Strange Days

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2001年12月09日(日曜日)

NHKスペシャル「日本人遙かな旅」"そして日本人が生まれた"

テレビ 23:00:00
(書いてます)
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2001年11月25日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙 未知への大紀行」

テレビ 23:37:00
 今夜のNHKスペシャルは、「宇宙 未知への大紀行」第8集、"宇宙に終わりはあるか"。
 僕たち人間がどこから来てどこへ行くのか、それは様々な思想、思考体系にとって、そして人間の活動を通して永遠のテーマといえよう。そしてそれは、宇宙の終末はどうなのか、という大テーマへと必然的につながってゆく。
 かつて、人類は宗教を通し、さまざまな終末に思いを巡らせた。キリスト教者のヨハネ(聖ヨハネ)は、地上に怪異が溢れ、空からは星が降ってくるという終末の光景を語って見せた。
 現代の天文学、物理学は、宇宙の"一生"をある程度解き明かし始めている。
 宇宙は、120~150億年ほど昔、ビッグバンとして知られる爆発的な拡大により、無限小に近い一点から始まった。最初、物質の密度が高かったために光は直進できず、光そのものを目にすることは難しかったはずだ(つまり宇宙が『光あれ』という宣言と共に始まったという物語は眉唾物だ)。やがて宇宙が"晴れ上がり"(密度が下がったので光が直進できるようになった)、それと共に密度に濃淡が生じ始めた。やがて濃い部分は凝縮し始め、星が生まれ、重いものは恒星として自ら光り始めただろう。さらにそれらが集まって大きな構造が構築され、それは銀河となっただろう。恒星は重いものほど寿命が短い。自らを構成している水素とヘリウムを燃やし尽くすと、縮退して矮星と化したり、あるいは華々しい大爆発を起こす超新星となる。その時、恒星の内部で生産された重い元素(生物にとって欠かせない炭素など)が放出され、それらは徐々に蓄積されていった。やがてそれら重い元素を豊富に含む惑星が、平凡な主系列星の周りに生まれ、その一つが生命を、そしてやがて僕たち人間をも生み出す地球となったのだ。
 宇宙の"半生"を書くとすれば、以上のようなものになるだろう。
 では、宇宙のこの後は、"後半生"は、どのようなものになるのだろう。
 宇宙は拡大している。この事実を明らかにしたのは、宇宙天文台に名を残すエドウィン・ハッブル博士だった。彼は長い間天空に散らばるいくつかの銀河を観測し、それらが全て、地球から見て遠ざかっている事を突き止めた。その事は、宇宙全体が拡大しているからだとしか説明できない。そしてその論理的必然として、宇宙は無限小一点から生まれたというビッグバン宇宙論も導き出された。宇宙は永遠不変のものではなかったのだ。
 従来、そのビッグバン宇宙論では、宇宙の未来を決定付けるものは、宇宙自身の総質量と、最初に拡大し始めたときの速度だとされてきた。もしも総質量が大きければ、宇宙自身の引力が大きくなり、拡大する速度がそれだけ早く低下する。一方、速度が大きければ、宇宙の拡大するスピードはそれだけ長く維持される。もしも速度が十分に大きければ、宇宙は徐々に速度を落としながらも、永遠に拡大しつづけるだろう(開いた宇宙のモデル)。逆に質量がある程度大きければ、ある時点で宇宙は縮退し始め、やがて1点へとつぶれてしまうだろう(閉じた宇宙のモデル)。この二つのシナリオの間のどこかに、宇宙の運命があると信じられてきた。ところが、長い間支配的だったこれらのモデルに、今、大きな疑問が投げかけられている。~
 近年、大型の望遠鏡が世界のあちこちに設置され、深宇宙の探査手段は、ハッブルの時代からは大きく進歩している。他ならぬハッブルの名を冠した宇宙天文台もその一つだ。これらを動員して、宇宙の拡大する速度が精密に調べられた。すると、思わぬ結果が出た。宇宙が拡大する速度は、次第に減速するどころか、高まっているという結果が出たのだ。予想とは正反する結果だ。
 もしもこれが正しいとするのなら、宇宙は決してクランチしないという事になる。ビッグ・クランチ、収束する宇宙は、ビッグバンが考えられ始めてきたときから多くのSF作家の心を捉えてきたシチュエーションだ。ところが、宇宙の本当の後半生は、ひたすら拡がって希薄化するだけの、おおよそ詩的でないものだというのだ。いやまあ、この予測も人間が目にする範囲で仮定を積み重ねて推測されたものだから、あっさり覆ってしまうかもしれない。しかし、科学の最先端に目を向けている作家たちには、ちと書きづらい状況が予想されるわけだ。
 この未来像が正しいとすれば、宇宙の未来はどうなってしまうのか。
 事を地球に限れば、その寿命は太陽のそれに束縛される。太陽は、いずれ核部の水素、ヘリウムを使い尽くし、巨星化するだろう。すると、そのぶよぶよ太った太陽の外殻は、ほとんど金星軌道にまで達する。地球は間近に迫った太陽の高熱に焼き尽くされ、決して生命の存在できない世界になる。その前に人類なり他の知的生命なりが軌道を変えて、迫る危難を乗り越えるかもしれない。しかし、なんらかの人為的操作を加えなければ、この時点で生命の星、地球はおしまいである。やがて太陽は燃え尽き、矮星化し、太陽系は暗く冷たい星の墓場と化す。
 銀河系にも終わりの時は来る。銀河系の中核などで活動しているブラックホールが成長し、周囲の星を飲み尽くしてしまうのだ。また太陽と同様に、恒星たちも燃え尽きて行く。あるものは超新星化し、あるものは燃え尽き、あるものはブラックホールに飲み込まれる。やがて銀河系は、一つの巨大なブラックホールに飲み込まれてしまうかもしれない。
 宇宙がさらに拡大しつつあるということは、銀河系間の距離も広がっているということだ。銀河系は、他の銀河とは行き会わず、また他の銀河すらも見えなくなる中、孤独な死を迎えるのかもしれない。
 死は宇宙全体を満たす。星の進化が進めば、やがて燃料である水素とヘリウムが尽き、明るい恒星は死滅してしまうだろう。後にはブラックホールと、燃え尽きた暗い星だけが散らばる、荒涼とした世界がやって来る。さらに、ブラックホールにすら死はやって来る。ブラックホールは全てを飲み込む存在とされているが、実際には事象の境界線付近で一対の光子が生成され、その一方が地平線の向こうに逃れることでエネルギーを失って行く。表面積と質量の比は、質量が大きいほど小さくなるので、大質量のうちはさほど急にはエネルギーを失わない。ところが小さくなるに従って表面積/質量が大きくなるので、エネルギーも早く失われるようになり、最後の瞬間には爆発的に蒸発してしまうのだ。さらに、物質の基本構成要素である陽子にも寿命があることが予言されている。こうして、宇宙には数種類の素粒子だけが残る、本当に暗黒の未来が待ち受けているのだ。
 こうした宇宙の急拡大をもたらしているものは、真空のエネルギーだといわれている。真空のエネルギー、基底エネルギーは、本来なら0エネルギーであるはずの空間に、それでも量子効果で絶えず素粒子が生成、消滅することから存在するものだ。このエネルギーは、ビックバン直後には豊富に存在し、空間へと変換されることで急激な空間の拡大、インフレーションを起こした。その後、大半は熱へと変換され、ほとんど消えてしまったのだが、ごく一部が残っていた。基底エネルギーは、空間が拡大しても、単位容量辺りの密度は変わらないという性質がある。宇宙が拡大すれば、そこに潜む基底エネルギーの総量は、その分だけ増えるというわけだ。それが宇宙の現在でのインフレーションを起こしている原因だとされている。この先、基底エネルギーがまた熱に変わるのかどうかは分からない。
 いずれにせよ、この宇宙に終わりが来るのは間違いない。しかし、その時までに誕生した生命には、あるいはこの宇宙の寿命を越えて生き延びるチャンスがあるかもしれない。
 宇宙論は、この宇宙から別の宇宙、ベビーユニバースが生成されては成長して行くという予言をしている。もしもそうなら、その子宇宙と連絡する手段があるのなら、知的生命が移住するチャンスもあるかもしれない。その手段として考えられているのが、ブラックホールなどの超越的現象により生じるワームホールだ。ワームホールは空間を別の空間へと短絡させる事が出来る。これを人為的に操作すれば、この宇宙から別の宇宙へと移住鵜することも可能かもしれないのだ。
 しかしまあ、本当のところ、人類は太陽系からの脱出すらも難しいと考えざるを得ない。夢想は、人間の現実を遙かに越えた世界を垣間見させてくれるのだが。
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2001年11月11日(日曜日)

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」

テレビ 22:47:00
 今夜のNHKスペシャルは「日本人はるかな旅」第4集"イネ、知られざる1万年の旅"。
 従来、日本列島で稲作が始まったのは2000年余り前、弥生時代の始まりの頃だと言われていた。その説に拠れば、日本に稲をもたらしたのは、中国や朝鮮半島からの渡来人だったとされてきた。しかし、こうした従来の定説は、いくつかの新発見によって覆されつつある。
 中国雲南省。ここは稲作文化発祥の地とされてきた土地だ。雲南省には、多種多様な品種の米がある。その種類の豊富さは、この地で営まれてきた稲作文化の長さを直感させるものだ。実際、雲南省では5000年前の稲が発見されている。ところが、日本の稲作は、実に6000年前まで遡れることがわかってきたのだ。
 近年、縄文遺跡の土壌を解析すると、米に含まれる珪酸化石が存在している事例が見出された。このことは、縄文早期から前期にかけて、既に米を食料としていたことを暗示している。
 この稲作の技術はどこから伝わってきたのだろう。
 雲南省から東、長江中下流域に、古い穴居時代の遺跡が発見されている。1万年近く前のそれらの遺跡を調査したところ、驚くべきことに古い稲が発見された。それも、野生種ではなく、明らかに栽培された種だった。この頃、既に稲作が始まっていたらしい。
 やがて長江河口では、この稲作を中心に大規模な村が作られるほど、稲作が盛んになっていった。この頃は水田耕作ではなく、畑作だったらしい。この稲作が日本へと伝わった背景には、この河口域の人々の生活様式があった。彼らは農耕民であると同時に、海で魚を獲る漁労民でもあったのだ。彼らは稲作の技術を身に着けていたが、同時に海の真っ只中に乗り出し、魚を獲って生計を立てていたのだ。そして、東シナ海の台風や季節風は、時に彼らを日本へと流し去ってしまった、というわけだ。
 だが、この時に日本にもたらされたのは、熱帯ジャポニカという種の稲だった。熱帯ジャポニカは、その名の通り熱帯地方に適した種で、温帯の日本列島ではなかなか根付かない。事実、この時期の稲作は、温暖な西日本を中心に行われていたようだ。
 縄文時代の稲作は、今に伝わる水田の技術で営まれていたわけではない。今も熱帯地方で行われている、焼畑農業によって栽培されていたようだ。
 では、現在日本に根付いている、温帯ジャポニカはどのようにしてもたらされたのだろう。これは従来の説と同様、中国大陸からの渡来人によってもたらされたようだ。そして、わずか300年ほどの間に、本州北端にまで達している。この異常な普及には、実は熱帯ジャポニカの経験が生かされている。
 熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを交雑させ、雑種を作る。その雑種は、親たちよりも遥かに早く生育するという習性を持つ。この特徴は、寒く、夏が短い北の地では、必須のものだったろう。日本列島が稲実る国になった背景には、こうした思いがけない稲の性質が働いていたのだ。
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2001年11月10日(土曜日)

なにもしませんでした

テレビ 23:43:00 天気:寒い雨
 暗い、寒い、雨の日。あんまり寒いので、布団から出る気がしなくなる。急に気温が下がったようだ。夜に至っては今秋初めて暖房を入れた。
 昼過ぎにようやく起き出し、キワチャリのタイヤチェックをしようと思ったが、タイヤを外すのが死ぬほど手間がかかりそうなので挫折。じゃあどこかに出かけようかと思った。実は、Librettoの最新機種を買おうかと思って、金まで用意していたのだ。ノートPCを買うのは、実に3年ぶりだ。でも、TP235でもそんなに困ってはいない。最近は、ノートPCを持ち歩くこと自体が少なくなっている。シグマリオンもある。まあ、急いで買うことも無いかと思い直した。この金は、もう少し考えてLibを買うか、あるいはE5000の購入に当てるかを決めよう。そんなわけで出る気が無くなった僕は、また布団に入って昼寝してしまった(をい)。寝るのはいい。最も金のかからない娯楽だ。今週一杯の寝不足も解消できる。
 夕方になってようやく起き出し、テレビで聖徳太子のドラマを見る。ははあ、これがあるから、先週辺りから聖徳太子特集がバンバンあったわけか。
 ドラマでは聖徳太子がやたら耳がいい(そりゃ良かったんだろうが)異能の人として描かれていた。本木雅弘がなんだかいい役者になってきたのにはびっくり。元々俳優向けの人だったんだろうか。モックンと呼ばれていた頃(今でも呼ばれてはいるが)からすると、隔日の観があるな。大河ドラマの主演に抜擢されて、なんにせよ一皮剥けたのだろう。
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2001年11月03日(土曜日)

歴史ドキュメント「隠された聖徳太子の世界」

テレビ 23:19:00
 今夜のNHKスペシャル枠は、歴史ドキュメントと称して「隠された聖徳太子の世界」という番組を放映していた。内容的にNHKスペシャルで時々やる歴史ロマンものと変わりなく、なんだって別枠にしたのか不思議だ。
 聖徳太子の死後、妃だった橘大女郎が作らせた、1丁の刺繍がある。天寿国繍帳というその刺繍は、太子没後の1300年もの激動の時代を生き延びてきた、貴重な文物だ。
 もともと、太子が建立した法隆寺に眠っていたものを、鎌倉時代の尼僧信如が発見したものだ。当時、既に痛みが進み、銘文や図案の概略に関しての書写が行われていた。その後、さらに痛みが進み、遂には断片化してしまったため、江戸時代にそれらを縫い合わせたり、足りない部分を継ぎ足したりする補修が行われた。しかし補修は従前の図柄や時代的な背景にまったく無顧慮に行われたため、オリジナルの部分もそれぞれバラバラに継ぎはぎされ、元の図柄が全く分からない有り様になっていた。
 今回、この刺繍を30年も研究してきた早稲田大学の大橋教授を中心に、CGによるオリジナル図案の復元が試みられた。しかし、ほとんど原型を留めていないこの刺繍帳、果たして本当にどこまで再現できるのだろう。
 手がかりは、まず残されたオリジナル部分にある。例えば、同じ幾何学模様を繰り返している細い図案が残されている。これは明らかに帳の四周を囲っていたと考えられる。また飛天、蓮の花が多用されていることから、仏教思想、しかも中国隋代のものに色濃く影響されているものと思われる。また製作の経緯から、原図を描いたのが朝鮮出身の帰化人であったことが分かっており、当地のデザインも影響していると考えるのが自然だ。
 さらに、信如が書き残した概略、特に完全に解読されていた銘文の情報が役に立った。銘文は400文字が100個の亀甲紋に記される形だったとされている。これらの情報を突き合わせることで、最終的にかなり確度の高い復元が可能になった。
 基本的に、寝台などを飾る帳という形態から、同じ図案がほぼ等間隔に散りばめらていたと推定された。帳は二枚一組で、それぞれの中央に最も重要なモチーフが縫いこまれていた。一つは菩薩像、そしてもう一つには蓮華の花から天寿国(極楽)に往生した瞬間の聖徳太子像が、それぞれに縫いこまれていただろう。そしてその周囲には、蓮の花が咲き乱れる池、その蓮華から太子と同じように往生して現れた人々が表現されていたのだろう。
 それにしても、手がかりってのはあるもんだと思った。
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2001年10月28日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙」

テレビ 23:49:00
 今夜のNHKスペシャルは「宇宙」第7集、"ブラックホール"の巻。
 宇宙のあちこちに"ブラックホール"という変なモノがあるという知識が一般化したのは、果たしていつのことだったろう。映画やアニメで何度か取り上げられ続けるうちに、その名前だけは知られるようになったように思う。しかし、その正体については、「なんでも吸い込む恐怖の穴」くらいの知識しか流布してなかったのではなかろうか。
 もちろん、学術的にはより厳密にその性質が述べられていた。そもそも、ブラックホールは、自然法則を極端に解釈することから"発見"されたのだ。18世紀の英国人ミッチェルは、光が全て極微の物体、粒子であるという視点に立ち、その動きに万有引力が働くはずだと考えた。当時、光の粒子説と波動説は並立していたはずだ(だよな?)。ミッチェルは粒子派の人だったのだろう。ミッチェルは、光が引力の拘束を受けるのなら、極端に重い星からは光は脱出できず、結果的に星は"光らない"はずだと考えたのだ。そしてそのために星がどれほどの密度を持たなければならないかをも計算した。それは180億t/cm2という途方もない数字になった。それは、計算したミッチェル自身にとってさえも、非現実的な数字に映った。
 ミッチェルの夢想は、しかし現実のものだった。WW2前、後に原爆開発に携わったオッペンハイマー博士は、重い星がその生涯を終えるとき、星の核が途方もない密度にまで収縮する可能性に気づいた。その値は、ミッチェルの計算をも遙かに上回った。ブラックホールの存在は、星の進化過程からも予言されたのだ。しかし、"光らない星"は、通常の恒星と違って発見が難しい。ブラックホールという名前が与えられたのは、その理論的な性質、すなわち光さえも飲み込むという点に由来する。
 光らない星を発見するのは難しい。ブラックホールの発見はずっと後のことだった。生成過程からすればその眷属とも言うべきパルサーの発見を経て、その存在はますます確証されていったのだが。
 1970年代、白鳥座の奇妙な電波源、X-1の研究が熱心に進められていた。これは白鳥座の空域を占める奇妙な天体、いや現象だった。ある位置から極めて強いX線が発せられているのだが、にもかかわらずその発信元となるべく天体が見つからないのだ。そのメカニズムがいろいろ考察された末、有力な仮説としてブラックホール説が提示された。なんらかの天体があることは間違いないが、見えないということは光らない天体だろう。しかしこの激しいX線放射は、その天体が重く、活発に活動していることを示唆している。具体的には、極めて重い、光らない天体が周囲の物質を引き寄せ、角速度を持って天体の周囲を高速で巡るようになる。その時、物質同士が激しく衝突し、強いX線を発するというシナリオが提示された。その重い天体の有力候補がブラックホール、周囲の活動域は膠着円盤と名付けられた。
 やがて、精密な観測の結果、X-1のごく近傍にある重い恒星が、X-1とおぼしき大質量源と共通の重心を巡っていることが確認された。その軌跡から算出されたX-1の質量は、ブラックホール化の閾値を上回っていた。ブラックホールの存在は、観測によっても確認されたのだ。
 その後、同じような研究によって、太陽系近傍にいくつものブラックホールが発見されていった。しかしブラックホールは、星の進化過程の終端に生じた奇妙な天体というイメージで捉えられ続けた。
 そのイメージを変える発見があった。
 銀河系の中核に、巨大なブラックホールが潜んでいるのではないかという説が提出された。天文学者たちは、マウナケア山頂に設置されたケック天文台の巨大な複合望遠鏡を使い、銀河系中核部の星の動きを観測した。AO(大気補正)の名で知られるこの技術は、すばる望遠鏡にも導入された新技術だ。その発端はレーガン政権下で推し進められたSDI構想に発しているというから奥が深い。この新技術によって、遠い銀河系中核部の精密な観測が可能になったのだ。そして観測の結果、やはり巨大な質量を持つ星が潜んでいることが判明した。いわば、銀河系の芯に当たる存在と言えよう。
 このブラックホールを中心に、無数の大質量星が時速数百万㎞という高速で飛び交っているらしい。
 さらに、他の銀河系の中心にも、同じように巨大ブラックホールがあることが判明した。ほぼ全ての銀河系の中心に、巨大ブラックホールが潜んでいるのだ。宇宙の進化史において、巨大ブラックホールは重要な役割を担ってきたと考えられはじめている。つまり、ビックバン後の宇宙で、まずブラックホールが誕生し、それが周囲の質量を引き寄せることで銀河系が誕生したと考えられるのだ。
 だが、ブラックホールが活動し続けると、やがて全ての星がそこに飲み込まれてしまうのではないだろうか。しかし、ブラックホールは活発な時期と不活発な時期があるようだ。ブラックホールはある程度の質量までは活発に活動するが、限度に達すると"眠り"に入ってあまり活動しなくなるようだ。それがどのようなメカニズムなのかは分かっていない。さらに、ブラックホールは蒸発すると考えられている。ホーキング博士が予言したことだが、ブラックホールを取り囲む事象の地平線の近傍で一対の電子/陽電子が生成されるとき、どちらか一方が事象の地平線の外で生成されることがありうる。その時、ブラックホールの内部からエネルギーが持ちだされることになるのだ。このようにして、永遠の墓穴に見えるブラックホールも、やがて蒸発してしまう運命にあるのだ。
 宇宙には、銀河系中核にあるようなそれを遙かに上回る巨大ブラックホールもあるらしい。銀河系は誕生以来一度も他の銀河との衝突を経験していない。アンドロメダもそうだが、きれいな渦巻き模様の銀河系は、いずれもそういう銀河だ。しかし、宇宙では銀河系同士の衝突はありふれている。そのようにしていくつもの銀河系が衝突して出来た銀河系に、楕円銀河がある。楕円形の銀河系は、渦巻き型銀河の何倍もの質量を持つ。そしてそのような銀河系のコアには、その質量に見合った巨大なブラックホールが潜んでいるのだ。
 実は僕らの銀河系もそのような運命が待っている。アンドロメダ銀河と急接近中で、やがて衝突してしまうと考えられている。その時、銀河系中核部のブラックホールも、アンドロメダ銀河のそれと一体化し、新しい銀河系の中核に居すわることになるだろう。
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2001年10月21日(日曜日)

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」森が育てた縄文文化

テレビ 23:10:00
 今夜のNHKスペシャルは、「日本人はるかな旅」第3集、"森が育てた縄文文化"。
 近年、縄文期の遺構の発見が相次いでいる。東京都の多摩ニュータウンからは、大型の竪穴式住居で構成された集落が発見されている。また開発の進む地方でも、新たな遺構が次々に発見されている。旧石器時代の遺構はだいたい夢と消えたが、縄文期の遺跡に関しては数量ともにさらに充実しつつあるのだ。その中には、今までの縄文期に関する常識を覆す発見もあった。青森県の三内丸山遺跡もそのひとつ。
 三内丸山遺跡は、最盛期には五百人ほどが居住したと考えられる縄文期の"村"だ。そこには数十戸の竪穴式住居の他に、巨大な六本の柱で構成された物見やぐら、そして二百人あまりを一度に収容できたと思われる巨大な竪穴式住居も見つかっている。ここは住居というよりは集会所だったと考えられている。つまり、この"村"には既に公共施設が備えられていたのだ。
 この"村"が、豊かな物質的充足を享受していたことをうかがわせる出土品も、数多く発見されている。例えば黒曜石。これは刃物の材料となる。また翡翠は装飾品として珍重されたようだ。また村からは多くの土偶が出土している。このことは、村人は生活に追われる事があまりなく、十分な余暇を得て精神世界の儀式を盛んに行っていたことを示唆している。
 彼らが一種の儀式を行っていたことは間違いなさそうだ。村の中心の広場を囲むようにして、なぜか多くの盛り土がされている。その盛り土からは、どうやら完全品をわざわざ壊したらしい土器のかけらなども出土している。最下層からは古い人骨が出土しており、恐らくは"村"の創設期の住民、村人全ての先祖に当たる人物だったようだ。想像をたくましくすれば、村人はその先祖の功を讃え、定期的に"祭"を催していたのではなかろうか。
 村は入り江を望む位置にあり、入り江に入ってくる日本各地からの舟(黒曜石や翡翠を携えて物々交換にやってきたのだろう)からは、ひときわ巨大な物見やぐらが目に入ったはずだ。外来の人々は、浜を上がって村に近づくに連れ大きくなってくる物見やぐら、集会所を目にし、また立ち並ぶ住居の群れを目の当たりにして、畏敬の念すら覚えたかもしれない。ベトナム戦争に北ベトナム兵として参戦した経験を持つベトナムの作家が、始めてマンハッタンの巨大ビル群を目の当たりにしたとき、『物質文明の迫力を感じた』と所感を述べたのを見たことがある。この村も、そうした物質文明の迫力を体現する嚆矢だったとはいえないだろうか。
 一体、この北の地に、これほどの豊かさをもたらしたものはなんだったのだろう。その鍵は、土壌に含まれている花粉にあった。詳しく分析すると、この近辺に分布していた楢、櫟などの森が、村の興隆と反比例するようにして減少しているのだ。逆に増加した植物がある。栗の木だ。栗は渋抜きの必要がないなど、食用としては非常に効率的な植物だ。栗が自然に増加して、他の照葉樹を圧倒したとは考えられないから、恐らくは村人が木を伐採し、その代わりに栗を植えたのだろうと考えられている。その結果、一か所に数百人もの住民が定住するという、縄文期の常識からは考えられない状況が実現したのだ。
 ところが、この繁栄もやがて終わりを迎える。ある時期に、この村の住民が周辺に散っていってしまったのだ。その謎を解く鍵も、栗の木にあった。この時期の栗の木の年輪を見ると、急に成育状況が悪化したことが分かる。この村は、あまりにも栗に頼りすぎていた。モノカルチャー型経済は効率が非常に優れているが、反面主穀がやられると経済自体が破滅する。それくらいもろいものでもある。縄文期、他の地域では主要な食物の違いはあれど、栽培、採取、狩猟など、いくつもの手段で食料を得ていた。この村は、そうした多様性を放棄したが故に、他の地域を圧する繁栄を勝ち得た。ところが、経済の根幹をやられると、もう抵抗する術を持っていなかったのだ。それゆえに、この村は衰亡せざるを得なかったのだろう。
 何故栗の成育が悪化したのだろう。実はこの時期、地球規模の寒冷化が起こり、平均気温が3℃ほども低下してしまったのだ。その結果、比較的温暖だった青森の地も、栗の成育に適さないほど寒冷化してしまったのだ。
 この経験は、しかしのちの世の人々に伝えられた、と番組では述べていた。富山県で発見されたやや後の時代の縄文遺跡は、数戸程度の集落が三つ固まっている真ん中に、なんらかの作業場と考えられる遺構が位置している。その遺構は、恐らくは栃の実のあく抜きを行うための水利設備だったようだ。しかも、この設備は、三つの集落が協同で管理していたらしい。彼らは、三内丸山の人々のように一か所に固まり、植樹を行って効率的な農業を行う事はやってなかったようだ。しかし、その頃の森に豊富にあった栃の実を処理し、しかも森林に負担をかけない程度に分散して暮らす道を選んだのだ。その結果、たとえ栃の実が取れなくても、その他の狩猟、採取によって暮らして行ける余裕を確保することが出来たのだろう。その代わり、労働集約的な作業のみ、周辺の村々の共同作業で遂行する事にしたのだろう。森に依存しすぎず、しかし社会性は確保するという、ある意味では三内丸山の村よりも高度な組織性を実現したわけだ。この流れは、後の世の村落共同体、そして里山という形で、つい近年まで脈々と受け継がれてきたのではないだろうか。
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2001年10月20日(土曜日)

NHKスペシャル「揺れる精神医療」

テレビ 23:07:00
 今夜のNHKスペシャルは、「揺れる精神医療」。今年起きた池田小学校の児童殺傷事件は、犯人が以前起こしていた事件において処置入院、退院を経ていたことが明らかになったことから、退院を認めた医療側の責任を問われる展開となった。しかし、医療の現場では、この「処置入院」というものはどう扱われるのだろう。
 処置入院とは、事件を起こした者が、精神疾患につき責任能力がないと認定されたものの、自傷他傷の可能性がある場合に、本人や親族の同意無しに病院に収監できるというものだ。あくまでも緊急的な処置であるという位置づけのようだ。この処置は、"自傷他傷"の可能性と、誰もが持ち冒すことの出来ない(とされている)人権とを秤にかけ、一時的に人権を制限しても止む無しという、応急的な処置なのだ。
 この責任能力の有無と、処置入院の必要性は、警察に委託された二人の医師によって判断される。ところが、その診断時間というのが、せいぜい半日というものらしい。精神医療において、病名の診断には時間を要するものだということだ。ある患者には、複数の症状が交互に現れたりする。僕の今日の日記のここまでの分なんて、隔日で現れる躁病を思わせるものがある(いっておくが、意識的に書いているからね<ってなにを威張ってるのやら)。またまれにしか現れないが、その時に他人を傷つけるなどの凶暴化を伴うものもある。それを即日に診断せよというのは無理な話だと番組ではされている。
 入院した患者は、世間から完全に隔離された隔離病棟で治療を受ける。治療の内容は対症療法的な薬物投与だ。これだけで病因の撲滅は難しい。しかし、症状はかなり抑えることが出来る。しかしながら、自傷他傷の可能性が消えたかどうかは、本人が精神疾患を認識することなどを確認する問診、行動の観察によるしかない。血液を採取して分離器にかければ一発、などというものではないのだ。真の病因が多くの場合不明なため、対症療法はあくまでも対症療法にとどまる。そのため、30年も処置入院を余儀なくされたケースもあったという。ここまで来ると、人権を侵害するしないという以前の問題だ。
 本人に自覚があり、また症状の低滅が明らかになった時、処置入院が解除されるかどうかが再び診断によって決められる。この時は一人の医師が診断してよいことになっている。ここで解除となると、被処置者は晴れて世間に出て行くことが出来る。
 ところが、出て行った被処置者が全快したかというと、そういうわけではないのだ。被処置者は、処置入院解除の時点で、自傷他傷の可能性が無くなった、というだけのことなのだ。症状は抑え込んだものの、疾患が全治したというわけではないのだ。退院後の環境によっては、また症状が昂進して、自傷他傷可能性が高まるかもしれない。退院後も、病院による治療を受けなければ、全快へは至らない可能性が高い。ところが、退院後にまた治療を継続する道を選ぶ患者は、極めて少ないという。そして、完全な治癒を見ないまま社会に出た患者の中から、池田小学校での事件のような犯罪を犯す者が出てくる事もありうる。というより、既に社会はその可能性に怯えていると言ってよいのではないだろうか。
 こうした処置入院のシステム上の問題の一つは、医療の責任が重すぎるというものだ。医療側からではアプローチできない情報もあり、また先に上げたような時間的問題もあり、医療側からだけの判断は難しすぎる。そこで社会的な影響なども考慮するべき司法が加わるべきだという論議がなされている。しかし、医療側が痛切に感じているのは、社会に出た患者のアフターケアの必要性だ。多くの精神病者による犯罪は、彼らが孤立してしまった結果生まれている。池田小学校の例では、容疑者は華々しい精神病歴を持ち、幾度も犯罪、処置入院を繰り返しながら、いわば医療と司法の狭間に浮かぶような形で、いつの間にか世間に舞い戻っていたのだ。十分な治療を施せなかった責任を問われるのはやむを得ないと思うが、今のシステムではその機会が十分与えられていないと医療側は考えている。また精神病者に対する世間の目の冷たさも、やはり孤立化に手を貸しているとはいえないだろうか。
 精神病を患った者による犯罪行為は、人権と治安の危うい均衡を刺激し続けているのだ。
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2001年10月13日(土曜日)

国宝探訪 徳川家の財力

テレビ 23:53:00
 今夜の国宝探訪は、徳川家光の長女が尾張徳川家に嫁入り道具として持参した通称『初音の調度』の紹介。これは江戸期武士階級の嫁入り道具の形式を決めたとも言われるもの。源氏物語の初音の帖を題材にとり、全て豪奢な蒔絵の装飾を施された美しい品々だ。金、銀、サンゴを素材に、それらを驚くほど多彩で精密な表現により、無限とも言える輝きを表したものだ。当代随一の蒔絵職人集団が、3年近い歳月をかけて作り上げたのだという。これが吉宗以降の、どこか貧乏くさい徳川将軍家の仕業か、と思えるほどの豪華さだ。これを実現した家光当時の徳川家の財力というものは、凄まじいものがあったのだろう。考えてみれば、戦国大名ほどぼろい商売はなかったはずで、その頂点に立った徳川家の富裕も当然のものだったのかもしれない。しかしその徳川家も、100年も経たずに貧窮しはじめるのだ。きっと、このような贅沢すぎる振る舞いが、度を越しすぎてしまったのだろう。無駄遣いはやめよう(今のところ説得力ゼロ)。
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2001年9月30日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:15:00
 今夜のNHKスペシャルは「瀬戸内海 豊かさのメカニズムを探る」。世界有数の内海である瀬戸内は、その生命相の豊かさでも知られている。漁獲高は、やはり多島美で知られるエーゲ海の実に20倍。数千種の魚類が生息しているという。豊かな海だ。
 瀬戸内海は、三つの海峡で外洋とつながっており、また大小数え切れないくらいの島が存在している。
 瀬戸内の地形は、主に瀬戸と灘に分けられる。瀬戸は島と島の間の狭い海峡で、それを挟んで平坦で開けた灘が広がっている。瀬戸での潮流は強烈で、常に大きな渦が巻いている。一方、灘は水深の浅い砂地が広がっている。これは、瀬戸で急峻な水流により岩が削られ、その砂が水の淀む灘に堆積した結果だという。灘の砂地には、水深の浅いところを好む海藻の類が繁茂している。この海藻が小動物に隠れ家を提供し、それを目当てに多くの魚が集まってくる。
 瀬戸内海の水流は複雑だが、だいたい水平の流れと垂直な流れに分解されて理解が進んでいる。水平な流れは潮の満ち引きによるもので、瀬戸内の中心部辺りまで6時間かけて膨大な水が押し寄せる結果、瀬戸内の真ん中付近で干満の差が著しくなる。
 垂直な流れは渦によるもので、海底にたまった有機物や栄養素をすくい上げ、生き物の群れる表層へと運んで行く。瀬戸内は、こうした絶え間ない水の流れにより維持されているのだ。
 一時、盛んに海砂が採取された結果、一部の灘の地形が激変してしまった。水深20m程だった地点が水深50mまでえぐられてしまい、日の光が届かなくなった結果、海中生物が激減してしまったのだ。海砂の採取をしないで高度成長期の建築需要を満たせるとも思えないから、一概に悪だったとも言えない。だが、もうこういった生物相にインパクトを与える行為は継続できないだろう。実際、瀬戸内沿岸の各地では、海砂の採取を禁止する条例が、着々と布令されつつある。
 こうして痛めつけられた瀬戸内も、実際には年間6mmの割合で灘への海砂の沈殿が続いており、やがて十分な時間をかければ元に戻ると考えられている。しかし、海洋生物相がそれまで維持されるか、やや心配ではある。
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2001年9月23日(日曜日)

今夜のNHKスペシャル

テレビ 22:52:00
 今夜のNHKスペシャルは「宇宙 未知への大紀行」"もう一つの地球を探せ"。
 人類による宇宙探査は、恒星を対象とする段階から、その恒星を巡る惑星を探査する段階へと進行しつつある。発見が期待されているのは、地球のような生命の存在しうる惑星だ。
 惑星を探すのは容易ではない。惑星は恒星と違って自ら発光することはないので、光学的な手段では捉えることが難しい。その代わり、恒星の重心のふらつきを観測することで、その周囲に別の重力源(すなわち惑星)が巡っているかどうかが分かる。
 最初の頃、学者たちは木星と同じ14年周期の変動を発見しようと努めた。もしも木星のような惑星が、木星と同じような位置にあるのなら、力学的には太陽系のような惑星と同じ構成となりうるので、地球型惑星の存在も期待できるのだ。が、長い観測にもかかわらず、それは遂に発見されなかった。しかし、別の研究グループが、驚くべき発見をした。14年周期の変動はなかった。しかし、わずか5日以下の非常に短い変動が発見されたのだ。
 発見された惑星は、恒星のごく近傍を、猛スピードで回る、木星より巨大なものだった。巨大灼熱惑星(Giant Heat Planet、とでもいうのだろうか)と名付けられたこの種の惑星は、恒星の近傍を巡るガス惑星で、恒星の重力が強いため常に一面を恒星に向けたまま、大気を高温で沸騰させている代物だ。想像を絶する天体だ。
 その後、多数の観測によって類似の惑星が多量に発見された。その代わり、地球型惑星の存在をうかがわせるものはない。巨大灼熱惑星が存在する恒星系では、地球のように安定した環境は構築できないと考えられている。どうやら、地球という星は、想像以上に宇宙の中では希有な存在であるらしい。
 どうして巨大灼熱惑星は誕生するのだろう。そのメカニズムの鍵を握るのは、惑星の数だ。太陽系では、木星クラスの巨大惑星は木星と土星のみだ。海王星、天王星はそれよりずっと小さく、また他の星は地球型の岩石優勢のものだ。もしも木星級の惑星が三つ形成されてしまったならば、その恒星系は力学的に非常に不安定になり、まず他の小さな惑星が吸収されたり跳ね飛ばされたりして一掃され、さらに三つの惑星のうち一つが恒星系からはじき出されてしまう。その過程で、恒星の近傍を巡る巨大灼熱惑星が誕生するのだ。また、恒星系を構築するためのガスが多すぎてもいけないらしい。巨大惑星が形成されやすく、前例のような事態に陥ってしまう。
 さらに、太陽系誕生から、太陽が輝き始める時期も影響していたという。太陽が輝き始めたとき、その光圧、太陽風圧で、周囲の塵が一掃された。それがもしももう少し遅かったなら、海王星や天王星はさらに成長し、結局三つの木星級惑星が生まれていたかもしれないのだ。逆に、木星が存在しなければ、地球は豊かな命の星になれなかったかもしれない。はるかオールト雲からやって来る彗星。その中でも巨大なものは、地球に衝突して、しばしば大きなインパクトを与えてきた。生命は、その危機を乗り越えることで、複雑性を増してきたのだ。しかし、もしも史実より頻繁に衝突が起こっていたならばどうだろう。生態系が立ち直る前に次の衝突が起こったならば、生命は二度と立ち直れなくなるほどのダメージを受けていただろう。木星がなければ、そうなったかもしれない。木星は、その巨大な重力で、オールト雲から飛来する彗星を吸収し続けてきた。もしも木星がなければ、地球に到達する彗星の数は、今の50倍(えっ、500倍だったっけ?)に達していただろうと推測されている。
 このように、地球の存在は、危ういバランスの上に立った奇跡的な出来事であり、あるいはこの宇宙に、地球のような生命の星は希有なのかもしれない。
 SETIに代表される生命探査への期待は、この先もずっと裏切られ続けられるかもしれないなあ。元々、宇宙には生命がありふれている"はずだ"という期待は、人間の営為の一つである科学の決まり事を鵜呑みにした結果に過ぎない(例えば宇宙の均一性とか)。科学というものは、あるかどうかはわからない人間の"外部"から、人間にとって有益なディテールを切り取ってくる活動の一つだ、と言い換えることが出来るだろう。そこには恐怖があり(人間が規定するところの生命現象は、この地球に限定されるかもしれない)、また希望(人間の想像の及ばない類のなにか、あるいは新しい人間的営為によって知りうるなにかがあるかもしれない)もあるはずだ。
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2001年9月16日(日曜日)

NHKスペシャル「狂牛病・感染は何故拡大したのか」

テレビ 23:16:00
 今日のNHKスペシャルは狂牛病の話題。長い間人事だと思っていた。これは欧州での災禍であり、日本は無関係だ。それに牛の病気なので、人間は無関係だ。そう思っていた。ところが近年、狂牛病と同様の症状の患者が次々に現れ始め、人間にも感染する事が明らかになってきた。さらに、つい先日には、国内でも狂牛病同様の症状を現した牛が発見された。いつの間にか、僕らの足元に忍び寄っていたらしい。
 狂牛病がプリオンというたんぱく質に深い関連があるということは分かっている。通常、プリオンは細胞内でごく当たり前に製造されるたんぱく質の一種だ。ところが、形状の異なる異常プリオンが現れると、この異常プリオンが周囲の正常なプリオンも異常プリオンに変えてしまい、最終的にはその細胞は死んでしまう。それが脳の神経細胞に多量に発生した結果、痴呆状態になり、狂牛病の症状を現すことになる。
 異常プリオンは高熱でもなかなか分解しない。それが今回の拡散の一因となった。死んだ家畜や屑肉は高熱で処理され、肉骨粉という飼料に変えられる。これを摂取した牛は、そこに含まれている異常プリオンのために狂牛病に罹ってしまうのだ。また潜伏期間が8年程度と長いのも厄介な点だ。
 この肉骨粉が日本にも輸入されたのではないかという疑いが持たれている。イギリス側の資料には、日本に数百トンの肉骨粉が輸出されたとある。ところが、農水省は「輸入はしていない」と言い切っている。この齟齬はどこから来ているのか、不思議だ。
 しかし、先週に入って、日本で狂牛病様の牛が発見されたわけで、肉骨粉が入ってきていたのはほぼ確実に思える。農水省の能力がその程度のものということなのだろうか。一体、日本の官僚は、どこまで落ちぶれてしまったのか。
 しかし、狂牛病が日本に侵入してきたということは、普通に暮らす僕のような個人にもその脅威が及ぶ可能性があるということだ。しばらく、肉食は控えようか。
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2001年9月09日(日曜日)

NHKスペシャル 日本人はるかな旅

テレビ 23:39:00
 今夜のNHKスペシャルは「日本人はるかな旅」第2夜は"巨大噴火に消えた黒潮の民"。
 冒頭は見逃したが、トカラ列島辺りの海底火山が大噴火し、南九州にあった大集落を滅ぼしてしまったという話だと思われる。縄文時代、約6500年前のことだ。かつて、縄文文化は北方優勢で、東日本から北日本にかけて存在し、西日本ではそれほどの勢力でもなかったと思われてきた。ところが、近年になって大隈半島などから大規模な縄文集落が発見されている。実は、6500年前の大噴火により、その形跡が拭い去られていただけだったのだ。
 彼らはどこからきたのだろう。
 氷河期、地球の海面は大きく下がり、今では水没している広い陸地が現れていた。その一つに、インドネシアを中心とする亜大陸があった。この地は氷河期にも温暖で、簡単に食料を入手できたため、大人口を養うことができた。ジャワ島は原人の宝庫といわれる。
 やがて氷河期が終わった。すると水面が再び上昇し、亜大陸が水没し始めた。人類の生息地が減少し始めた。これに促されて、人類は初めて船による航海を試みるようになったと推測される。最初は河川を渡るための筏を竹で組むことから始まったと考えられる。それがやがて川下の大河に、そして遂に海へと至った。その過程で筏はより渡洋性の高い丸木舟へと発展したと思われる。この丸木舟の建造に必須なのが、木を加工するのに適した丸ノミ石斧だった。そしてこの丸ノミ石斧は、九州南部の遺跡からも出土している。つまり、亜大陸から逃れた一派は、九州南部にまで到達していたのだ。
 その航海は一度では済まなかったと推測されている。まず彼らはフィリピンに到達した。ここまではジャワ亜大陸からは目と鼻の先だ。だが日本まではさらに広い海が広がっている。この航海を可能にしたのが、赤道から北上し、日本近海を流れる黒潮だったと考えられている。沖縄には石器時代の港川人が住みついていた。ところが、沖縄から九州へは、今度は日本本土から離れて流れていた、当時の黒潮の流れが阻んでいたのである。
 しかし、氷河期の完全な終息とともに、黒潮は現在のように本土沿岸を流れるように向きを変えた。その時初めて、南方の人々は本土へと足を踏み入れることが出来たのだろう。彼らは照葉樹林が広がり始めていた九州南部で、丸ノミ石斧の技術を用いて作成した石斧を用いて森を切り開き、最初期の栽培農業すら始めていたようだ。彼らの痕跡は巨大火山の噴火により途絶えたが、彼らが死に絶えたわけではない。彼らが日本のより北へと逃れたことは、現代人にも彼らの特徴が受け継がれていることからも明らかだ。こうして南方から来た人々も、人種の坩堝と化した日本列島の一員となったのだ。
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2001年8月26日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙 未知への大紀行」

テレビ 23:42:00
 今夜のNHKスペシャルは「宇宙 未知への大紀行」シリーズ5回目、「150億年の遺産」。
 金はその安定性と希少性から、長らく人類の富の象徴として扱われてきた。その金を、もしも他のありふれた金属から作り出せれば、莫大な富を得ることが出来る。そう考えた人々は、金を生み出す技術、錬金術を追求した。錬金術は現代に連なる近代科学の嚆矢であり、経験主義的な知識体系の夜明けを告げるものだった。が、錬金術自体はその最終的成果を経験することは無かった。
 金のような重い元素を作り出すには、莫大なエネルギーが必要であることが分かっている。元素から別の元素を作り出すには、元素同士を核融合させるか、金より重い元素を核分裂させるかするしかない。しかし、最も軽い水素同士を核融合させるのにも、莫大なエネルギーが必要になる。核融合炉は人類が長年追求してきた夢だが、今に至るまで実用化の目処は立ってない。ましてや、遥かに重い金を生み出すことなど、実験室レベルの技術でしかない。
 そもそも、金はどこで生み出されたのだろう。
 19世紀、あるドイツのレンズ職人は、後に吸収線として知られる現象を発見した。白色光を特定の元素のエアロゾルなどに通過させると、その元素固有の波長の光を吸収し、その結果としてスペクトルに黒い線が現れる。これを利用すれば、遥かに離れた恒星の組成を知ることが可能だ。
 宇宙黎明期の天体(つまり地球から遥かに離れた天体)を観測すると、重い元素が極端に少なく、ほとんど水素とヘリウムのみで構成されてることが分かった。50億年程前に誕生した太陽が重い元素をふんだんに含んでいるのに対し、宇宙の黎明期にはほぼ水素とヘリウムしか無かったのだ。
 宇宙を探査してゆくと、惑星状星雲という奇妙な天体が散見される。これは明るく輝くガスの広がりで、中心に燃え尽きた矮星があることから、太陽の8倍程度の質量までの星が死を迎えた姿だと考えられている。太陽のような主系列星は、その中心部は巨大な圧力と温度になる。この環境で、水素は核融合を起こし、ヘリウムへと変化する。こうしたサイクルは水素の供給がある限り続くが、末期には水素を燃やし尽くし、今度はヘリウム同士、ヘリウムと水素とが核融合して、ベリリウムや炭素などのより重い元素が生成される。ヘリウムによる核融合はより高温を生み出すので、恒星中心部の圧力は上がり、結果的に外層部をさらに遠くに持ち上げることになる。これが赤色巨星と呼ばれる状況だ。こうして、水素から比較的軽い元素(確かNaくらいまで?)までを生み出した後、ついに中心部の核融合は限界に達し、停止する。すると恒星は中心部が収縮し、逆に外層は中心部からの重力による束縛が無くなるので、急激に拡散してしまう。これが惑星状星雲の正体なのだ。このとき、拡散してゆくガスに、この星が生み出した元素たちも混ざって拡がってゆく。
 しかし、これだけではより重い元素を生み出すことは出来ない。より重い元素の生成には、より重い天体が必要になる。
 太陽より8倍以上重い恒星では、中心部の温度と圧力もさらに上昇する。この種の天体でも最初は水素の核融合により輝く。そしてそれが燃え尽きると、さらに重い元素を融合させてゆくのも同様だ。しかし、内部の圧力が非常に高いため、軽い星の場合と異なり、重い元素をも次々に融合させてゆく。そのサイクルは、鉄を生み出すまで継続してゆく。
 鉄は、さらに核融合させるのに必要なエネルギーが非常に高く、また入力された以下のエネルギーしか戻さない(つまり常にエネルギーを吸収する一方になる)ため、ここでついに核融合は停止する。この時、非常に高圧で、大きく広がった中心部が、圧力を失ったため、中心に向けて一気になだれ落ちる。そしてその時、燃え残った軽い元素などが一気に核融合するのだ。それにより多量のエネルギーが、一瞬のうちに生み出される。超新星爆発だ。定常的な核融合反応など比較にならないほどの莫大なエネルギーが、この瞬間に解放される。そこに生み出される超高温、高圧の中で、ウラニウムに至る非常に重い元素も生み出される。そして超新星爆発の爆風で、周囲に拡散されるのだ。
 こうして宇宙空間に次第に蓄積された重い元素は、星間物質が収縮して新しい星が生み出される際にも含有される。こうして、太陽など比較的若い星には重い元素がふんだんに含まれることになるのだ。そして我々生命の構成物質としても利用されるのだ。
 しかし、これだけでは十分に説明できているとはいえないという意見もある。超新星爆発だけで生み出されたにしては、金などの重い元素が多すぎる。宇宙にはより巨大なエネルギーを生み出す場所があるに違いない。
 天体物理学者の中には、中性子星同士が融合する際に、莫大なエネルギーが解放されるという可能性を指摘する者もある。超新星爆発の結果、その中心部に中性子星という星が残される場合がある。この中性子星は、あまりもの高圧のために原子と原子の間の隙間が無くなり、電子は陽子に吸収されて中性子となり、結果的に中性子のみで構成されるにいたった異様な世界だ。この中性子星同士の出会いは極めて稀だろうが、その際に解放される巨大なエネルギーの中で、金などの重い元素が多量に生み出されると考えられている。
 超新星爆発は、星の誕生をも促進する。宇宙空間には希薄な星間物質が存在しているが、超新星爆発があると、その圧力波の先端で物質が圧縮される。これが何回か繰り返されると、やがて自律的に収縮するほどの濃度に達するのだ。銀河系には、こうした超新星爆発により生じた、いわば星の鍛冶場とでも言うべき球形の星の揺りかごが、いくつも発見されている。僕たちの太陽系も、あるいはそうして別の星の死によって生み出されたのかもしれない。
 宇宙には水素もヘリウムも大量に残されているが、理論的にはそれは徐々に消費され、重い元素で満たされてゆくことになる。これは宇宙の加齢というものなのだろうか。
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2001年8月19日(日曜日)

NHKスペシャル 「日本人はるかな旅」

テレビ 23:31:00
 今夜のNHKスペシャルは、日本人の源流を探るという新シリーズ第一回。
 "日本人"と通常僕たちが簡潔に表現する集団について、ふつうは単一民族だと考えられている。これは民族という概念の曖昧さにも原因があるのだが、有史以来の移住者を"渡来者"として簡単に識別できてきた事情もあるのだろう。だが、日本人は有史以前から"単一民族"だったのだろうか?
 従来、日本人の源流のうち、最大の集団は南方から来たとされていた。南方や中国大陸から数次に渡る移民の波があり、縄文人の源流が醸し出されたのだとされてきた。ところが、最新の遺伝子解析は、全く予想もしなかった結果を提示した。現代日本人の遺伝子をサンプルし、それを世界中の諸民族と比較した結果、その最大のルーツが南方ではないことが分かったのだ。北方、それも極寒の地であるシベリアに、そのルーツがあったのだ。シベリアはバイカル湖の周辺に暮らす少数民族と、日本人の遺伝子が、もっともよく一致したのだ。
 そのことは考古学的にも裏づけられている。2万年も前、バイカル湖周辺にはマンモスを狩る狩猟民が暮らしていた。極寒の地ではあったが、短い春にはたくさんの植物が芽吹き、それを求めて大型動物が集まることもあり、獲物には事欠かなかったと思われる。彼らが大型動物、特にマンモスを狩るのに用いたのが、細石刃と呼ばれる特異な様式の石器だった。これは黒曜石など剥離性の高い鉱石から、細く鋭い刃を押圧式に取り出し、動物の骨で作った穂先にはめ込むというものだ。これにより、分厚いマンモスの毛皮を貫いて、狩りをすることが可能になったのだ。そしてその細石刃は、日本でも見つかっている。このことから、バイカル湖周辺に暮らしていた集団が、あるときに日本にまで移動してきたことがうかがえる。
 バイカル湖周辺の集団は、ある時に突然居住の痕跡が途絶えてしまう。その頃、地球全体を大きな気候変動が襲っていた。氷河期の極寒期に入ったのだ。大型動物は、緑を求めてシベリアを去ってしまった。狩猟の対象を失った人々は、新たな獲物を求めて移動を開始した。それが原日本人誕生の背景だった。
 その頃、極端な低温に極地や高山の氷層が分厚くなり、その分海面が低下した。その結果、日本列島には歩いて渡れる状況だったのだ。そして人々は徒歩で北海道までやって来たと推測される。しかし、津軽海峡は狭い割りに水深が深く、この時期にも干上がらなかったと思われる。しかし、氷河期の低温はこの海峡をも凍結させていた。人々は歩いて本土に渡った。本土に渡った人々は、あっと言う間に九州最南端にまで達したと思われる。
 その頃、本土は氷河期の低温により亜寒帯気候下にあり、大型動物の生息に適した針葉樹林のステップが広がっていた。狩りの獲物には事欠かなかったと思われる。ところが、やがて氷河期が終わりを告げた。すると再び急激な気候変動が始まったのだ。50年ほどで7度も気温が上昇したという。この大変動は、大型動物の多くを絶滅に追いやった。人々は、今度こそ本当に狩りの対象を失ってしまったのだ。新しい気候に適応しようとする戦いが始まった。人々は大型動物しか狩れない細石刃式の槍を捨て、小型の矢尻を備えた弓矢を生み出した。これで小型ですばしこい動物を狩り、食料としたのだ。しかし小形動物では食料の全てを賄えない。人々は、豊富な木の実に目をつけた。
 当時、森に多量にあるのは、ドングリや栃の実だった。これらは炭水化物に富み、主食とするには栄養的には十分だった。ところが、渋みが強く、そのままでは食料に出来ない。それを解決するために生み出されたのが、煮炊きのための土器だった。
 土器は、中国は東北省周辺で1万数千年前に生み出されたとされている。この辺りでは、豊富に取れる魚の油などを貯めておくための、いわば貯蔵のための土器だった。それが日本に伝わると、必要に応じて煮炊きに適した構造に作り替えられたのだ。器を極限まで薄くし、火で炙るのに適するように形を整えられたこの土器は、日本独自のものだ。世界的に見ても、これほど古くにこれほど完成された土器を生み出した土地はない。文明圏、メソポタミアやインダスで土器が用いられるようになるのは、はるか未来のことだ。日本人の創意工夫は、このころから始まっていたようだ。そしてこの土器は、縄文式土器という世界的に見ても特異な文化様式を生み出して行くのである。
 この番組、もしかして遺跡捏造事件に対する回答として作られたのかとも思える。日本人のアイデンティティが問われている今、はるか過去の出来事に目を向けることは、有意義に違いない。
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