的な能力を失うという点で、際だった特徴を持っているといえるだろう。その生命の維持もなにもかも、他の誰かに委ねなければならないのだ。
 この男性は、先の装置が取り付けられるまでの数年ほど、外部にいかなる意思表示も出来ない状況が続いた。それ以前、無力化の進行に伴い、人工呼吸器の取りつけが必要になり、声を失うという経験をしていた。その時、この男性は呼吸器の取り付けに難色を示していた。これ以上、家族の重荷になりたくないと思ったのだ。しかし妻は呼吸器取りつけを望み、結局その通りになった。その前後から男性の"言葉"が荒れ始めた。周囲の医師、看護婦、そして家族に当たり散らしたのは、次第に失われて行く能力への恐怖だったのだろうか。しかし、視線を介したコミュニケートすら不可能になることで、遂にそれさえも失われてしまった。
 "声"が失われていた数年の間、妻は独りで怖かったという。果たして今していることが夫にとって良いことなのだろうか......。そういう疑問に悩まされたのだ。脳波を使った"声"は、それを解消してくれた。
 この装置を使って、より積極的な意思表示が出来るようにもなった。側で50音を順に読み上げ、目当てのところに差しかかったところで男性が意識を集中、"ピッ"という音を出す。それを拾って行くことで、文章を組み立てることが出来る。YES/NOどころか、"言葉"さえも取り戻したのだ。男性は、ごく単文で表現できる創作として、俳句を作るようになった。そして最近、その作品集を出版するに至った。
 言葉を取り戻す事は、男性と周囲の関係を再構築するのにも役だった。
 夫婦の次男は、子供の頃に父が周囲、特に看護婦に当たり散らす様を目撃して以来、この「嫌な男」をほとんど無視して過ごすようになった。彼には父の反応が理不尽なものに見えたのだ。彼は父が、これほどになってまで果たして生きていたいのかどうかが疑問だった。ところが、"声"を取り戻してしばらく経って語った父の言葉が、彼に衝撃を与えたのだ。長い沈黙の果て、父は「生きたい」と語り始めたのだ。「これほどになってまで生きたいなんて」と、次男は素直に驚きを感じたという。それから、彼は父に興味を持って接するようになった。
 長女は逆に、父が周囲に当たり散らす様を見て、医療の現場での至らなさを感じたという。彼女は現在、看護婦を目指している。
 このように、ALSの恐ろしさは、"声"を奪ってしまうことだと思う。他の病気やケガならば、他の手段で補うことも可能だろう。ところがALSは、あらゆる能動的な能力を奪ってしまうので、それが困難なのだ。脳波を使った"声"は、それを乗り越える数少ない可能性の一つだ。ホーキングがいうように、「ALSでできなくなることはそんなにない」が、それもなんらかの表現手段があってこそだと思う。ALSの治療を可能にする遺伝子医療がどれほど急進展するか分からないが、それまではこうした機器が患者の精神を救うことになるのだろうか。


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