Strange Days

2002年01月22日(火曜日)

すげえ夢

23時55分 思考 天気:まあまあ晴れ

 正確には翌日になるのだろうが。その翌日に前日分を書いている都合、1/23未明に見た夢を1/22付日記に書く。
 22:00くらい、かなり眠くなったので、「あー、風呂に入らなきゃ」と思いつつ、布団に横になって寝入ってしまった。また寝る前に自転車に乗っていた。そのせいで、こんな夢を見たんだと思う。
 僕は、どうやら実家から広島辺りまで、長期ツーリングに出かけようと決心したらしく、自転車を走らせていた。道はなんだか荒れ果てたコンクリートのようなものが続いていて、一段低いところを車が走っているようだ。ごつごつした道に恐々走らせていた。この辺、荒川オフに参加して少し荒れた路面でこけた経験や、ロードバイクで荒れた道を恐々走らせた記憶から由来しているようだ。しかし、乗っている自転車は意識できない。
 やがて、今いる場所が、実家のすぐ近くにある肉屋さんの前だと気づいた。なんだか知らないが、かつて良くお使いに行かされた時の記憶が残っているようだ。夢を思い返すと、妙に懐かしい色がある。
 ここで、「まだ(実家に)こんなに近いなら、実家に帰ろう」などと考え、次に実家に飛ぶ。実家は現実のそれではないようで、風呂がやたら大きいようだ。僕はその脱衣場(8畳くらいありそうだ)に入り、さて、沸かしておいた風呂(ここら辺は現実の「風呂に入らなきゃ」が影響しているようだ)に入ろうとする。しかし、脱衣場と風呂に入る戸口辺りはなぜか荒れていて、得体の知れない生き物が群れる磯のような景色になっている。僕はそれ越しに扉を開け、風呂に入ろうとする。ところが、風呂もまた妙な具合に(磯というか水族館の水槽というか)荒れていて、浴槽の中には烏賊らしき謎の生物が泳ぎまわっている。夢の中とはいえさすがにたじろぎ、風呂に入るかどうか思案する。そしてまた浴槽に目をやると、いつの間にか小奇麗な、ごく当たり前の風呂場の光景になっている。足許に目をやると、脱衣場の荒れていた場所も、ふつうの板場になっている。が、その中に、肉質のイソギンチャクのようなものが突っ立っている。もしやこれが、と思いつつ、突いてみると、案の定それは触手を広げ始めた。これが荒れた磯の情景を作り出していたのだ。
 この辺で目覚めた。目覚めて、やたら水の登場する夢からの当然の連想で、慌てて布団を確かめた。幸い、寝小便したわけではなかったようだ。
 こう書き下してみて、夢の脈絡の無さには驚く。いや、実際には夢としては脈絡のあったほうで、だからこそこうして書き残すことが出来たわけだ。
 夢に脈絡が無いのは、過去に体験したエピソードを、ランダムに再現しているからだと聞いた。夢がエピソードそのものでないのは、記憶は体験を要素に解体して格納されているからだ。小松左京の「BS6005に何が起こったか」で、主人公の存在する"世界"が奇妙なのは、その"世界"がBS(機械脳)が見る夢だからなのだ。今日見た夢を掘り下げてみると、今の生活で直接関心のある事項、懐かしい記憶が影響しているようだ。

2002年01月01日(火曜日)

21世紀の最初の一年が過ぎて

00時00分 思考 天気:晴れのち雪

 はかり知れぬ未来が、時のどこかにその身を横たえる......。21世紀最初の一年は、僕にとって未来の計り知れなさをさらに痛感させるものとなった。
 21世紀の始まりを迎えたとき、僕はこれでいくつかの難問の解が見えるに違いないと思った。一つは日本が陥っている根深い不況。長期的にいつかは脱するとみんな思っているのだが、そのいつかが一向にやって来ない。僕はその原因の大きな部分を、世紀末的情緒に由来する先の見えない不安感が占めているのだと思った。個人消費の伸び悩みは、この先になにが待ち受けているかが分からないという不安感に由来している。そしてその不安感の大きな部分を、漠然とした世紀末意識が占めているに違いない。だから、その源である世紀末を終えてしまえば、気分的に自由かつ開放的になり、個人消費の低迷は自動的に解消されるだろう、と。しかし、事態はむしろ逆に、世紀末を終えて、しかし余計に閉塞感を抱えてしまうという結果になってしまった。
 もう一つは地域紛争の問題だ。これは経済のグローバル化が最終段階に入り、地域格差がさらに個人格差という問題に発展するに至り、逆に沈静化するものだと思っていた。世界中のどの個人にも成功への道があり、一方、成功した"民族"などという存在は成り立たなくなり(なぜならば民族は個人の集団へと結局解消されてしまうから)、民族を軸とした従来の地域紛争、更には宗教紛争も、徐々に沈静化して行くだろうと考えていたのだ。ところが、去年9月のビン・ラーディン一派によるテロで、そんな甘い考えは吹き飛んでしまった。ビン・ラーディンは、国家、民族だけが見えていた従来型の地域紛争に、個人として初めて顔を見せた人物なのだ。いや、昔からカダフィ、フセインといった人物は顔を見せていたじゃないかという指摘はあるだろう。だが、彼らはあくまでも国家、民族の代表だった。彼らは国家、民族の力に動かされていると言ってもいいだろう。ところが、ビン・ラーディンは個人の財産を軸に、宗教勢力を巻き込む形で立ち現れてきた。いわば、自営型のテロリストだ。こういう型のテロリストは、20世紀においては例が無かった。少なくとも、目立たない少数派だった。それが一躍、世界の表舞台に飛び出してきたのだ。世界に恐怖をもたらすものとして。
 どちらも、僕の想像の外にある事態だった。いつかは来るはずの終わりが来ないで、解消されるはずの恐怖に新しい要素が加わったのだ。僕の、常人よりは豊かだと思っていた想像力も、実は本当の未来のバリエーションの前には、全く貧しいものだという事を露呈してしまった。21世紀最初の年でさえもこの激動なら、残る99年には一体どんな未来があるというのだ。ほとんど恐怖するしかないではないか。