Strange Days

お得な気分だったアートポタリング

2005年03月19日(土曜日) 20時26分 自転車 天気:花粉日和の陽気

 おの氏の案内で世田谷アートポタリングという催しがあると知り、急遽参加した。横浜美術館ならまだしも、世田谷美術館なんていうマイナーな(失礼)美術館に行く機会は無い。興味があった。
 区内に四つもの区営美術館を持つ世田谷は、実はハイソな町なのだと思い知った。


 昨夜遅く、ふとメールをチェックしたところ、BD-MLに投函*1されていた、おの氏のメールが目に留まった。なんでも、明日、世田谷の美術館を巡るポタリングが開催されるとか。急な募集だったが、なんでも世田谷美術館などの入館料が無料になるという。往復の旅費と比較し、安上がりになりそうだったので*2、参加を申し込んでおいた。
 朝、トレンクルで戸塚まで走った。荷物はブラックホールのヒップバッグ*3に入れた。そこそこ物が入って、ヘルメットホルダーまであるのが便利。しかし、ウェストベルトが妙に緩みやすいのが気になる代物だ。
 今日はちょっと違った経路を通った。いつもなら小田急江ノ島線、東急田園都市線と乗り継ぐところだ。今日は横浜までJRで出て、そこから東横線、自由が丘で大井町線に乗り換えた。東横線のホームを相鉄のそれと勘違いして、しばし横浜駅をさ迷ったのは内緒だ。
 ともあれ、二子玉川に無事に到着し、淡い記憶を元に世田谷美術館へと向かった。大体、定時に到着すると、裏手に自転車集団が集結中だった。おの氏、ねず吉氏らと顔を合わせ、参加登録をしておいた。参加者はロード乗りからMTB、リカンベント、ママチャリなど、非常に多彩であった。僕のトレンクルが、ほぼミニマム?
 まずは世田谷美術館本館。企画展として滝口修造展が開催されていた。なにせ前日真夜中に知ったばかりの催しなので、予習をまったくしてなかった。おかげで、この人誰よ? という状況のまま、陳列物*4を順繰りに眺めていった。油絵の具と薬品を使って偶然に醸し出されたような図形、詩篇、抽象画、謎の構造物、などなど。頭に'?'が点りっぱなしだった。なんとなく正体を悟ったのは、半分ほども見終わった頃だった。美術評論家にして蒐集家、シュールレアリスムの紹介者、というところだろうか。数多くの作品は、その友人たちからの贈り物や、自分で蒐集したものたちだったのだ。作品というよりは陳列物というべきだろう。芸術家、というよりも、一つの芸術コミュニティの空気を感じ取れたような気がする。
 滞在時間は1時間だったが、とても見て回れなくて、企画展を駆け足で回っただけだった。収蔵品展は手付かずだった。企画展の対象が蒐集家ゆえに、展示品がふつうの倍あったというのも大きかったとか。
 次に向かったのが、分館の一つ、清川泰次記念ギャラリー。ここはまさにギャラリーというところで、地元区民の作品展が開かれていた。使用されていたアトリエの、床面に飛び散った絵の具が印象的。こんな天井の高い部屋が欲しいもんだ。
 ところで、この間の移動には、当然自転車を使用している。しかし、この界隈は交通量が多く、自転車が隊列を組んで走るにはちと辛いのだ。後々、反省会でもそういう声は多かった。今日は小回りの効くトレンクルでよかったかも、と思った。
 昼食は、近所の市場にある食堂で取った。なぜかウナギの蒲焼を食ってしまう。なにか猛然たる食欲を感じたのである。
 昼食後は、世田谷区を東に走り、向井潤吉アトリエ館を襲った。ひたすら日本の古民家を書き続けた洋画家で、小金を持った人が、自宅の玄関に飾りたいと思うような絵が多かった。どっちかというと、これは手慰みでね、ってな感じで製作されたっぽい水彩画の方に惹かれた。油絵に比して、画面そのものの主張が少ないからだろうか。
 ちょっと寄り道して、区内のギャラリーにも立ち寄った。民家を、週末だけ開放しているというそれに立ち寄った。数寄屋造りの瀟洒な家屋にお邪魔して、ここに居を構えていた作家の作品や、茶室に入れていただく。うるさい長後街道沿いの住民からすれば、別世界の静かな空間が印象に残った。
 次はびっくり、ふつうの賃貸住宅の地下で、オーナーと知己のアーティストの作品を展示してあるというもの。艦対空ミサイルを20発くらい収容できそうな、地下から1階までぶち抜きの空間に、ただ一つの造形物を展示するという、贅沢なアレンジだった。肝心の展示品は、ごめん、良く分からなかった。バスタブ風の物体に、ゆらゆらとうごめくようなクレヴァスを掘り込んだ代物だった。
 もう一つギャラリーを冷やかしてから、最後の分館に向かう。宮本三郎記念美術館。宮本三郎は、さすがの僕も知っている。洋画界の重鎮だ。というよりボスだという話も聞いた。
 ここでは、宮本三郎の作品を、ほぼ時系列に沿って陳列してある。美術館の人*5の説明を聞きながら閲覧できたのは良かった。
 宮本の画風は、戦争を挟んで一変している。戦前のそれは、洋画の技法で、日本的なものを描こうと試みていたようだ。どちらかといえば、平板に見える画風だった。先の向井潤吉は、民家にこだわった画家だったが、宮本は女にこだわった。モデルをスケッチしては、イメージを膨らませていったような絵が多い。
 そんな宮本に、第一の転機が訪れた。第二次世界大戦時、戦地に記録画家として派遣されたのだ。記録画家となった者は、大なり小なり、同じような困難に陥ったのだが、宮本もその後苦しんだようだ。苦しんだというのは想像に過ぎないが、それを超克したと思える後の作品を見るにつけ、そう思えた。困難、というのは、戦地にてあまりに強烈な体験を重ねたため、平凡な日常の中に描くべき物が見つからなくなったことだ。宮本は、戦後に吹き荒れたシュールレアリスムの影響を受けたこともあり、画風を微妙に変えてゆく。試行錯誤の時期だった。
 それをなんとか乗り越えようと悪戦苦闘し、'57年に完成させたのが、『乳牛』という作品だった。大島で数百枚に上る牛のスケッチを重ね、悪戦苦闘の末に完成させたこの作品こそ、さきに挙げた"超克した"瞬間だと思う。大作だが、描かれているのは1頭の牛の全体像。それも、油絵の具を何度も、何十度も塗り重ねた末に、平板に見える牛の全体像を、画面に"刻んで"しまっている。本当に、輪郭線をヘラで削ったのか、そこだけが轍になっているのだ。造形的に美しいというより、これと格闘し格闘し、遂に絵を彫り込んでしまった、画家の気迫に共感を覚えた。
 この絵を境に、宮本はシュールレアリスムとの関連を断ち切り、豊穣な色世界とディテールを取り戻してゆく。むしろ、抽象画にさえ見える『乳牛』からなにを学んだのか、うかがい知ることは出来ない。が、もしかしたら現実世界のディテールを無視し、意味だけを抽出するシュールレアリスムの手法を突き詰めようとして、遂に限界を見出したのかなと思った。あるいは、牛のマスにこだわった結果、なにかを掴んだのか。
 後期から晩年にかけて、宮本の絵に顕著になってゆくものがある。それは、鮮やかな赤。赤がポイントになってゆくのだと、説明された。学芸員の話では、宮本の故郷*6の山に、秋ごとに現れる鮮やかな紅葉が、この赤のヒントになったのではないかということだった。
 その後、この美術館の一室をお借りして、反省会が開かれた。いや、アルコールが登場するあれではなくて、本当の反省会。
 やはり、交通状況への懸念がいくつか指摘された。しかし、今日は特別に多かったとかで、普段はそれほど危険ではないだろうという意見も出た。実際、成城学園近辺と、最後の自由が丘近辺を除き、比較的快適に走れたと思う。
 最終的に解散となり、一人で自由が丘まで走り、ここからは往路を逆に通って帰宅した。この催し、また開かれるようだ。

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