ツーリング企画としての走り納めは湯河原だったので、自分自身の走り納めもやっておこうと思った。集団でのツーリングも楽しいが、独りの気楽さも捨てがたいものがあるのでな。
そういえば、2001年の大晦日に広島を走ったのを思い出し、ならば岡山も走っておこうと考えた。ぐーぐる先生にお聞きすると、岡山総社自転車道というものがあり、この沿線がなかなか楽しそうに思えた。じゃあ、ここを走ろう。
呉から岡山まで、広島、あるいは三原で新幹線で乗り換えれば早いのだが、その乗り換えと特急料金を厭い、早朝に一本だけある呉線経由岡山行を利用することにした。呉を6:20初で、倉敷着は9:17くらいだったか。3時間ほどもかかった。福山辺りまでは真っ暗で、それからやっと明けてきたという感じだ。
倉敷で降りたのは、総社まで鉄道ではなくて自走したかったのと、倉敷にちょっと寄りたかったからだ。倉敷駅を出て、トレンクルを
美観保存地区に向けて走らせる。まだ朝早かったためか、人影はほとんど無い。この辺を歩いたのは30年ぶりだが、次の機会を作ってゆっくり回ってみたいと思った。
総社まで走る。川沿いの車道を走るのだが、これが一歩間違えたら崖下に転落という恐ろしい状況で、特にトレンクルでは緊張を強いられる。幸い、車が少なかったのと、割りと大きく迂回して抜いてくれることが多かったので、危うい状況に追い詰められることは無かった。それでも、大型車が追い抜いて行くときの風には参ったが。
総社市内に入り、川沿いの道から市街地に入る。さて、サイクリングロードは何処。
しばらく放浪する。だって、目印がなんにもないんだもん。GPSが
ここだと主張する地点に足を運んでも、特にサイクリングロードらしきモノは見当たらない。しかし、これは見方が間違っていた。確かにその地点にはサイクリングロードらしきモノは無く、わずかに歩道に自転車通行可能標識があるだけだ。だが、その他の道にはそもそも歩道すらないような場所なので、これでも
相対的には十分にサイクリングロードと名乗れるらしい。ここしかないと思い走ってみると、やがて路側に
『備中国分寺』なる標識が現れる。岡山総社線の沿道には確かに国分寺があるので、間違いないだろう。もう少し走り、郊外に出ると、さらにはっきりした
標識を拝める。
この道、この備中国分寺を含む風土記の丘なる公園を経由するもので、吉備路を名乗っている。律令時代の吉備路そのものかは調べがつかなかった。そんな歴史テーマロード(?)であるためか、ちょっと走ると
高床式倉庫が復元された公園があったりする。
前後左右田圃ばかりというものすごい風景の中を走り続けると、前方にずっと見えていた丘が気になり始めた。GPSの表示と見比べてみる限り、あれが最初の目的地、作山古墳のはずだ。ややこしいことに、この近所にはやはり造山という古墳もあり、読み筋はどちらも『つくりやま』。なので、ジモティは『さくざん』、『ぞうざん』と区別しているらしい。その作山古墳の
後円側から(だと思う)見た状況。画像左手中央に向けて盛り上がっているのだが、右手の人家などによってかなり切り崩され、往古の面影は薄い。ここが古墳だなんて、発掘してみなければ分からなかったろう。もっとも、「つくりやま」なんて名称が残っていることから、ここが人工の丘であることは随分長く口伝されてきたのだろう。
サイクリングロードも、この辺では車道から完全に分かれ、田畝の中を走る歩行者/自転車道となっている。農道の類を再利用したものだろう。そのせいか、農家の車が通行したりする。許可ある車両は通過可能らしい。どうも不徹底だな。路面状況は良好なところもあれば、危険なほどの所もある。
作山古墳を過ぎると、ずっと前方に五重の塔が見える。それが備中国分寺だ。ここはまだ残されているようだ。近くまで接近すると、比較的傾斜の緩い重厚な
五重の塔の細部まで、くっきり見えるようになる。絶好の撮影ポイントなのだろう。カメラを抱えた男性が、三脚の設置に余念無い様子だった。
近所に
こうもり塚という古墳がある。古墳時代も末期のもので、飛鳥の石舞台に匹敵する規模の石室を持っているという。ここからさらに外れて行くと国分尼寺跡があるということだが、どうやら文字通りの跡という事らしいので通過した。
しかし、ここまでほとんどサイクリングロードを独占状態だった。たまに人を見かけても、散歩中らしい近所の人か、ママチャリの人ばかりだった。こうもり塚を過ぎてから、ようやくMTB、ロードバイク辺りに遭遇したが、この日はそれっきりだった。
こうもり塚を過ぎ、市街地を少し走ると、またサイクリングロードに復帰する。すると前方にでっかい丘が見えてくる。これが
造山古墳か。今回、カメラとしてPowerShot S3ISを持っていったのだが、このようなシチュエーションではミスマッチだったようだ。こんな大きな対象を画面に納めるには、広角端優先のGX8の方が向いている。造山古墳を画面に納めるのに、随分遠くから撮らねばならなかった。
造山古墳は、全国でも第4位に当たるほどの巨大古墳で、未発掘ではあるが大和王権に匹敵するような強大な権力者が埋葬されているものと考えられている。近くには
陪墳も点在している。この小さな丘の一つ一つが、殉葬者を納めた古墳なのだ。
造山古墳を過ぎ、川沿いに出たところで、どう行けばいいのか分からなくなった。道は川沿いに走っているようなのだが。GPSの地図を良く見て、川沿いに少し北上することに決定。この北に向かって吉備高原自転車道が走っている。それに沿って、高松城址と最上稲荷があるはず。じゃあ、そこに向かおう。
市街地の迷路のような道を進んで行くと、総社線上の跨線橋から
やたらでかい鳥居が遠望できた。最上稲荷の参道だ。その妙にメカメカしい光沢とあわせて、今にも合体変形する芸を見せてくれそうに思えた。いや、そんなこと思うなよ。ともかく、古墳時代に花開いた吉備人の巨大志向は、現代の岡山県人にも脈々と受け継がれているようだ。祝着至極。
やがて高松城攻めの
堰跡に出くわす。きれいな公園に整備されていた。しかし、こんな地味な堰の跡を見て、喜ぶ人間がいるのか?(ここに一人居たが)
最上稲荷を目指す。サイクリングロードがどうにも分からなくなって、かの巨大鳥居近辺から車道を走らざるを得なかった。ちょっと危険だよなあと思っていたら、実はすぐ脇にサイクリングロードが走っているのを発見。路面状況が良く、快適な道だった。しかし、一事が万事、接続が悪すぎるなあ。
最上稲荷の門前町に行くと、そこは初詣客を当て込んだテキ屋の大集団が占拠中だった。いやはや、本当に千人ぐらいいるのでは。参道を屋台で埋め尽くすだけでは飽き足らず、車を乗り入れて完全に塞いでいた。だめだ、こりゃ。帰りに
遠景を撮って、満足する。サイクリングロードを折り返すと、迷った巨大鳥居の近くまで、
まっすぐな道が続いていることが判明。
岡山総社自転車道との接続点まで戻り、表示が無いのに不安を感じながらも、次なる目的地の吉備津神社を目指す。
川沿いの接続点でまた迷い、迷ったところまで戻る。それがこの
惣爪塔跡。明治帝が野点したとかなんとか。後で調べると、古代には大伽藍があったと推定されているそうな。
微妙に路地裏感漂う道を走って行くと、やがて吉備津神社の鳥居が見えた。なんだよ、こんな地味で小さいのか。しかし足を踏み入れてびっくり。
物凄い回廊がはるか彼方まで続いている。実は神社の裏手に出てしまっていたのだった。では、奇矯な造りの本殿を拝見しようか。しかしなんと、本殿は改装中で覆いで隠されていたのだった。再来年までかかるとか。とほほ。これは、その頃に再訪だな。
吉備津神社から、万葉に詠まれた吉備の中山を反対側に向かうと、そこに
吉備津彦神社がある。なかなか豪壮な造りで、じっくり拝観したかったが、正月の準備のために人の往来が激しく、長居できなかった。
後はサイクリングロードを岡山市街近くまで走って行くだけ。なのだが、少し川沿いに行った辺りで道を見失い、後は幹線道路(R2だったかもしれない)を延々と走るはめになった。腹が減っていた。吉備津神社辺りでと思っていたのだが、なんだか新年の準備中らしく、微妙に営業中と思えなかったので、ここまで空きっ腹を抱えて走ることになってしまった。適当な店を見つけてと思っていたら、CoCo壱番屋を発見。カレーにする。後は岡山駅まで、ひたすら走っていった。
帰りの便は、呉までの直通便は無いので、糸山乗り換えだった。だいたい3時間くらい。往復で6時間。戦闘時間は5時間程度だったか。日が短いこともあり、けっこうきつい進行だった。でも、この岡山総社サイクリングロードは、けっこうおいしい道だった。不条理なカーブが多いので、ロードでワーッと走るには適さない道だ。でも、トレンクル程度の走行性能でも十分だったし、R2がずっと見えている場所なので、寄り道をすれば飢えることは無いだろう。最後の方で道を見失ってしまい、最後まで走れなかったのは残念だが、おいしい場所は吉備津彦神社で最後だったので、近くの一宮駅から輪行してしまうのも手だと思った。
問題は、農道を利用した関係で、やたら道がこま切れなこと、そしてその接続が分かりにくいことか。ともあれ、季節を変えて、春秋にでも走りたい道だと思った。
帰宅して、晦蕎麦を食べたら、もう年明けだ。今年も一年、まあまあ走ったな。
岡山総社自転車道が面白そうなので、ここに沿って走ってみよう。
総延長:20.6km。ま、手頃な長さ。物足りないくらいなのでその前後に走るか。
倉敷から総社までは12km弱。倉敷は当然うろつきたいが、時間的に難しいかも。呉を朝一で出るとして、倉敷に8:00過ぎ。割けても1時間程度か。
件の自転車道、地図で見るに大層不条理な経路なので、自転車道は参考程度として、途中の立ち寄り地点を念頭において走ることにしよう。っつうか、迷わない方がおかしいね、この自転車道。
総社市街地を抜けてすぐ、
作山古墳がある。岡山県は古代吉備勢力の影響下、やたらでかい古墳の宝庫なのだ。この古墳は、岡山県で2番目の規模を誇る。全国でも9番目に位置する。ややこしいことに、この近くには
造山古墳という、より大きな古墳がある。ジモティは"さくざん"、"ぞうざん"と区別しているとか。
自転車道を進むと、国分寺跡、こうもり塚遺跡、国分尼寺跡と、立て続けに現れる。前後のものは言うまでも無いが、こうもり塚古墳というのは大きな石室を持つ古墳時代後期の前方後円墳で、飛鳥の石舞台に匹敵する規模だとか。
更に進むと、先に触れた造山古墳が現れる。全国でも4位という規模の巨大な古墳だが、未だに調査の手が入ってないために詳細は不明らしい。周囲には陪墳が点在している。往古を偲ぶが良かろう。
先に進むと、不思議なことに自転車道は道を北に転じている。どうやら高松城跡に誘導したいらしい。秀吉が本能寺の変を知りながら、守りの城主清水宗治に腹を切らせ、とっとと大返しをやってのけた地だ。そんなことをするから、死後に世の中の過半が徳川に靡くんだよな。そんな秀吉の遣り手振りを思い起こしながら、今は平和な城跡を眺めることにしよう。
この辺で別の自転車道、岡山賀陽自転車道に接続する。この道を走っても、山中の人工都市吉備高原都市に誘導されるだけなので、今回はこの道を取らない。が、ここを少し走ると高松稲荷があるので、少しだけ行くことにしよう。高松稲荷は日本三大稲荷の一つで、ややこしいことに最上(さいじょう)稲荷教という、日蓮宗系の寺になっている。神仏混交を今に残した、珍しい宗教拠点だ。明治の国家神道の嵐をどうやって乗り切ったんだろうね。
岡山総社自転車道まで戻り、少し進むと吉備津神社がある。祭神は鬼退治した吉備津彦のはずなのだが、縁起を見ると退治された方の温羅が『我を祭れば吉凶を教えよう』などと鳴釜神事が成立したとあるので、ほんまは温羅が祭神とちゃうかという説もあるとか。そのせいか、別に吉備津彦を分祀して、吉備津彦神社が開かれている。しかし吉備津彦というのは実は大吉備津彦の息子でしてな……わけわからんわぁぁぁぁ!
本殿は、入母屋造の2棟を連結した特異な構造で、全国でもこの社しかないのだとか。何を考えてこうしたんだ中世の吉備人よ。
この吉備津神社とは指呼の間に、その吉備津彦神社がある。中世の一宮制に拠ればここがそうで、地名も一宮となっている。先の吉備津神社から分祀された吉備津彦が祭神だ。しかし、こんな間近に同一祭神の神社を新設したのはなぜだ。やはり吉備津神社は温羅が祭神なんじゃないのか。
こんな風に、分かったからといって人生を豊かにする以上の意味は無い事柄に思いを馳せつつ、いま少し走りつづける。
もう少し走り、池田動物園と県総合グラウンドの間くらいまで自転車道が続いている。
時間があれば後楽園周辺をうろついて帰りたい。