Strange Days

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2001年9月12日(水曜日)

戦争に進む世界

思考 23:44:00 天気:くもりか
 一夜明けて、アメリカでは急ピッチで救助作業が進んでいる。既に何十人かの被災者が救助されているようだ。しかし、なおも数千人の行方不明者が、瓦礫の下に埋もれている。彼らの大半が、再び日の光と目にすることがないのは明白だろう。一体、数千人もの行方不明者のどれほどが、この世界への生還を果たすことが出来るだろう。
 ブッシュ米大統領は、既に報復を繰り返し表明している。今の状況では、これに積極的に反対する勢力はほぼ皆無だろうと思われる。アメリカが戦争に向かうということは、日本を含む自由主義(資本主義)社会も、その動きに巻き込まれるということだ。憲法上、直接的な派兵はありえないが、後方支援の名目で自衛隊が派遣される可能性はある。するとまたしても国民の負担が増加するだろう。増税ということになるのか。それにしてもひどいタイミングでテロをやったもんだ。タリバーンはイスラム社会からすら否認寸前の状況に陥っているのだが、これではイスラムに無関心の国々からも非難を浴びることだろう。
 それにしても、政府はどれくらい"支援"するつもりなのだろう。タリバーンを初めとする過激派勢力は、アメリカの同盟国である日本も、当然のことながら敵視していると考えるべきだ。日本に対してもテロの可能性はある。治安当局の能力は高いものの、外国人による大規模テロに対してはどうだろう。危険性は高い。特に、近年はイスラム圏からの入国者が急増しているのだ。害意を持たないイスラム圏の入国者を守るためにも、早急なテロ対策が望まれる。って、俺はNHKのニュース解説委員か。
 支援が後方支援だけならいいが、直接戦闘員の投入となると、明らかに憲法違反だ。だいたい、日本国憲法は集団自衛権も放棄するという不思議な条文もあるので(WW2時、ファシズムを打倒した連合国の体制をどう考えているのか)、どのような関与も常に憲法違反の疑いを持たれる。
 いっそのこと、あらゆる戦力の投入拒否を宣言するのはどうだろう。その代わり、先進国唯一の非キリスト教圏という立場を生かし、イスラム諸国を説得し、ラディン一派、更にはタリバーンのイスラムからの破門を宣言させるのだ。それにより、ラディンが望んでいるだろうキリスト教圏 v.s. イスラム教圏の対立という危機を脱し、単なるテロ集団として処理することが可能になる。最終的に流される血も、アメリカや同盟国の負担も大きく低減できるだろう。またイスラムからの逸脱をタリバーンが認識すれば、軌道修正によりラディンを排除してしまう可能性も狙える。日本は、こういう芸当が可能な地位にあると思うのだが。国益に添わない戦争行為を回避し、更には諸外国の対立をも終息させるべく努めるのが、大国である日本の政府が担う義務ではないだろうか。もしもそうして戦争の痛みを和らげ、国民に一滴の血も流させないで済むのなら、僕だってこの国のことを心底誇りに思うことが出来るのだが。
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2001年9月11日(火曜日)

暗黒の日

思考 23:42:00 天気:台風直撃のち台風一過 BGM:Epitaph/King Crimson
 恐ろしいことになった。
 最初の惨事はあまりの強風に会社に行けず、半日年休を取る電話を入れた直後に起きた。ふと、部屋の中を風が巻いているような気がしたので、物置と化しているフローリング部屋をのぞいてみた。すると、なんと、上の窓から雨が吹き込んでいる。ほんの30cmばかり空けていたのだが、強風で遮光カーテンが煽られ、もろに雨が吹き込んでいたらしい。網戸がかかってなかったらどうなっただろう。望遠鏡と本が水浸し。とほほほ。
 その後始末のために、結局午後にも出社できなかった。風は14:00くらいには収まっていたのだが。
 次の惨事は想像を絶するものだった。
 夜、何の気なしにyahooのテレビ欄を見ようと思い、yahooに飛んだところ、ニュース欄に「高層ビルに航空機突入」の見出しが目に入った。まさか。いやしかし、asahi.comでも同様のニュースを扱っている。ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が相次いで突入したのだという。しかもペンタゴンやホワイトハウスにも未確認ながら火の手が上がっていると。ニュースをリロードしながら見てゆくうちに、さらに惨事は続く。11機の旅客機がハイジャックされ、いずれも行方不明だというのだ。さらに何機分かのテロが続く可能性があるという。
 いったい、誰がやったのか。これほどの規模のテロを実行できる勢力は、反米的なイスラム教過激派くらいしかいそうにないといわれている。特にアフガニスタンに潜伏中のサウジアラビア出身の大富豪、ラディンの一派が怪しい。ラディンはイスラム系の経験豊富な兵士を多数抱えている。資金も豊富だ。大規模な対米テロでは、常に容疑者筆頭に挙げられている。
 しかし、この規模のテロだと、死者は3桁では済むまい。4桁、いやビルの勤務者が5万名という情報からすると、万単位の可能性がある。と、ニュースが差し替えられて、ビルが崩落したと伝えられた。これで5桁かもしれない。なんてこった......。
 これほどのテロをやられては、アメリカ市民の比較的慎重な層も、全面報復に賛成するだろう。しかし、誰に報復するのか。この規模のテロでは証拠が残らないはずはないので、すぐに"敵"が明らかになるだろう。わからなくても、アメリカは適当な敵をでっち上げてしまうはずだ。でっち上げるとはいえ、その対象はほぼラディン一派だから、その範囲をどこまで絞るかという程度の違いではあるまいか。ラディンとその武装集団を直接攻撃するのか、彼らをかくまっているタリバーンを叩く可能性も高い。なんにせよ、まずはアフガニスタンから火の手が上がるんじゃないだろうか。
 問題は、それに対してイスラム教圏がどう動くかだ。公然と支持するのは不可能だが、裏では連帯するか、あるいは切り捨てにかかるか。連帯してしまえば、アメリカはあまり躊躇なく連帯者をまとめて叩くだろう。それがアメリカを中心とする西側先進諸国 v.s. イスラム圏という大戦争にならないという保証はない。そうなれば、死者はあっという間に万単位に膨れ上がる。アメリカは、なんだかんだいいながら、戦争に関しては独自のセンスを持つ強国だ。そのアメリカを本気で怒らせて、テロ集団に勝ち目はあるのか。無制限戦争に突入すれば、アメリカはゲリラ戦に勝利する唯一の手段を講じるだろう。つまり、テロ集団を支持する宗教/民族集団の殲滅だ。そこまで話がエスカレートしてしまえば、場合によっては核の使用により死者が億単位に達する可能性さえある。
 もちろん、そのずっと手前で事態が均衡する可能性のほうが高い。アメリカがテロの首謀者を捕獲できれば、それをアメリカの司法機構の中で処理することで、ガス抜きを行える可能性もある。またテロ実行グループを、イスラム社会が見捨てることで、事実上最低限の抗争にとどまる可能性もある。つまり事態の鍵を握るのはアメリカではなく、むしろイスラム社会の反応だと見てよさそうだ。それはパレスチナ住民の狂喜乱舞振りに対し、自治政府のアラファト氏が苦慮しているらしいことからもうかがえる。どこまで政治的に、穏便に処理できるだろう。せめて、もう流されてしまった血と同程度で済めばよいのだが。
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2001年8月06日(月曜日)

ヒロシマの祈り

思考 20:09:00 天気:曇り
 なんだか眠れずに明け方にはごろごろする羽目に。どうも眠るタイミングを逸したような。
 会社にうすぼんやりしながらでかけ、食堂で朝食をとりながらテレビを見ていたら、高校野球の始球式かなんかで、原爆記念日に付き黙祷、というのをやっていた。そういえば、平和大行進とかいう催しも耳にした。原爆記念日は夏の風物詩化している。
 自分が広島出身で、日教組の洗脳工作(笑)に苦しめられてきたせいか、長崎や広島で起こった事件を、その悲劇性を認めながらも、やや冷ややかに見てしまう。正確には、"あの日"以降に起こった事件を。原水禁と原水協の分裂劇は、歴史に残るお笑いといえるだろう。イデオロギーの前には、核兵器による死者など物の数ではないのだ。なにしろ、旧ソ連では、スターリンによる粛清だけでも、WW2時の日本人戦死者を軽く上回る人々が死んでいる(統計によって数値は違うが、最低でも600万人は死んでいるらしい)。つまり、イデオロギーの殺傷能力は、核兵器のそれなど軽く凌駕しているといえるのではないか。なんてのはブラック過ぎるだろうか。
 もちろん、だからといって長崎や広島でたいした理由も無く死なねばならなかった、あるいは後遺症に苦しまねばならなかった人々の悲劇性が、いささかでも薄まるわけではない。いやむしろ、南北戦争からこちら累々と積みあがってきた何億という死者の中にあって、その位置を確かに確定できるからこそ、8/6、8/9の死者たちの悲劇性は、やはり際立っているといえるのではないだろうか。そこにはドラマがある。そしてそうだからこそ、様々な修飾が、後世の僕らによって施され、利用されうるのである。
 今年も様々な形で、"人類史上最初の核兵器による死者"と"その日"が利用されている。そのほとんどは、イデオロギー的な修飾を免れてはいまい。せめて、その利用目的が正しくありますように、そう祈りたくなる。
 しかし、たとえこの一週間ほどの間に営まれる様々な行事が、それを主催する人々の思惑に縛られてしまうにせよ、それらに通底する祈りには、無死の、純粋なものが含まれているはずだ。その思いが通じる日は来るのだろうか。広島の外に生きる人々にとって、夕食ほどの注意も喚起出来ないに違いない諸行事を見ながら、なんとなく歯がゆく感じるのは僕だけだろうか。
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2001年6月08日(金曜日)

誰かが責任をとる社会

思考 20:28:00 天気:曇りですか
 ボーナスも無事に出て、少しだけ気分がよい。だが、世間では恐るべき事件が発生していた。
 昼頃、gooのニュースチャンネルを見ると、「小学校に男が乱入。児童ら多数が死傷」という見出しがあった。それから、1時間おきくらいにニュースを眺めていたのだが、見る度に死者が増えている。しかも亡くなったのは小学校低学年の児童ばかりだという。いったいどうして、こんな、むごい......。日頃、不謹慎なことばかり考えている僕も、始まったばかりで、こんな不条理な終わりを迎えた子供たちの人生を考えると、どうにもやりきれなくなった。
 犯人に関しては断片的な情報しか入っていない。どうやら薬物を大量に服用していたとか、以前にも薬物を使った事件を起こしているとか、精神病院に処置入院させられていたらしいとか、そういう情報が飛び交っている。以前起こしたという事件はおぼろげに記憶にあるので、検索すれば出てくるかもしれない。
 しかし、もしも処置入院させられていたという情報が本当なら、誰が世の中に出してしまったのかという問題がまたしても問われることだろう。西鉄バスジャック事件と同様に、だ。犯人は処置入院以来壊れっぱなしだったのにそれを見逃したのか、あるいは外に出てからまた壊れたのか、あるいは壊れた振りをしているだけなのか。壊れっぱなしだったというのなら、それを見逃して野放しにしていた担当医師、あるいはそれを監察する立場にある人々の責任が問われるだろう。次の場合も、再発可能性が高かった(はずの)人物に適当な処置を取らなかった人々の責任を問われるだろう。最後の場合は、いうまでもなく当人の責任が問われる。いずれにせよ、誰かが責任を問われるだろう。いや、そうであって欲しい。またしても「誰も悪くありませんでした」では、社会に対する信用が低落するばかりだ。それよりは、誰かが必ず責任を負わなければならないという緊張感が欲しいのだ。世界の不可知性に逃げ込むばかりでは、何も変わらないのではないか。例え不条理であっても、誰かに責任が収束する結末であって欲しい。そしてその誰かが不条理だと考えたのならば、またそれを世界に対してアピールして欲しい。そのように議論が継続してゆかず、どこかで途切れてしまうのならば、亡くなった子供たちは本当に浮かばれまい。
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2001年6月05日(火曜日)

死刑廃止論の背後にあるもの

思考 23:23:00
 前に死刑廃止論に関して考察したようなしてないような、忘れようとしても思い出せない状況なのだが、何度か関連する話題は考察(というか妄想)したような気がする。
 死刑廃止論議の争点を洗い出すと、結局、

・死刑制度による犯罪抑止効果
・被害者への補償(の一環としての"命")

という2点が浮かび上がる。
 まず犯罪抑止効果だが、これははっきりしないようだ。「ある」とするのはもちろん存続論者だが、彼らは「きっと~だろう」という希望的観測に基づいている場合が大半で、はっきりした統計的な根拠を示した例はないと思う。それがあるのは廃止論者で、例えばアメリカにおける事例をケーススタディとして挙げているものが散見される。しかしそれらはいくつかの変数(例えば"重犯罪"の定義)を内蔵しており、恣意的に解釈されている可能性も捨てきれない印象がある。また相反する結論を出している研究もあるようだ。いずれにせよ、死刑制度に対する反応は人によってまちまちだろうし、民族的国家的文化的な影響も大きいに違いない。犯罪抑止効果を焦点に置くのは、廃止論にせよ存続論にせよ意味が無いのではないだろうか。やってみなければ分からない、というのが実際のところだろう。
 後者は効果という点では無意義という一言で片付くかもしれない。殺人犯の命を奪ったところで、被害者は決して生き返らないからだ。しかし、存続論者はまず遺族への慰撫という意味付けを強調し、さらには社会への影響(反社会的存在の抹殺による清涼感?)も強調するわけだ。しかし、全ての遺族が殺人犯の抹殺を一律に望むかといえば明らかにそうではない。日本でも、遺族が殺人犯と交流している例はいくつもある。また社会への影響も一律ではありえないだろう。犯罪抑止効果があるか、という論点と同じだ。
 しかしながら、弁護士会やNGOが無邪気に「(死刑囚)XX君を応援する会」などというものを組織しているのを見ると、暗澹たる思いになる。あれらは被害者の遺族をどう考えているのだろう。無邪気に「分かってくれるさ」で片付けているのではないか、と疑ってしまうくらい無神経なネーミングではないか。社会的な反応を考慮するならば、死刑廃止論者は顔の無い死刑囚という無人格の個人を念頭に置くべきだろう。あの種の組織は、死刑廃止論にとって逆風以外の何者でもないと思う。
 いずれにせよ、これらの論点はすっきりとは割り切れないもので、存/廃両論に対しては十分注意して耳を傾ける必要があるだろう。さもないと、一種の宗教対立に発展してしまう。
 僕が面白いと思うのは、廃止論の中に「人間には決して奪われてはならない権利がある」という主張が背後にあることだ。いうまでも無く、「人権」というものを意識したものだ。人権は何者にも、他者にも国家にも奪うことが出来ないものだ、とする主張だ。しかしそれを奪った"他者"はどうなのか、という存続論者の指摘はもっともなものに思える。この両者のうちどちらが真実かという問いに答えることなど、たいていの人の手に余るのではないだろうか。少なくとも僕にはその自信は無い。しかし、「奪われない権利」を蹂躙したのなら「奪われない権利」は失効するという見解の方が受け容れやすいように思える。というのは、もしも「奪った者」からすら「奪えない」とするなら、それを保証する別の実体が必要になるはずだからだ。例えば国家にも他の人間にも奪えないとすれば、それをこの世のどことも知れない超越的な存在が保証しなければならなくなる。超ルール的ルールとでもいうのだろうか。そんな思想は、どうにも気持ち悪いものに思えるのだ。結局、社会というものはその構成員同士が、それぞれの権利を切り売りしたり尊重しあったりして成立している、という見方の方がすっきりしていて好みだ。全ての権利は別の権利を尊重することで成立する(つまり無前提の権利は存在しない)という思想のほうが、世の中うまく回るのではないかと思うのだ。
 そんな風に人権絶対主義に疑問を抱く僕ではあるが、しかし死刑制度に対しては廃止論に組する。
 僕が思うに、二つの論点のそれぞれが収束しない状況では、実験的に死刑を廃止して効果を見るしかないのではないかと思うのだ。今、死刑制度を廃止しても、直接的に赦免される死刑囚の数はごくわずかだ。しかもその大半は、世間から忘れ去られている。死刑囚が死刑にならないことで社会が重大な影響を受けるとは考え難い。残るは、死刑制度がどんな影響を与えるかという点で、これは実験の結果を見るよりあるまいと思う。もっとも、死刑廃止論議の焦点は実効果というより、観念論に終始している観はあるのだが......。
 もう一点、たとえ人権論的な見地に立たなくても、死刑囚には固有の価値があると思う。彼/彼女からはなぜそこに至ったかという貴重な教訓をくみ出すことが出来るのではないだろうか。そして彼らが確かに罪を悔いているという確信が得られれば、遺族感情も随分慰撫されるのではないだろうか。もしかしたら、死など望まないくらいに。それらは、彼らを処刑して無言の存在にしてしまえば、もはや達成できないだろう。そんなわけで、僕は一応、フラフラと死刑廃止側に立っているのだ。
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2001年5月24日(木曜日)

なにもしないこと

思考 23:16:00
 立花隆がまとめた、例の石器発掘捏造事件に関するムックを読みきった。前半は確かに捏造事件に関するレポートなのだが、後半になるとなにやら現代科学論じみた科学者自身のエッセーや、立花以外のライターによるレポートばかりになるという、なんだか奇怪な造りのムックだ。後半1/3は、「どの辺が捏造事件と関わってくるのだ」と突っ込みを入れたくなって来るようなものだ。いや、面白かったけど。
 ムックでは、「日本にも旧石器時代が存在したこと自体は(つまりそういう遺跡があること自体は)間違いない」としているが、学会や自治体による遺跡洗い直しは始まったばかりだ。今は全てが「限りなく黒に近い灰色」だが、ここからどれだけの黒を排除できるのか、さらにはどれほどの白が抽出できるのかが問われることだろう。
 このムックで面白かったのは、もちろん捏造事件に関するレポートも面白かったが、むしろ後半1/3の辺りが面白かったように思う。この辺では、「科学と発見」というテーマを取り上げ、科学者自身による"発見"の経緯に関するエッセー、そして様々な科学的発見に関するサイエンス・ライターたちのレポートが全てを占めている。ああ、"発見"という点で、メインテーマ(捏造事件)と一応つながっているのだな。別に全く切り離してもいいような内容だが。実際、もしかして別の本をまとめるためのネタを急遽流用したのかしらという観も無きにしも非ずだ。
 この中で、発見は長い継続と、瞬間的な中断の後にやってくるという事が書いてある。例えば、あるテーマに関して延々と研究を続けていたが、業績が上がらない。しかし旅行とか、手続き上の都合で研究が中断し、ふと空虚な時間が空いたときに、突然問題を解く鍵が手に入る、という事例が語られている。これは気分転換という単純な言葉で片がつくことではないだろうと思う。重要なのは、ある発見の契機は一時の中断(による視点の変動)ではあっても、それ以前に長い蓄積があるということだ。つまりある問題に関して(例えばクロスワードパズル)出来るだけの考察(解けるだけのクイズを解く)を行った後、初めて解への道を発見するような種類の事例だと思うのだ。
 まあ蓄積は個々にやってゆくしかないだろう。で、この"中断"として"なにもしない時間"が良いなどとされているのだが、結局なにかを解決した時間が"なにもしなかった時間"などといえるだろうか。要するに、人間はなにがあっても、なにかしらの思考に取り付かれ続けるという事ではないかいなと。正確には、そうしないではいられない人間が居るということか。僕も温泉にでもつかりに行くか。
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2001年5月04日(金曜日)

SFセミナーの余韻

思考 22:12:00 天気:くもり
 昨日のSFセミナーの余韻が残っているのか、どうも色々考えてしまう。怖い考えになるわけではないが。
 瀬名氏のSF界への違和感と共感は、共有できるような出来ないような、アンビバレンツな気持ちだ。それはたぶん、僕自身がSF界への帰属意識がある反面、そこはかとなく外から眺めているような部分があるからだろう。
 そんなわけで、大体寝て一日を過ごした(ダメじゃん)。
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2001年4月25日(水曜日)

痛くない奴に小説など書けるか

思考 22:04:00
 あちこちで「痛い」という表現を目にして、僕もあまり気にせず使っている。しかし、考えてみれば危険な言葉だ。
 なにが痛く感じるかというと、これは痛い人の過剰な部分に、痛く感じている人が共感できないことだろう。例えばやおいに関して熱烈に語っている人を見て、やおいというものに思い入れの無い人は痛く感じるだろうが、思い入れのある人は共感できるだろう。親馬鹿という行為も、その子供に思い入れの無い赤の他人には痛く映ることだろう。しかしながら、人間誰しも過剰な部分はあるはずで、もし無いとすればその人は死んだように起伏の無い生活を送っているとしか思えない。現代人なら、なにかしら思い入れのあるものを持っているだろう。大体、なにかを熱心に語るには、それだけの動機が必要だろうから、他人に痛い認定している人々も、実際には痛い部分を抱えているに違いない。
 問題は本人が痛いことを認識しているかどうかだ、とする声もありそうだが、僕はそれは問題の中心を外していると思う。なぜならば、語られる以上はその部分は本人にとって過剰な部分であり、それだけで"痛い"と認識されてしまう危険性を払拭できないからだ。痛いかどうかは、個々人の価値観と対照されて初めて明らかになる事項であり、なにがそう認識されるかは完全に不確定だ。単に日常の必要性から風呂釜の機能に関して語っていても、それは興味のない第三者からは「痛い」と見なされる可能性が常にある。つまり、予め発信者の価値観との対照だけで「これは痛いかも」と認識することに、僕はあまり意義を見出せない。むしろそのような認識は、事後の反応に対する汎用的な心構え程度に抑えて置けばよいのではなかろうか。
 このことを創作(とまで身構えなくとも、まあ書く行為そのものでもいいが)にひきつけて考えると、創作家が痛い部分を抱えているのは必定だろうし、創作の中心はまさにその痛い部分に相違ない。なぜならば、創作し、語るには過剰な部分が必要だからだ。そしてそのような部分は、他者から見れば「痛い」と見なされる可能性を常に秘めている。その程度のことは、創作の上ではごく当たり前の、軽度のリスクと見なしても構わない。むしろ、ある種の人間にとっては魅力的だが、別種の人間にとっては痛く感じるような事項を見つけ出すことこそが、実は優れた創作の基本なのではなかろうか。万人に心地よい、ムードミュージックのような創作に、どれほどの価値があるというのだ。むしろ、読者に一歩退かれれば、すぐに痛さが目立ってしまうような、懐深くまで飛び込まなければ、魅力的な創作など不可能だろう。それを万人に受け容れられやすい形にするのは、創作技術の仕事だと思う。
 新田次郎や井上靖の描く自然は、どちらかといえば乾いた視点を感じさせるが、単にモノとして眺めてだけではあのような描写は出来まい。むしろ自然への過剰なまでの思い入れが無ければ、かの優れた描写は無かったのではないだろうか。そしてそれを、一見乾いた背景に見せているのは、実は優れた創作技術の賜物なのではないだろうか。
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2001年3月29日(木曜日)

霊魂は実在するか?

思考 21:15:00
 「霊魂は実在するか?」などというスレッドが、2chのオカルト板に立っている。まあタイトルはいかにも2ch的だが。少々関与してみたが、心霊現象の実在性に関して大きな温度差があることを改めて思い知らされた。
 ある人が「理屈がわからなければ鳥は飛んでいることにならないのか」、だから理屈はわからなくても霊魂は実在するのだ、といういかにも無理な主張をしていた。この無理さは、「飛ぶ鳥」と「霊魂」の認知度の違いに由来するといってよいだろう。つまり「飛ぶ鳥」の存在はよほどのこと(異様に偏屈な哲学者だとか視覚障害の人だとか)がない限り万人にとって自明だ。しかし霊魂はそうではない。少なくとも、僕はそれを観測した記憶がない。また少なくとも僕にとっては自明の存在でもない。さらにいえば、世の中の非常に広い範囲で自明でないことも明らかだろう。未だかつて、霊魂に対する補償などといったものが真剣に取り上げられたことはない。社会制度そのものが「死後も存続する実体」などといったものを想定してないことは明らかだ。まあ靖国神社問題とかを考えると、完璧にそうとも言い切れない面はあるが。
 もしも「飛ぶ鳥」の存在と同じく、「霊魂」を『ほら、あれだよ』といって指示し、それが誰の目にも見えるものであるのなら、霊魂の実在が疑われることなどほとんどなかったろう。少なくとも、そのように見えるものの存在は。しかし「ある」と主張する人たちは、「飛ぶ鳥を示す」のと同じようには霊魂を示せない。それを霊視能力だの波長だの波動だのといった、いかにも科学的に見せかけた言葉で説明しようとしている。しかしそもそも実在が自明でない以上、いかなる形でも検証は不可能だ。そういう意味で、「霊魂の実在」は科学的手法により処理できる対象ではない。実際、超心理学の人々も、もっぱら事例を収集して実在性を明白にすることに注力している段階だ。
 こうして考察してゆくと、そもそも科学的手法というものは、人間の経験世界に強く依存していることが分かる。つまり万人にとって自明である存在でない限り、それを科学の俎上に載せるのは難しいのだ。では量子力学はどうなのだとかいった問題はあるが、これは科学者集団そのものを社会が信用し、その内部的な結論をそのまま社会が受け容れた結果であると思う。科学者集団は、少なくとも霊媒師集団よりは信頼されているわけだ。しかし、ある集団を信頼して、その結論をそのまま鵜呑みにするという図式は実用的ではあるが、かつての宗教的権威と社会の関係を思い起こさせなくもない。少なくとも、「誰にでも検証可能」という科学的手法の原理は、巨大科学での予算問題、あるいはある実験を行い解釈するための膨大な予備知識の必要性などの点から、すでに大きく崩れている気がするのだが、どうだろう(ナニがどうなのだ)。
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2001年3月07日(水曜日)

1/1さくらちゃん

思考 22:30:00 天気:くもり?
 以前、1/1綾波が話題になったが(どこでだ)、最近は1/1さくらとか(どのさくらだ)1/1さくらとか(どのさくらだって)1/1さくらとか(だからどのさくらだ)が商品化されてるそうな。さらには、ダッチワイフのメーカーがアニメっぽい顔の人形も売り出している。しかし機能は制限されている(ええっと、つまりアソコは塞がれてる)そうな。これが凶悪に可愛い。世のをたくたちは、コンバインに刈られる麦穂のようにばたばたと転んでいるそうな。
 前者、1/1さくらの造型は、どうもいまいちな気がする。そういう風評はあるようで、しかも高価(約30万円)なので、さらに不満を持つ人が居るようだ。
 後者のオリジナルキャラの場合、さすが実用(なんのだ)フィギュアを作りつづけてきたメーカーだけに、造型にほとんど不満は聞かれない。価格も安くて、しかも元の用途が用途だけに関節が可動であるなど、実用可能性も高い(なにがだ)。
 そこで後者のボディに、さくらのヘッドをフルスクラッチして載せてしまう人が出るのも、これはもう時間の問題と見た。夏のワンフェスが見ものだ(いや行きませんけど)。
 1/1なんていろいろ大変そうだなと思ったのだが、考えてみれば有利な点もある。たしかに大きいので飾っておくスペースは大変だろう。しかし、なにせ1/1だ。着物が既製品で間に合うのだ。これが小さなお人形サイズだと、着物をいちいち作成しなければならない。これら等身大フィギュアのサイズは子供服のサイズなので、可愛い既製品を選んで等身大着せ替え人形を楽しめるという寸法だ。体力要りそう。
 しかしだぜ、これらのお人形が狙う市場はニッチではあるが、確実に金を注ぎ込むカモを期待できる市場でもあるわけだ。広く普及するとは思えないが、一攫千金を狙うなら悪くないかも。
 話をダッチワイフ(女性向にはダッチハズバンドとでもいうのか?)という次元に広げると、これはもう巨大市場が待ち受けているのは確実だと思う。というのは、今後老人人口が増え、老人の性という問題がクローズアップされてくると、その対策の一つとして高性能ダッチワイフが求められるのは確実だからだ。ありていに言って、僕らが60、70になった時、同年代の婆さんに欲求を感じるだろうか? ちょっと考えられないのだ。きっとその年になっても、20、30の孫みたいな女の子の方に魅力を感じるだろう。また独身だったり離婚してたりして頼れる身寄りの少ない人が増えつづけていることを考えると、その物心両面のケアとして高性能アンドロイドの類が登場するのも、恐らくほんの数世代先の話に過ぎないだろう。そしてその中に性欲処理が含まれるのも必然だと思う。それに老人たちは、今や国家保障が頼りにならないので、箪笥に金を溜め込んで、そのまま墓場まで持っていてしまうことが多いのだ。じいちゃんばあちゃんが孫に甘いことを思えば、確実に金を取れるはずだ。さらに目を上げれば、それらの機械どもは、孤独な人々の心の拠り所にもなるだろう。
 今でも物言わぬお人形さんたちに、心を癒されている人々はいる。それらの人々のウェブページを見ると、確かにやや痛いのだが、同時に否定しても否定しきれない共感のようなものが残るのも事実だ。たぶん、彼らはほんのちょっと先を行き過ぎているだけなのだろう。ホンの半世紀前までは、映画や文学に夢中になる人々は、その世代の一般人からすれば「痛い人間」だったに違いないのだから。
 話をダッチワイフに戻すと(戻ってるのか?)、こんな凄まじいものもある。ここまで来ると、攻核機動隊に出てきた『フェラーリより高価なお姉ちゃん』の登場も夢では無さそうだ。そしてそれが登場するのは、技術力も金も市場もある日本である可能性が高いと思うのだ。今から貯金するかなあ(要するにカモかお前はっ)。
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2001年3月01日(木曜日)

怖い話対策

思考 23:17:00 天気:雨っ
 2chのオカルト板を見ていたら、"洒落にならないくらい怖い話"というスレッドが立っていた。これがまた、確かに洒落にならないくらい怖い。例えば、『一軒家を買ったところ、どう考えてももう一部屋ありそうに思えた。その辺りを探ると、板を打ち付けて閉鎖した扉が見つかった。開けてみると、あたかもたった今まで誰かが生活していたとでも言うような茶の間が現れた』なんて話。昼に読むとどうということは無いのだが、夜中にふと思い出すとぞくぞくしてくる。そこはかとない、微妙な不条理感が、底なしの妄想を誘うのである。また別のスレッドで、稲川淳二の『生き人形』のほぼフルバージョンも読めた。これが本当に洒落にならないくらい怖い話だ。泣きたくなりながら読んでしまう俺様! 悲しい性である。業やれ業やれ。
 しかしまあ、真夜中に生き人形を思い出した日にゃ、眠れなくなること請け合いだ。なんかの拍子で、まあ酔っ払いが階段を蹴飛ばしたとかでビックリさせられた日にゃ、即身成仏すること請け合いである。命に関わるのである。こんな情けない理由で死にたくは無いのである。
 そこで怖い話対策である。
 まず、深夜には怖い話を読まない! まだ隣家や近所に人の気配が充満しているうちに読むのがベターである。ふとした物音が心を勇気付けてくれるのである。しかし、真夜中に話し声が聞こえたら、こりゃまた逆効果であろう。
 怖くなったらどうするか。最近は『スッタニパータ』を読む。紀元前のインド、悪霊や呪いが充満していたインド亜大陸で、それらを見事に切って捨てた思想家仏陀の声は勇気付けられる。霊魂不在を確信すればお化けなんか怖くないのである......というわけにはいかないのである(T-T) やはり怖いものは怖い。
 もう一つはニュースを見ること。血なまぐさい現実世界の出来事を追ってゆくと、たとえ悪霊が実在するとしても、その害は現実世界の悪に較べれば微々たるものだと思う。これでやっとお化けの恐怖から解放されるのである。しかし、明日の日本はどうなるのか、世界は、地球は、などと考え始めると、これまた別種の恐怖に眠れなくなってくる。毒をもって毒を制するとしばしば新しい毒にやられるのである。これでいいのかっ!
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2001年2月01日(木曜日)

自殺の罪

思考 23:00:00
 知り合いが自殺した。知り合いというのは他でもない、ココからリンクを張っているくらけ氏だったりする。
 昨日、あちゃいん氏のBBSに、そのくらけ氏の知人と名乗る方から、氏の死去が報告されたのだ。最初、新手の荒らしだと思ったのだが、関係者の調べでは残念ながら事実だったということだ。
 くらけ氏と知り合ったのは、確かまだDOS/V全盛(つまりWindows時代)だった'93年頃じゃ無かっただろうか。当時はPC-98の勢力が巨大で、PC互換機など国内では吹けば飛ぶような存在だった。ソフトも英語圏のものは当然多いのだが、日本特有の事情にあわせたものは少なかった。
 これで困ることの一つに、画像表示の問題があった。当時、画像フォーマットはいくつも乱立していた。今でこそJPEGの他はGIF、PNG位と言う状況にまで単純化されたが、当時はMAG、MAKI、Q4、PICなど、いくつものフォーマットが、日本でだけ乱立していた。それらのローダも当然作られてはいたのだが、ターゲットはほとんどPC-9801で、DOS/V(というかPC)に対応したものは数少なかった。特にX68Kで使われていたPICフォーマットに関しては、可逆圧縮フォーマットでフルカラー表示というスペック故人気が高かったのだが、PC上では表示できないという状況だった。かといってWindowsは3.1が出たばかりで、まだまだソフトがお寒い状況だった。
 そんな空白を埋めてくれたのが、くらけ氏のpiclvだった。これはDOS/Vコマンドラインのローダで、PICファイルを再現性高く表示してくれるものだった。こいつのおかげでほぼ完全にPC-9801と縁が切れたのだった。
 非常に嬉しかったので、感想がてら当時健在だったASCII-Netへの転載願いを出したのがくらけ氏との出会いだったかな。くらけ氏は感想を喜んでくれ、また転載も快諾してくれた。
 それからしばらくして、僕は今度はOS/2にはまりだした。そこでNIFTY-Serveの旧OS/2フォーラムに顔を出すようになったのだが、そこでまたくらけ氏を見かけるようになった。勝手に同年代だと思っていたのだが、性向にもやや似たところがあったのかもしれない。そしてくらけ氏と「OS/2用のPICLVを作っては?」などとチャットで話していたものだ。やがてくらけ氏がリリースしたPICL/2は、やはり絶対的にアプリが少ないOS/2での貴重な存在になったものだ。
 そしてやがてインターネット時代に入り、僕は一時NIFTYを止めたのだが、今度はあちゃいん氏のウェブページでくらけ氏と出くわすことになったのだ。このように、我々はありとあらゆるところでばったり顔を合わせる運命にあったのだ。
 故人がどういう経緯で自殺を選んだのかは知らない。そもそも知り合いといいつつ、彼の顔も住所も知らない。だが彼とはやはり知り合いだったとしかいえない。様々な意味で、お互いの属性を知り合っていたのだから。顔を知らないことなど些細なことだったのだ。
 たぶん、彼は僕と同年代だったのだろう、と勝手に考えている。少なくともそのくたびれぶりは僕らの世代に共通したものだ。故人が何を考え、このような最終的結論に達したのかは、もう永遠の謎になってしまった。彼の死に関して一番残念なのは、彼はもうなにものも生み出せない存在になってしまったということだ。もう、僕や他の人々と対話し、そこになにかを生み出すことが出来ない存在になってしまったのだから。自殺というものに罪があるのなら、まさしくそのことに掛かっているのだと思う。なにものとも対話できない存在に自らなる。それは人間としては決してとってはならない道だと思うのだ。
 しかし彼はこの世界から去ってしまった。もう僕の手が届かない彼岸へと去ってしまった。彼の死に関して、僕は涙を流したりするわけではないけれど、恐らくこれからしばらくはそのことを考えることになるだろう。
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2001年1月08日(月曜日)

成人の日なのだ

思考 21:53:00
 今年の1/15は月曜日なのだが、休みではない。休みは1/8に移動しているのだ。1/15が土日に掛かっているのなら話はわかるが、なぜ1週間前の同じ曜日に移動するのだ? なにか超自然的な力を感じる(爆)。
 今日は手ぶらで戸塚に出かけ、原稿用紙と本を買って、図書館で調べ物をした。原稿用紙は、比較的最近たくさん買い込んだようなおぼろげな記憶があるのだが、昨夜書き物をしようとしたら底を突いているのに気づいたのだ。そんなに書いたっけ? まあ無いものはしょうがないので買いに行ったわけだ。
 図書館ではAI関連の本を読みたかったのに、なぜか葬式仏教批判の本を読んでしまった。著者は日本の仏教界が堕落しきり、死者や地縁のしがらみ、果ては(織田無道のように)霊魂実在説をネタに金を搾り取る魍魎の跋扈する状況を批判する人だ。特に死者をネタに遺族から金を搾り取る事を強く批判している。著者は無宗教式でも、さらには手作りでも葬儀を執り行えることを説明し、まず葬儀を主催する側が従来の仏教支配から脱却することを奨めている。また時代がまさに葬儀の脱宗教化、脱既成化に進んでおり、このままでは遠からず仏教は滅びると言明する。
 僕も、織田無道なんて輩(こだわるようだが、あの人は何故自分を仏教の僧侶だと思えるのだろうか)が跳梁跋扈する日本の仏教界は、一度滅びた方が良い。というより、今を生きる僕たちにとって不要なら、二度と存在しなくなっても良い。恐らく、仏陀自身もそういうだろう。仏教の教義の根源は、様々な執着を絶つ事だと聞いた。ならば、従来の宗教観が変わり、その重みが失せた今でも、既得権にしがみついている仏教界の醜さはなんなのだろう。状況が変わったとき、それを客観視して新しい規範を作り出せるのが仏教でいう智慧ではなかったのだろうか。自己革新できない宗教に人を救う力はない。
 んで、この本の面白かった点は、オウム真理教の麻原との鼎談が載っている点だ。出版は'92年なので、オウムはまだ大事件は起こしていない。しかし筆者は、麻原の強引な仏教解釈に明らかに戸惑って、違和感を表明している。しかしこの時点でオウムの危険性に気づいている気配もない。オウムはどこで間違ってしまったのだろうか。それとも、全ての宗教は同じ危険性を孕みながら、客観的世界との整合性に目を向けることで破綻を免れているのだろうか。
 もう一つ、著者が創価学会を買っている点も面白いと思った。創価学会、特に池田大作氏周辺に大きな問題があることは認めつつ、しかし創価学会が打ち出したいくつかの方針を、高く評価しているのだ。例えば、日蓮正宗との決別は必然だったろうとする。日蓮正宗にも、程度の違いはあっても葬式仏教問題はあり、その歪みに関しては、信者団体である学会側と折り合えなかったのだとする。そして決裂の結果生まれた友人葬という信者手作りの葬儀の可能性を指摘するのである。しかし、その友人葬が近年では廃れてきた点、また正宗側から離反した僧侶に対する態度を決めかねている点など、問題指摘も手厳しい。まあ創価学会という問題の多い組織にも、様々な学ぶ点はあるということだろう。
 しかしまあ、図書館くんだりまで来て、僕はなにを読んでなにを怒っているのだろう。
 帰路、地下鉄で晴れ着の女の子集団と遭遇した。成人式帰りでしょう。あれは貸衣装なのだろうか。
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2000年12月31日(日曜日)

20世紀最後の一日

思考 21:55:00 天気:晴れかな
 とうとう20世紀最後の日がやってきた。それにしても妙なものである。月面基地はできてないし木星の有人探査はおろか月面への再到達もかなっていない。それなのに、10年前からすればそこそこ想像を絶する世界ではないか。少なくとも、10年前にパソコン通信を始めた頃には、世界中にサーバが分散して、そこにさらに無数のクライアントが自由にアクセスできるような状況が実現するとは考えてもいなかった。むしろHSSTだとか海底都市だとかいったような、居住空間の拡大が実現するのだとばかり思っていた。当時地価は異常に高騰していたし、しんかい2000/6500が実現し、NASAのXシリーズもぼちぼち再始動の気配を見せていたからだ。ところが20世紀最後の10年間に拡大した空間は、完全に人工の空間であるインターネット空間だったのだ。これを『仮想空間』だの『サイバースペース』だのと名付けても、拡大しつつあるモノの本質を、何一つ捉えてい無いような気がする。完全に仮想の世界ではないし、かといって現実世界の影にすぎないという捉え方も単純にすぎる気がする。インターネット空間と形容するより他にないのではないだろうか。実のところ、ITが隆盛を極めることで、なにが豊かになったのかいまいちピンとこないのだ。確かに情報の切り口は増え、以前より遙かに利用しやすくはなった。だが総体として新しい見地があったとは言い切れないのでは無いだろうか。インターネット空間で増大しているのはその領域ではなく、実はディテールである。そんな気がする。
 もちろん、インターネットを背景に新しい潮流、例えばLINUXに代表されるオープンソースの流れのようなものは立ち上がってきた。しかしオープンソースの思想的原形としてのフリーソフトウェアは遙か以前から存在していたし、それがインターネットと不可分だったわけではない。古手のパソコン通信のユーザや、初期のインターネット(日本ではJUNETと呼ばれていた頃)の参加者は、ソフトウェアの回覧という催しに参加した人も多いのではないだろうか。これはパソコン通信にせよインターネットにせよ、そもそも基盤となる回線が遅く、貧しく、大量のデータをやりとりするコストがあまりに高価だった時代によく行われていたもので、大量のソフトウェアやデータを媒体に納め郵政省メールでやりとりするというものだった。あらかじめ参加者を募り、一筆書きになるように、全参加者が次の参加者への郵送料だけ負担する形で実施されることが多かったように思う。僕もこれで最初期の日本語ポート版FreeBSDを入手したし、同時期にやはり最初期のLINUXの回覧も行われていたと思う。むろん、この手段では日数がかかるし、メディアの破損などのリスクもあり得るしでリスクがある。従って速い回線を得られないときの次善の策ではある。LINUXなどのオープンソースの急激な発展は、素早くデータをやり取りできる高速回線の普及に強く依存してはいる。しかしながら代替え手段がなかったわけでは無いという意味で不可分ではないと思うのだ。そんな風に回顧して行くと、インターネットでITが興隆を極めるようになったとはいえても、それが全人類的な利益を生み出しているとか、インターネットが21世紀の世界の中核技術になるとは単純にいえない気がするのだ。
 よく21世紀をインターネット時代だなどと軽々しく口にする人がいるが、20世紀を電話の時代だったなどと総括できないように、強力ではあっても単なる基本的技術の一つを占めるに過ぎないものに終わるかもしれない。むしろ21世紀には、さらに想像を絶するモノが立ち現れてくるのだ。そう覚悟した方が良さそうではないか。
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2000年12月26日(火曜日)

子供には現実を教えよ

思考 23:56:00
 gooのニュースチャンネルを見ていると、「マスオサンタに抗議殺到」という見出しが目に入った。なんでも、クリスマス前後のサザエさんで、マスオさんがサンタクロースのふりをしてタラちゃんの枕元にプレゼントを忍び込ませる、という筋の話があったそうだ。これ自体、なんということも無いごく普通のお話だと思う。ところが、この放送の後に視聴者からの抗議が殺到したという。記事によれば、大半は「子供の夢を壊さないで」という親たちからのそれだったという。
 しかしながら、ばかげた話ではないだろうか。いまだに(煙突から不法侵入して有価物件を年少者の枕元に不法投棄してゆくという)古典的なサンタクロース像を信じている子供などどれくらい居るだろう。今では小学生低学年の子供だって、ゲームボーイでRPGをプレイしているのだ。彼らは世界が様々な「お約束」で成り立っていることを、ちゃんと見抜いているのだ。もしもそのような環境に置かれて、なおかつ古典的サンタクロース像を信じているのだとすれば、それはよほど迂闊で現実世界への注意力が欠如しているか、あるいはなんらかの理由で異常に強い宗教的信念を持ってしまったかのどちらかではないだろうか。
 現代において、古典的サンタクロース像を守りつづける意義が、どれくらい残されているのだろうか。むしろ、そのような"純真な"子供は、いざ現実にサンタクロースが実在しないと知ったときに、世界の現実と自分自身の認識の巨大なギャップに悩んでしまうのではないだろうか。こころある大人は、むしろこのような番組の視聴をきっかけに、サンタクロースがどのようなお約束の下に"存在"しているのかを、子供に話してやるべきではないだろうか。
>いつまでも子供たちにサンタを信じていてほしいと願う親の気持ちの表れだったようだ。(日刊スポーツ12/26紙面より)
などと願う気持ちは分からないではないが、そんな子供はバモイドオキ神でも創造するか、ものみの塔にでも入るかしか精神の平安を保てなくなるのではないかと思うのだが。
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