Strange Days

2003年01月23日(木曜日)

インターネットは人類の鏡かな

00時00分 思考 天気:雨の一日であつた

 不眠症とまでは行かない。しかし、ストンと素直に眠りにつけるタイプではない。眠りに就くまでいろんな事を考えてしまうのも、さっさと眠れない一因だろう。今後の人生のこととか、PC群を立て直さなけりゃとか、カーボンフレームのロードバイクが欲しいなとか、ナイチチの独裁妹に萌え死にそうとか、どうでもいいようなことばかり考えてしまう。
 最近、ふと考え始めたのが、インターネットが人類の知の創造にどれくらい関わっているのだろうか、という疑問だった。いわゆるインターネットに対して、『人類の知の新たな最前線』とかいった扇情的な言葉を贈られることもあるようだ。と思って検索してみたのだが、『人類の知を創造する』とする人は非常に少ないということに、今になって気づいたりしてな(だめじゃん)。替わりに、『人類の知を集積できる』と考えている人は非常に多いようだ。というわけで、世間の人々はインターネットと"知"の関わりとして、『その集積、新たなる図書館』という役割に重きを置いていることが分かった。なんか、僕の最初の目論見とは違う方向に話が進んでしまいそうだ......。
 実際、僕自身のインターネットへの関わりを見ても、便利な電話、回覧板代わりの電子メール、掲示板、そしてなにか新しい知識を得るための検索エンジンとして使うのがメインだ(掲示板という娯楽はあるにせよ)。その"新しい知識"も、既に『誰かが知っている事』に他ならない。つまり、インターネットを経由して手に入れられるのは、誰かにとって既知の事項に限られるのである。当たり前すぎる結論でした。
 インターネットを介して人類の知を集積して行けるのならば、そこに人類のありのままの姿を見出すことも出来そうに思える。だが、インターネットに見出せる"ありのままの姿"は、どうにも現実世界で思い描くそれとは隔たっているのではないだろうか。SPAMに代表される犯罪意識の欠如、2chなどBBSに見られる過剰さ、そして犬の時間(Dog year)などと表現される全体的に異様な進行(必ずしも進歩とはいえない)の速さなど、現実世界に基づくにせよ、かなりデフォルメされているように思える。つまり、インターネット上に描かれる人類の姿とは、何者かの意図やなんらかの技術的要因によってデフォルメされた、ポートレートに過ぎないのではないだろうか。......いや、それだけのことといえば、それだけなんですケド......。
 最初に戻って、『人類の知を創造する』というのは嘘なんですかねえ。考えてみれば、『知の創造』に関わるモノといえば、ハッブル宇宙天文台だの、ジーン・アナライザのクラスタだの、もっぱらモノを観測する手段、そしてそれを知覚して思考を巡らす人間の脳ミソくらいに限られてくる。数学の世界では、電算機で"エレファントな解"を求めるという方向もあって、それはそれで分散コンピューティング絡みでインターネットと密接に関係しているといえなくはない。でも、インターネットの機能(情報の流路であり、一時的な集積点であり)からすると、どうしても創造そのものというより、創造を支援するツールという度合いが高くなるのは止むを得ないだろう。しかし、それを言うなら、人類の"知"が創造される瞬間というのは、いつだって誰かの頭にそれが認識された瞬間であるはずで、だからこそ"自然科学"という、自然探求を掲げた分野が幅を利かせているのではないだろうか。ハッブル天文台にせよ、結局はツールに他ならない。
 もしもインターネットが知の創造に直接的に関わることがあるとすれば、それは情報を流し、一時的に蓄積するというその機能に直接与っている場合ぐらいだろう。そんな"創造の瞬間"が時たまある。複合知、つまり、1+1>2となる場合だ。いくつもの知識を重ねて行くことで、新しい知識が生まれて行く。そんな体験が、誰にでもあるはずだと思う。そういう創造の場所には、インターネットはいかにもふさわしい。しかし、だからといって人類の知の最前線を主体的に押し上げたとは思えないのだ。むしろ、インターネットは、人類の知のレベルを底上げしつつあるのではないだろうか。要するに、インターネットの知識創造機能を体験できるのは、僕のように知の底辺で蠢いている人間に限られるのではないだろうか。

なんとなくBEE GEESが

00時00分 音楽 天気:雨の一日であつた

 今日も残業で遅く、しかも雨なので夜トレ出来ずであった。欲求不満が募る今日この頃。ああ、ランスペダルが泣いてるぜ。土日とおとなしくしてようかと思っていたのだが、土曜日は津久井湖辺りまで遠乗りに出かけようかと思ったりして。
 そんな欲求不満と疲労が溜まっているせいか、このところ軽い音楽ばかり聴いている。普段、日本の古めのロック/ポップスを除いて、海外のスラッシュだのハードだのを聞いているのだが、疲れた体にはチト厳しい。そこでビージーズだ(なぜだ)。
 とまあ、そんなに深く考えているわけではないけれど、ビージーズの曲がヘビーローテーションされているのは事実。なぜかと考えると、ビージーズって大音量で聴かなくても気持ちいいんだよね。ヘビーなビージーズ野郎どもは、アパートが振動疲労で解体しそうなくらいの大音量でなきゃ、と主張するかもしれない。でも、'70年代終わりのディスコシーンを、金の無い子供時代に体験した僕には、ビージーズというのはラジカセの安っぽいスピーカーからタラタラと流れてくるモノだったのだ。
 それに、よほど優れたエンジニアの仕事だったのだろうか、ビージーズの曲って大音量で聴いても小音量でも気持ちがいい。『どんな大音量でもバランスが崩れない』というのは、特にハードロックでは誉め言葉だけど、その逆もまた然りではないだろうか。そのバランスのよさを支えているのは、一つには妙に変態的(爆)なボーカル。器楽の音域から飛び離れているので、割と通りやすいのだ。それと、多用されるストリングスでは無いだろうか。Saturday Night Feverがディスコミュージックの割に(これは偏見か)下品じゃないのは、控えめなストリングス・ワークの賜物だと思うのだが、どうだろう。考えてみれば、アルバムの通算出荷枚数が1億枚を遥かに越えるぐらいなのだから、単に時流に乗っただけではなく、もともと優れた音楽センスを持っていたのだろう。などと今さら僕が偉そうに分析してみせる要も無いよな。
 そのビージーズも、モーリス・ギブの死で揺れ動いている。活動を継続するとはいうが、名前を変えるともいう。ソロだった末弟も'80年代に亡くなっているのだが、なにかに祟られているのだろうか、この一族。
 BEE GEESと共にローテーションされている曲には、癒し系のものが多い。"癒し系"という言葉には、"癒して、癒して"というさもしい求め、"癒してやろう"という卑しい傲慢さを感じてしまって嫌なのだが、聞いている時の心情を自己分析すると、まさに癒しをさもしく求めているとしかいいようがない。癒しは卑しい。でも疲れた体は、まさにそんな卑しい癒しを欲しているのだな。こんな心情が霊感商法に安易に走らせたりするのだろう。卑しい癒しを求める相手は、音楽ぐらいに留めよう。
 今、一番癒されている曲は、DEEP PURPLEの俺的ベストであるAviatorだ。この曲は、初めて耳にして以来、ローテーションから落ちたことが一度もない。音楽産業から身を引いていた間は、航空会社のパイロットとして働いていたスティーブ・モーズらしい、しみじみとした叙情を感じさせる名曲だと思う。リッチーのいないパープルなんて......といわず、一度聴いて欲しい。モーズは、今でも自家用機と共に、小さな自家用(!)滑走路の側に暮らしているのだとか。そういう経歴が、優れたギターワークにつながっているのだろう。
 そのPURPLEも、去年の頭、ジョン・ロードの脱退という最大の危機を迎え、揺れ動いている。いちおう、これも優れたキーボード奏者であるドン・エイリー(ex.Rainbow)の加入という形でけりはついたが、ブラックモアはともかくロードまで抜けてしまったPURPLEに、その音楽性を維持できるのだろうか。Aviatorの叙情性を支えたのがロードの優れた音のセンスだと思っている僕には、どっちかというとプロっぽい無機質な音造りを得意とするエイリーの加入は、かなり心配だ。BURRNのインタビューで『リッチーとまた仕事するかも』なんて軽くいってたロードの動向も含めて、PURPLEの動きから目を離せない(などといいつつ数カ月くらい平気で忘れてたりするが)。
 とまあ、見事に取りとめの無い日記になってしまった。日記性皆無なので、むしろ随筆というべきもんか。