South of Heaven


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今夜は観望

2000年05月28日(日) 23時58分 星見

 夕方、外に買い物に出た時に見上げた空はかなりの快晴で、薄曇も最近になく少なかった。
 日が暮れて、さっそくMIZAR20*80をベランダに出した。お久しぶりのからす座方面を眺めた。今宵はかなり細かい星まで見える。北東の重星近辺もくらい星まで見える。シーイングは6/10というところか。スピカでピントを正確に出してやると、小さくきれいな星像が得られた。このMIZAR20*80、たった29800だったくせに良く見える。周辺像は崩れるが、真ん中ではかなりシャープだ。いい買い物をしたと思う。
 さそり座が南中する頃にまたベランダに出た。今夜もM4は見えない(いい加減あきらめろよ)。しかしM6、M7は美しい。特にM7は霞というハンデに負けない眺めだった。
 あいにく、細く刷毛で引いたような雲が現れては消えていく状況だったので、シーイングは絶好ではない。しかしM8も散光は見えなかったが微光星の群れる様は良く見えた。
 100EDでM6を眺めた。MIZAR20*80より多少明るいが、それほどでもない。なによりファインダーが無い事が取り回しを難しくさせている。この点、双眼鏡はとても楽だ。100EDにはやはりファインダーが必要だと感じつつ、今夜の観望を終えた。

今夜のテレビ

2000年05月28日(日) 23時21分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「世紀を越えて」、"心の病"。近年、続発する巨大事故やテロ、幼児虐待などにより、深い後遺症に悩む人が増えている。なかんずく心の傷は、外からは容易にうかがえないだけに深刻化する傾向にあるという。
 人間は、大きな衝撃を受けると心が変形してしまい、元に戻るのに時間を要する。人間の心は柔軟で、十分な時間をかければ原状に復旧できる。しかしあまりに強い衝撃を受けたり、あるいは回復する暇がないほど続けて衝撃を受けると、回復不能に塑性変形してしまう。これを心的外傷、トラウマという。そしてこのトラウマが引き起こす心の異常な反応をPTSD、心的外傷後ストレス障害という。
 PTSDが引き金となって現れる異常行動の一つが多重人格だ。一人の人間にあたかもスイッチで切り替わるように複数の人格が入れ替わり立ち代わり現れる。多重人格の要因の一つが、個人では対処しきれない衝撃から心を守りたいという欲求だという。『この状況にあるのは自分ではない』と、あたかも傍観するような別の人格を想定することで、自分の心がこれ以上のストレスにさらされるのを防ごうとするのだ。その結果、個人の内部で別の人格が際限なく生成されて行くことになる。
 PTSDは肉体にも強い反応を引き出す。テロによる爆破で強い恐怖を与えられたある女性は、いまでも大きな音に対して押さえがたい恐怖を感じてしまうという。それだけではなく、心拍や血圧の上昇が現われ、理性的な判断が困難になってしまう。
 こうした生理的な反応の原因は、人の恐怖体験の記憶の仕方、そして感情を抑制する脳のメカニズムにあるのではないかと考えられている。人間の脳では興奮を促す機構とそれを抑制しようとする機構がせめぎあっている。前者を扁桃体が、後者を前頭葉が担っている。人は恐怖を感じると扁桃体の活動が活発になる。これが現実の恐怖ならば問題はないが、例えば映画などによる偽の恐怖でも活発になりつづけることは、心に大きな負担を与えてしまい良いことではない。そこでその恐怖が真に存在するかどうかを前頭葉で理性的に判断し、しかるべき抑制を加える。ところが、あまりに強烈な恐怖体験は、脈絡の無い体験の固まりとして記憶されてしまうため、前頭葉で処理できなくなってしまうというのだ。
 PTSDによるストレスは、脳の機能にも障害をもたらす。人間の脳はあちこちの部分がそれぞれの機能に沿って処理した情報を統合して活用する超並列マシンだ。この情報の統合を行うのが海馬という部分だ。ところが海馬はPTSDによるストレスに弱く、長期間にわたってストレスが加えられると、萎縮して機能を減退させてしまうことが知られている。その結果、人の心の統合が緩み、人格乖離や、PTSDが顕著になってしまう。
 これを克服する手段の一つが、かつて受けた強い衝撃の原因となった出来事を言語化することだ。言語化することで前頭葉での判断が可能になり、抑制できるようになる。しかし恐怖体験を思い出すこと事体が苦痛なので、それを克服する作業は容易ではない。
 一方、萎縮した海馬を修復する手段として注目されているのが、セロトニンという物質を投与することだ。セロトニンは人間の情動を平静にする作用があり、海馬にダメージを与えるストレスを抑制することができる。すると海馬の神経組織が回復し始めるのだという。人間の不思議な、しかしすばらしい機能の一つだ。
 セロトニンは投与しなくても人間の脳に自然に存在する。その分泌を促すには、人の心を落ち着かせて平静にしてやることだ。そのことによってセロトニンが分泌され、ますます平静になってゆく。従って心的外傷を負った人の心を癒すには、その平静を取り戻してやるという伝統的で直感的な治療法が正しいことになる。
 以前、自分はPTSDだと主張する人とメールをやり取りしたことがある。以前、NIFTYにいた頃、そのフォーラムの一つで知り合った人だ。その人は周囲と軋轢を起こしやすく、その原因は自分には無いと主張していた。当時の僕は見るところ、その人自身の支離滅裂な主張に周囲が振り回され、当然の帰結として拒絶に遭っただけだと考えていた。自らがどれほど論理的に破綻していても気づかない末期的状況だった。しかしそんな暴走の果てにあったのは、自分を受け入れてくれなかった周囲(主にフォーラムの運営陣)を告訴するという恫喝だった。これでは多くの人が見放してしまうはずだ。僕は多少なりとも説得を試みたのだが、結局手におえなくて引き下がらざるを得なかった。未だに尾を引いている、苦い体験だ。
 僕はフォーラム制というものを憎みつつも、この事態に巻き込まれた運営陣には同情せざるを得なかった。彼ら自身は概ね善意の人々だったからだ。
 しかし、この時どうすれば良かったのだろう。他に道はあったのだろうか。決裂を回避しつつ一人の人間のために他のすべての人々を犠牲にすることも、逆に一人の人間を切り捨ててしまうこともしないで済む道は無かったのだろうか。経済効率とか社会正義というものがそれぞれ登場してくると「無い」という事になってしまうのだろう。しかし粘り強く対話を続けていけば、何かしらの進展があったのではないか。
 その時、一番いけなかったのはフォーラム制の官僚主義と経済効率を押し付けたNIFTY自身、そしてそれを求めて一連の事件を黙殺し早く無いものにしたいと無言の圧力をかけた一般会員ではなかっただろうか。それぞれが当事者同士の解決に時間を与えなかったことが、無惨な決裂へと至ったように思えてならない。せめて周囲の人々が双方の対話継続に好意的な反応を示していたらと思う。彼らに時間を貸してあげられたならば。こんな風に責任が運営陣に集中してしまうことがフォーラムという官僚制度の限界であり、それを越え得なかったことがそのフォーラムを構成していた人々の限界だったのだろう。
 しかしなぜ対話の継続というサインを出せず、むしろ阻害する方向へとサイレント・マジョリティは動いたのだろうか。僕はそこに心の病への根強い無理解があると思う。先のPTSD(と主張している)の人は、元々論理的に支離滅裂なのではなく、感情をまったくコントロールできないのだ。だからこそ大量の感情的記号を含有した文書ばかり書いていたのだと推測する。従ってその人に対して必要だったのは受入れること、それが不可能ならば好意的に中立する事だったと思う。心の平静を取り戻す時間を与えてやるのだ。この両者が困難なのは言うまでもない。支離滅裂な主張を繰り返し、論理的な矛盾を指摘しただけで攻撃してくる相手には、中立でいる事さえも難しい。しかし精神の病とはそういうものだ。バランスを失った精神は退行するか、攻撃的になってしまう。そして僕たちは大なり小なり同じ病を抱えている。それが顕在化しやすいかどうかの違いでしかない。だから拒絶は、その場に心の病への拒絶という負の遺産ばかりを残してしまい、僕たち自身に病の顕在化への恐怖という新たなストレスを付け加えてしまう。
 継続する事は重要だ。しかし支離滅裂な要求は拒絶しなければならない。受入れつつはね付けるという態度をじっと我慢しながら続けなければならない。聖職者以外には不可能そうに思える。
 しかし多くの人が少しずつ分け合えばどうだったろう。何万人も要らない。せいぜい10人ほどが参加すれば事足りたのだろうと思う。それには心の病に関する深い理解までは不要だ。自分もその一人かもしれないという共犯関係への認識と、少しばかりの同情が必要だったのではないだろうか。もしもそんな事が可能だったならば、フォーラム制にだって少しは価値があったのにと残念に思えてならない。

強風一過

2000年05月28日(日) 17時20分 暮らし 天気:くもりのち晴れ BGM:愛をあきらめないで/伊藤銀次

 昨夜の雨と強い雨はどこへやら、今日は五月晴れというにふさわしい天気だ。こういう天気の日には、伊藤"いいとも"銀次の「愛をあきらめないで」という曲を思い出す。五月になるとなぜか聴きたくなる曲だ。
 さて、東京方面に出かけようかなと思ってはいたが、100EDにつけるファインダーはどういうのが良いのだろうとか、アイピースに何を買おうとか考え始めると、全然何を買えばいいのか分からなくなってきた。無駄な出費は控えたかったので東京方面は止め。逆方向、湘南台に出かけた。
 本屋、PC屋を回ったがめぼしいものは無い。その後でダイエーに寄り、前に会社からもらった商品券で少々買い物をした。買ったのは超小型扇風機、掃除機、タオルケット、靴。現金を使わずにすんだのはありがたかった。この超小型扇風機、中国製の2000円ほどの物で、クリップで机の端などに留めるタイプだ。これでも強弱の切り替えと首振り機構が着いている。しかしこいつをPCと同じコンセントに挿すとノイズが凄い。電源は分けなければならない。

雨なので観望はなし

2000年05月27日(土) 23時19分 星見

 強い風とともに雨が振り込んでくる。ちょうどベランダの近くにLANのHUB、テレビのアンテナ分配器が転がっていて、水に濡れてしまった。さらに近くのコンセントも水にぬれているのを発見したときは、かなり恐怖した(笑)。幸い、通電部にはかかってなかったようだ。明日もこの天気では、出かけるのも嫌になる。

じっとしている週末

2000年05月27日(土) 22時17分 テレビ 天気:雨

 昨日から天候が悪く、せっかくの週末だというのに星空観望できない。かなり欲求不満気味。
 こういうときに秋葉に出かけると馬鹿買いしてしまうので、自宅でじっと我慢。とりあえず少したまり気味だったビデオ録画分を見る。
 C.C.さくら。さくらの学級の学芸会を前後編で。小狼め、ますます色気づきやがって(笑)。りりしい王子様のさくらとキュートなお姫様の小狼......ケロじゃないが男の子と女の子の役ぐらい分けとけ~! さくらのこととなるとすぐ妄想に走る知世様もよいですわっ☆
 グルグル。ククリの出生の秘密が、今暴かれる! ククリへの遺産を豪快に売り払ってしまった一行の運命や如何に? 幼児退行するククリがそそる(なにをだ(笑))。キタキタ親爺はますます妖怪じみてきたぞ。
 「東寺平成の大改修」。これは先週撮っておいたNHKの番組。空海建立の東寺が大改修されることになり、その仏像たちが修復される過程を追ったドキュメンタリー。これら平安初期に中国の強い影響下に作られた仏像たちは、過去何度かの改修により本来の姿を失っているという。今回の修復ではそれらの改修の悪影響を除去し、本来の姿に戻すことが目論まれた。例えば明王像の一つは表面に塗られた漆のために、平安期の表情を失ってしまっているのだという。厚さ1mm程度というのだからそんなに厚くなさそうだが、それでもその下の表情を塗りこめてしまう。逆にいえば、本来の表情がいかに微妙な凹凸で表現されていたかが分かるというものだ。
 NHKスペシャル、「密輸オランウータン故郷に帰る」。オランウータンはワシントン条約で輸出入が禁止されているが、そのことが闇市場での価格を吊り上げ、密輸出入が絶えない。最近、日本でも大阪のペットショップでも4頭のオランウータンが保護された。このペットショップ、広告にご禁制のオランウータンを堂々と載せていたというのだから、まったく神経を疑う。しかしこのことを裏返せば根強いニーズがあるということでもある。こんな高価なペットを買う方も、ワシントン条約に関して無知であるとは思えない。確信犯だろう。まったく、頭がどうかしているのではないだろうか。
 一度人に馴れたオランウータンを野生環境に帰すのは容易ではない。一つにはこうしたオランウータンたちが幼い頃に母親と引き離され、生きるために必要な知識を学べなかったという点がある。恐らく、母親は密猟者に殺されたのだろう。一匹の密輸オランウータンには、必ず一匹の母猿の死が付きまとっている。つまり、日本で密輸オランウータンを購入した人は、最低でも一匹の死に関与していることになる。この場合、無知であることは許されないことだ。多くの無知は罪ではないと思うが(つまり価値中立的)、この場合の無知は明白に罪だ。一人の満足感が、それ以外全てにネガティブな影響をもたらしているのだから。と、ここで僕が怒っていても仕方ないが、なんともやりきれない話だと正直に思う。オランウータンがここ数年で半減するほど生息状況が悪化していると聞けば、なおさらのことだ。
 さて、こうして生きる術を学ぶことが出来なかったオランウータンに、森で生きていく術を教える施設がある。元々は年々減少する森から追われた猿たちを保護する施設だったのだが、近年は密輸されたオランウータンを再教育することが多い。以前この施設のレポートを見たときは、確かに森林火災で云々というところに主眼が置かれていたと思う。
 猿たちは木登り、食餌の確保だけではなく、猿同士の付き合い方も学ばなければならない。例えば、Play Fightという行動は、模擬的な喧嘩を通じて猿同士の社会的地位を確認しあう行動だ。しかし一匹で育ってきた密輸オランウータンにはこれを学ぶ機会が無かった。猿同士のぶっつけ本番の付き合いの中で学んでいくより他に無い。また幼少時の生育環境から、木に触れることを怖がったり、神経症を患ったりする猿も多い。オランウータンが人間に近く、かなり社会的で精神的な生き物であることが良く分かる。これらの障害を乗り越えてオランウータンを森に帰す地道な作業が続いてはいるが、生育環境の悪化という大原因が手付かずである以上、焼け石に水というのが正確なところだろう。このままオランウータンが消えてしまうのだとすれば、人類が犯した大罪リストにまた一つ、大きな項目が付け加えられることになるだろう。やがて悲しい結末を迎えてしまうのだろうか。

結構ピンチ

2000年05月26日(金) 22時16分 暮らし 天気:くもり

 結構ピンチってのも考えてみれば変な表現だが、確かにピンチだ。財政的に。
 手取りと生活費を見比べてみると、ほとんど遊ぶ余裕が無い。これではミューロン180を買えない!
 ってことで、こういう場合の常套手段である食費の切り詰めに走ることにした。切り詰めるとはいえ抜くことは出来ない。例えば朝食を取らないと、午前中はほぼゾンビになってしまう。ということで単価を下げるしかない。
 幸い、会社の社員食堂は朝夕晩と三食やっていて、ご丁寧に全て食費補助がつく。少なくとも朝食は使えそうだ。夕食は元々軽くしか食ってないので、そもそもこれ以上は切り詰められない。案外に朝食に金を使っているのだった。

久しぶりに観望できた

2000年05月25日(木) 23時14分 星見 天気:晴れ

 仕事が長引いて帰宅したのは日付が変わる頃だった。帰り道、空を見上げると存外に暗い。高高度に目をやると、肉眼でも星が光っているのが見える。これは期待が持てそうだ。
 帰宅して洗濯しながらベランダに出てみると、確かに昨夜よりも星がくっきりと見える。早速観望態勢を整える。MIZAR20*80を出し、この間買った折りたたみ椅子でその背後に陣取った。をを、これは楽だ。0から60度くらいの高度は無理なく見渡せる。この三脚のエレベータは短いのだが、その範囲で充分対処できる。
 アンタレスに向け、ピントを出してやると、最近に無くくっきりとした星像になった。そのままM4を探したがやはり見つからない(しつこいな)。やはり大口径を買うしか。
 風呂に入り、再び観望を続けた。部屋の照明を落とし、ベランダで真っ暗な近所を眺めて目を慣らす。普段は部屋の電気を全て落とすとお化けが怖いのでマメ球をつけて寝るほど怖がりなのに、こういうときにはまったく気にならないのが不思議だ。
 目がそれなりに慣れてくると、さそりの尻尾辺りがようやくくっきり見え始めた。空の透明度はやはり悪くない。高くも無い。街の明かりを受けて、夜空が少し青く光って見える。
 M7に向けた。最初、隣家のアンテナに隠れて見えにくかったのだが、少し時間が経つとようやくその全貌が浮かび上がってきた。今夜見える微光星はそう多くは無いが、久しぶりに見るので味わい深かった。少し瞬いてる感じがあるのでシンチレーションは良くないようだが、強い風が春霞を吹き飛ばしてくれたようだ。シーイングは6/10というところかな?
 M6もパラパラと見える。さらにM8も微光星が固まって見える。南中しているので少し高度が高く、大気の影響を受けにくいのが良かったようだ。M22はかろうじて存在が分かる程度だ。さらに高度の高い天の川方面に目を向けると、小さな星が敷き詰められている様が目に飛び込んできた。今夜はそれなりの観望だった。やれば出来るじゃないか、春の夜空!
 明日も朝一から仕事なので1時間ほどで片付けたが、昼間の疲れも吹っ飛んでしまった観望だった。

ちょっと観望&暗闇に思うこと

2000年05月24日(水) 23時13分 星見

 夕方、空を眺めると相変わらずの春霞の空だ。このまま入梅してしまうのではないか知らん。21:00くらいの空も煙っている。
 真夜中、さて寝ようかと思ってベランダに出たら、東に月が出ていた。それが昨夜のような赤い月ではなく、かなり黄色っぽい月だ。なんとなく昨夜よりは期待持てそうな月だったので、ワイドビノで空を眺めてみた。さそり座は案外にくっきり見え、南斗六星もけっこうくっきりと見える。少し空をのぞいてみる気になった。
 いつもならベランダに双眼鏡なり望遠鏡なりを持ち出すところだが、今夜は真正面の家が窓を開け、涼を取っているのが気になった。覗きに間違われるのは嫌だし、隣家の住民もいい気分ではないだろう。そういうことならと、MIZAR20*80を担いで外に出た。
 その三脚を近所の路上に設置し、さそり座方面に双眼鏡を向けた。うーん、やはりいまいちボケたような夜空だ。やはり透明度が低いのだろう。もう一つ、街灯が明るくて目が充分暗順応できないというのもありそうだ。近所に開けたスペースがあるのだが、生憎なことに近くの自販機の明かりが眩しすぎるくらい明るい。都会で暗い空を得るのは難しいことなのだ。
 街灯や自販機の明かりを見て、その明るさが防犯に役立っていると思っている人もいるようだが、そうでもないのではないか。人間の目は暗いところではその暗さに順応してちゃんと視界を得るという優れた機能がある(これが暗順応)。ところが、暗い中に明るい光源が点在するという状況では、この暗順応が充分働かない。暗順応の反対に明順応という機能もあるのだが、この明順応は暗順応の何倍もすばやく機能する。そのため、前述のような状況では目が光源に向けられるたびに高速で明順応してしまい、次に暗い領域に入ったところでは暗順応が進まず、充分な視界を得られないことになる。暴漢がいれば余計危ないし、そうでなくても足元に何があっても気づかないことになる。
 解決策の一つは膨大なエネルギーを費やして全ての闇を駆逐してしまうことだ。しかし都市の消費するエネルギーは周囲の環境に確実にダメージを与えている。都市の照明のため、夜空を行く渡り鳥が迷子になるという事例もあったと思う。
 そのように周囲にダメージを与えかねない方向に進むより、ここは後退する勇気をもって都市の闇を復活させるべきだと思う。都市には重点的に照明すべき場所と、その必要が無い場所がある。夜間でも営業している店舗などは前者の範疇に入るだろうが、その場合でも遠距離に照明が届かないように配慮するべきだ。後者は一般の歩道などで、ここでは今のように街灯を増やすことではなく、目にまぶしくないような種類の照明を採用し、なおかつその間隔を充分に取ることが必要だ。
 えらそうに書いてきたが、これらは暗い夜空を取り返そうというダークスカイ協会の主張を、僕が理解したままに書いただけだ。しかし天体観望の趣味を得たからというのもあるが、引越しの度に人が自然環境を駆逐してしまう現場に立ち会うことになってきたので(ようするに街のはずれの田舎に住むことが多かったというだけだが)、こうした主張にはほぼ同意できると思う。天の川が見えないなんて、寂しくありませんか?
 結局、その自販機の近くでは東天の視界が充分得られなかったので、双眼鏡を高高度に向けて他の星座を見ようとした。が、この雲台では70度以上の視角は得られないのだった。手持ちではさらに見えない。シーイングの悪さもあって、結局今夜の観望も不完全燃焼のまま終了。
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