Strange Days

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2001年2月24日(土曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:08:00
 今夜のNHKスペシャルは、朝鮮半島の付け根にある白頭山の自然を追う番組だった。この白頭山、山頂までの高さは富士山より低い2700m程度なのだが、裾野が非常に大きく広がっている独特の形をしている。これは大きな山塊が大爆発を起こし、堆積物が一気に崩れたためといわれている。山頂には巨大なカルデラ湖が広がっている。これほどの高所に、これだけの大きさの湖があるというのは珍しい。こうした神秘的な佇まいゆえか、この山は朝鮮民族発祥の地と称されている。歴史的に、ここは朝鮮民族と他の民族との領域を分ける役割を果たしていたので、確かに発祥の地といえなくは無い。というのも、朝鮮民族のルーツは沿海州からシベリアにかけて住んでいたと考えられ、それが朝鮮半島に流入する経路にこの山があるからだ。
 しかし、番組で垣間見える北朝鮮の暮らしは、さほど深刻な食糧難に陥っているとは信じられない。見栄っ張りゆえに体裁を繕ったのか、それとも他の地方とでは格差があるのか分からないが、単純な食糧援助はほぼ無意味なことに思えた。
 白頭山を取り囲む針葉樹林は、実は1000年前の大噴火で壊滅した歴史がある。時に渤海国の滅亡という暗示的な出来事も起こっている。ところが、1000年を経た今、樹海は標高2000m地点まで蘇っている。この森を研究する科学者によれば、数百年後には完全に元通りになるという。2000年で復旧するわけだ。森が蘇るという事件は、一人の人間の認識を超えた迂遠なものに思えるが、自然に取っては2000年程度などなにほどのものでもないのだろう。
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2001年2月17日(土曜日)

信長の夢・安土城

テレビ 23:41:00 天気:晴れ
 今晩のNHKスペシャルは、織田信長の安土城に関するものだった。
 安土城といえば、『安土・桃山時代』などと称されるように、織豊期の代表的な城だが、その実態は知られていない。というのも、この城が完成してわずか数年で、信長が本能寺の変に倒れたからだ。その直後、誰の手によるものかは分からないが安土城には火が放たれ、泡沫の夢のように焼け落ちたという。だからこの城に関する文書は、信長に謁見したフロイスの覚え書き、『信長記』などわずかなものに限られる。
 10年ほど前から、この幻の安土城の城跡を発掘する、大掛かりなプロジェクトが進められている。プロジェクトは麓から始まり、既に天守があった山頂部にまで到達している。その間、従来の見解を覆すような発見が相次いでいる。
 この城は山頂に天守閣、本丸を据え、その周囲に信長配下の武将たちの館と砦が連なる、構えとしては山城のそれをかなり踏襲しているものだ。しかしごく近傍に街道を抱え、城下町が発展していること、また城の外郭が平地に接していたことなどから、平城へと移行する直前の段階を表すものだといわれていた。しかし安土城は、どうやら軍事目的に作られた城では無いようなのだ。
 まず大手門を抜けると、通常の城構えではすぐに隔壁に突き当たり、大きく折れ曲がって、かついくつもの内門に遮られながらようやく本丸に到達する。ところが、安土城では幅広い大手路がまっすぐに上り、本丸にほとんど直結している。これでは防備の役に立たない。
 この謎は、やはり謎めいた本丸の構造を解明することで、やはり解き明かされた。本丸は、通常の武家屋敷と異なり、柱の間隔が長い公家屋敷の構造を持っていたのだ。しかも、天皇の住まいである清涼殿のそれと酷似していた。このことから、信長は本丸へと天皇を迎えるために、わざわざ大手路をまっすぐに引いたのだと推測される。
 天守閣も奇妙な構造をしていた。最近、東京の出版社の資料室から、どこの城のものとも思われない天守閣の図面が発見された。その図面を安土城の天守閣遺構と比較してみると、良く近似している。このことから、この図面は、完成間際の安土城天守閣を採寸したものであると考えられている。
 この図面を見ると、天守閣と本丸の間に、渡り廊下が設けられている。こういう奇妙な構造の城は、他に例がない。これも安土城の遺構と良く一致している。恐らく、天皇を本丸に据え、自らは天守閣で政務を執りながら、必要に応じて往来しようという腹積もりだったと推測される。信長は天皇家を自らの権力構造の中に取り込むつもりだったのだ。
 天守閣の遺構から発掘された、もっとも奇妙なものは、その中心に据えられていたと考えられる穴だろう。先の図面との比較から、これは仏舎利等を納める仏塔の跡だと考えられた。城の中心にこんなものがあるなど、前代未聞ではないか。
 また天守閣はこの仏塔を含む大きな吹き抜けを持つ下層部と、その上に載った上層部とに分けられる。下層部には信長が生活し、政務を執っていたと考えられている。通常、天守閣はせいぜい評定の場、つまり会議室として用いられる程度で、平時には人が住むものではない。最初に天守閣を作った信長自身は、これを生活の場としても使用するつもりだったわけだ。このことから、信長は安土城を軍事目的ではなく、自らが天下布武を進める中心の政庁として使用することを目論んでいたのだと推定できる。
 天守閣の上層部は、なんとも奇天烈な形をしている。まず第6層は全体として8角形をしており、さらに最上層の第7層は正方形で、それらの外観も内観もきらびやかな金箔が張り巡らされていた。この上層部の内部には、当時の名高い絵師たちの仏教、儒教に題を取った絵画が並べられていたという。ここは信長が未来の構想を練ったり、客を招いたりする場所だったのではないだろうか。
 さて、この天守閣のモチーフはどこから得られたのだろう。大きな吹き抜けを持ち、絢爛豪華な装いを施されているという点から、西洋の宗教建築に題を得たのではないかと推測される。
 この天守閣に与えられた宗教的芳香、天皇を間近に置こうという本丸の構えなどから、これらは宗教に縁遠く、天皇に代表される既存の権力に冷淡だったという信長観を変えるものだ、と、番組ではされていた。
 それはどうだろう。従来、信長がかなり宗教的な「第六天魔王」だの「成ろうが三定」などといった言葉を口にしていた形跡が指摘されていた。今回の発見も、その範疇を出るものではないのではないだろうか。天皇家に対する件を含めて、とどのつまりマキャベリスト信長は、ある時は反抗的な宗教を徹底的に弾圧し、ある時は無意味な権威を拒否し、逆にあるときは利用しがいのある宗教や権威を取り込むという風に、その時その時で利用できるものを利用していたに過ぎないのではないだろうか。
 どうも信長は時代の革命児だといわれ過ぎていて気持ち悪い。確かに時代の先を行った面もあるが、例えば楽市が六角氏の施政下で既に行われていたという説もあるように、必ずしも信長が全てを発明したわけではないようなのだ。そもそも、一人の人間がこれほど多くの面で創造的に振る舞えるとは考えられない。恐らく、軍事、政治、それぞれの面で有力なブレーンがあったのではないだろうか。また彼に先取の目があったにしても、それはアレンジャーとして有能だったという評価にしか繋がらないのではないだろうか。
 この先、人間信長の姿が解明されていけば、隠されたブレーンが発掘されるなどして、これまた評価が変わって行くかもしれない。これも歴史の面白いところだ。
 しかしこの番組、何度も放映を延期されてきたのだが、もしかして途中で登場した、なんとも都合よく発掘された天守閣の資料に、一抹の不安があったからなのだろうか。例の"神の手"事件の余波なら、ちょっとばかり笑える話だ。
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2001年1月14日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:16:00
 今夜のNHKスペシャルは「犯罪交渉人 命を巡る攻防」。ネゴシエータという職種は、アメリカで'71年に発生した刑務所での大規模暴動で、多数の死傷者が出た苦い経験から生まれたものなのだそうだ。ちょっと驚いたのだが、日本では犯罪者の説得に警察がその家族を連れてきたりするのだが、それは禁止事項となっていたりする。日本とアメリカとでは、ネゴシエータが生まれた背景も、その役割も違うようだ。
 番組では、ある事件を題材に、ネゴシエータと犯罪者の交渉の経緯を追った。ネゴシエータは、まず犯人側との関係を構築することに力を注ぐ。例えば食料の供給と引き換えに人質解放があったなら、それは資源を交換し合う関係になる。そのようにして、犯人に自分が味方だと思わせるのが第一歩なのだそうだ。その為には、警察側の上位の指揮者でない方が良い。なにか犯人側の要求を飲めない場合でも、上司が許可しないからといった風に上司の責任にすれば、犯人がネゴシエータに怒りを向けることを避けられる。このようにして、次第に犯人に取り入ってゆくわけだ。
 この事件は、宝石店に押し入った強盗団が、警察側のすばやい手配に逃げられず、立てこもったというのが端緒だった。犯人側のリーダーは正確な氏名も判明せず、警察側では専門家の意見を聞きながら犯人像を推定するしかなかった。犯人は交渉の途上で怒りを見せたりしたが、警察側は犯人が高い教育を受け、こうした一見感情的な行動も演技かもしれないと考えた。こうして難しい交渉が続いた。突破口になったのは、食料の差し入れと交換に人質解放を求める交渉の中での、犯人の発言だった。交渉は何度ももつれかかったが、犯人がベトナム帰りであることなどのプロファイルの一端、そして比較的法律に知識があり、前科があるために刑務所で残りの一生を過ごさなければならないことを恐れている、などのことが分かったのだ。ネゴシエータを担当した女性は、ここで賭けに出た。犯人にこの事件でも最大7年の刑にしかならないと信じ込ませようとしたのだ。さらに犯人側の要求に応え弁護士を召喚したが、その弁護士にも口裏を合わせるように要請したのだ。
 2時間に渡って弁護士と話した犯人は、最終的に投降することに決めた。だが一番痛かったのは、犯人が最後にネゴシエータに向かっていった言葉だ。彼は「あんたの言うことが本当だったら、俺はまた人を信じられるようになるかもしれないのに」といったのだ。彼はネゴシエータが最終的に嘘をついている可能性が高いことを知りつつ、それでもわずかな善意の可能性を求めてその要請に応じたのだ。ベトナム帰り、前科者と、世間が冷たく当たる条件が揃っているこの犯人も、心のどこかで自分を受け容れてくれる世界を求めていたのだろう。重犯罪者に対して単純に重罪を課せという意見は多いのだが、本当の意味で犯罪防止に役立つかどうかは一筋縄ではいかないということを思い出させた。
 ネゴシエータは当の人質には感謝されない職種だという。番組中、元祖ネゴシエータとでも言うべき男性がいっていたが、多数の事件を穏当に解決したにも関わらず、感謝の言葉をかけてくれたのは一人だけだったという。あまり報われることの無いネゴシエータたちは、しかし今日もアメリカのどこかで活躍しているだろう。
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2001年1月07日(日曜日)

NHKスペシャル「三蔵法師祈りの旅」

テレビ 23:55:00
 今夜のNHKスペシャルは、昨夜放映された「三蔵法師祈りの旅」の後半だった。
 画家平山郁夫氏は、20年がかりで大作壁画を完成させ、奈良薬師寺に寄贈した。7部の絵で構成された壁画は、玄奘三蔵によるインド往還をテーマにした連作壁画だった。
 平山は、玄奘三蔵を幾度か描いている。平山は、少年の頃に広島で被爆している。自身は原爆炸裂の瞬間に物陰にあった偶然から生き残ることが出来た。が、その直後の凄惨な被爆地を目にし、その情景が頭から離れなくなった。何故、戦争との関連の薄かった一般市民が、このような惨い目に遭わねばならないのか。そして何故、これほどの惨禍にあってまで、人は生きなければならないのか。平山は悩みつづけた。
 やがて平山の脳裏に浮かび上がったのは、苦難に満ちた旅を続ける一人の若い僧侶の姿だったという。玄奘三蔵。唐代に単身東方に旅し、仏教の中心地だったインドから膨大な経典を手に入れた僧侶だった。
 唐初、隋の滅亡に続く戦乱が人々を痛めつけた。玄奘は苦難に喘ぐ人々の生きる拠り所を求める声に答えるべく、無謀とも言えるインド往還を志したのだ。当時、中国における仏教は内部抗争に明け暮れ、その地盤が揺らいでいた。その確かな拠り所を得るには、仏教の中心地と考えられていたインドで、本場の仏典を学ばねばならないと考えたのだ。
 当時、唐からの出国は禁じられており、玄奘の行動は国禁に背くものだった。しかしあえてその禁を犯した。
 玄奘は長安を発ち、やがてタクラマカン砂漠に入り、唐の西境を出た。そして多くの異民族の間を抜けながら、崑崙山脈へとひた歩いた。唐とインドの間には、ヒマラヤの大山塊があり、容易には超えられない。そこでまずは西アジアを経由する必要があった。当時、西域には様々な宗教が混交していた。イスラム教はまだ登場してなかっただろうが、ゾロアスター教などの古教が健在だったはずだ。玄奘はそれらに触れながら、多様な認識を獲得し、人間的に強靭になっていったのではないか、と番組では述べていた。
 平山は、あるときは砂漠で路頭に迷い、あるときは異民族に取り囲まれながら、なおもインドへの旅を諦めなかった玄奘の姿を、彼自身の生きる縁にした。平山の初期の作に、歩く玄奘の姿を描いたものがあるのだ。
 玄奘はやがてインドに到着した。しかしそこで彼が目にしたのは、インドでの仏教衰退の現実だった。インドに行けば本当の仏教を目にすることが出来る。その期待は裏切られた。極楽浄土がそこにあると考えるほどには無知ではなかったろうが、玄奘はインドの現実に無知ではあったかもしれない。彼はヒンドゥー教に飲み込まれる寸前の、インド仏教最後の時期にやってきてしまったのだ。存続していた仏教大学でその精髄を学んだものの、気は晴れない。やがて6年をかけて仏典を学び終えた彼は、インドを一周する旅に出る。すぐに唐に戻る気になれなかったのだろう。一体、インドにおいても衰退期に入った仏教を持ち帰る意味があるのか。そう自問したに違いない。
 彼はその旅において、様々な神々に祈りを捧げる人々の姿を目にした。祈ること。これこそが信仰の中心であり、そして祈る縁を与えるものが彼の持ち帰る仏典なのである。あるいは玄奘は、そう考えたのかもしれない。そして結局のところ、玄奘は唐への帰還を果たすのである。
 番組として、平山の体験と玄奘の旅とが交互に語られたので、やや分かり難い部分があった。特に玄奘がインドの旅で見出した希望の正体が、いまいち分かり難いのである。これは仏教そのものが、現代社会において混迷しているという事情と、恐らく不可分ではあるまい。
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2000年12月10日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:02:00
 今夜のNHKスペシャルは「ハイテクが支える私の人生」。アメリカにおける障害者向け補助器具開発の現状をレポートする。
 アメリカでは'90年代初頭、ブッシュ政権時代に障害者の雇用と設備の整備を義務付ける画期的な法律が施行された。画期的なというのは、この法律が経費負担にしり込みする官庁、企業の認識を覆す狙いを持っていたからだ。つまり、障害者が社会に参加する結果生まれる富は、その参加に必要となる費用をやがて上回るだろうという主張が込められていたからだ。
 この法律が重く見られた背景には、アメリカ社会における障害者の多さがある。アメリカは世界の警察官として数多くの紛争に介入してきた歴史がある。その結果、WW2を始めとする多数の負傷兵が生じ、多くの障害者を抱えることになったわけだ。
 アメリカにおける障害者人口は4000万人にも達する。これが比率的に特異に多いのかどうかは分からないが、人口の1/6強という数は相当のものだ。この人たちに社会への参加機会を与えれば、それだけ社会の富が生み出され、やがてその負担に見合ったものになるというわけだ。さらにいえば、障害者向け機材は、高齢者のためにもそのまま流用できる。このまま行けば、日本など他の先進国向けの市場が望めるから、障害者市場への投資がアメリカの貿易を支える日が来るかも知れないと思った。日本人はASIMOの発達に賭けるしかないかなあ。
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2000年12月02日(土曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:55:00
 年末ゆえか、今週のNHKスペシャルは渋い。「天地の恵みを生きる。日本画家 小倉遊亀」。今年105歳で亡くなった日本画家の最晩年を追ったもの。
 この人は遅咲きの花と呼ばれ、50代になってその才能を飛躍的に開花させたのだという。保守的な日本画界に斬新なテーマを持ち込み、評価されてきたという。
 この人は、100歳のときに病を得、床に伏せることになった。しかしそれから2年程で再び絵筆を取れるようになり、100歳を越えてなお現役でありつづけた。この番組ではその病床からの復活と、老いをあるがままに迎え入れた一人の女性の等身大の姿を追ったものになっている。
 この人は、山岡鉄舟門下の禅客、小倉鉄樹と結婚し、その教えを受けている。そういう禅味ある余韻を感じさせる最晩年だったようだ。やあ、面白かった。
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2000年11月26日(日曜日)

世紀を越えて

テレビ 22:44:00
 今夜のNHKスペシャルは世紀を越えて、シリーズ「未来世代」。あれ、(プログラムによれば)このシリーズは今回でお仕舞い。2回限りの小シリーズだったようだ。
 今回はベンチャー企業の聖地、シリコンバレーに集まる起業者たちの話題。
 1980年代、シリコンバレーは日本の安い半導体に押され、不況にあえいでいた。シリコンバレーが生み出した新技術、半導体は、しかし日本を始めとする後続グループが急速に製品化し、あっという間にシリコンバレーのお株を奪ってしまったのだ。
 しかし今はどうか。半導体産業のチャンピオンは相変わらずシリコンバレーであり、後続グループ、特に日本は大きく水をあけられてしまっている。この逆転劇の主役となったのが、シリコンバレーを舞台に熾烈な競争を繰り広げている、ベンチャー企業群だったのだ。
 シリコンバレーの歴史は、スタンフォード大学から始まった。'30年代、この大学の1教授が卒業生が近辺に定着できるように、大学周辺で起業するように卒業生に働きかけるようになった。それに促されて二人の卒業生が起業したのがHewlett-Packard社だった。そしてHP社を皮切りに、数多くのベンチャー企業が興っては消えていった。
 シリコンバレーの特徴は、そこに居を構える企業群の生存競争が激しく、その結果新陳代謝が激しいことだ。6000ある企業のうち1000ほども1年のうちに消えてゆくということだ。このような激しい入れ替わりの原因は、シリコンバレーにおいては起業が非常に簡単で、かつまた失敗しても起業者自身は失うものが少ないというシステムにある。
 シリコンバレーでは、起業者と資本家とが明確に分かれている。その結果、起業者は資本に関するリスクを背負うことなく高い目標に挑むことが出来る。一方、資本家はその失敗を全て背負うことになるので、資本提供を望む起業者を厳しく選別する目が必要になる。その結果、起業者は失敗しても挑戦を続けることが出来、また事業に見切りをつける判断も速く下せるようになるのだろう。
 こうしたシステムがシリコンバレーにおける激しい新陳代謝となって現れ、失われていた優位を'90年代に入って取り戻す原動力になったわけだ。
 こうしてみると、拙速は巧遅に勝るというのがビジネスの世界での黄金律のようだ。どこまでも走りつづけなければ生きていけないのだな。僕には起業なんて無理だということが良く分かった(笑)。
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2000年11月19日(日曜日)

NHKスペシャル「世紀を越えて」

テレビ 23:25:00
 今夜のNHKスペシャルは後半に入った世紀を越えて新シリーズ。教育に的を絞ったシリーズだ。今夜はアメリカで広がる新しい学校の形態、チャータースクールに関するレポートだ。
 9年前、アメリカで画期的な法律が制定された。誰でも政府機関の許可を得られれば、"公立学校"を設立できるというものだ。こうして設立される学校をチャータースクールという。チャータースクールは設立されると生徒数に応じた多額の助成金を得られる。それが基本的な運営費になるのだ。それが学費収入を主体に成り立つ私学との違いなのだろう。従って、ふつうの公立学校と同じく生徒の負担は軽い。そのような有利さと引き換えに、教育委員会からの厳しい監査が入る。この監査で学校として不適当とされれば、設立許可を取り消されてしまうのだ。
 チャータースクールの設立の原動力となったのは、アメリカでは'70年代から顕著になり始めた教育の危機に立ち上がった、父母たちの努力だった。自分の子供が画一的な学校教育に馴染めず、あるいは登校拒否に陥ってゆく。そういう現状を自ら解決しようと、自分たちの手での教育を目指す運動が起こった。それが'90年代に入って結実したのがチャータースクールだったのだ。共和党政権下で誕生したチャータースクールは、クリントン政権下で急速に普及した。既に全米の公立学校の数パーセントを占めるまでに至っている。チャータースクールは通常の公立学校と異なりカリキュラムを政府に縛られないのが特徴だ。ある学校ではアートを積極的に取り入れている。また別の学校では時間割を完全に無くしてしまった。逆に日本の有名私学を思わせるハードスケジュールを組んだ学校もある。その代わり、その結果に対して厳しい責任を負わねばならない。いわば教育の網の目を被せることを主任務とする通常の公立学校は、最低限の規格を守ればその廃止を問われることがない。しかしチャータースクールでは、その自主的に企画された教育が不十分であると裁定されれば、即廃止の運命にある。事実、そのようにして消えていった学校も少なくないという。このようにして父母に私学、通常の公立学校、そしてチャータースクール(さらに在宅学習という選択肢もあるらしいのだが)という多用な選択肢を与え、その義務である子供の教育を活性化させようというのがチャータースクールの狙いだ。増えつづけるチャータースクールは他の公立学校に対策を迫っている。その結果、様々な試みがさらに広がってゆく情勢にあるという。
 日本でもチャータースクールを作りたいという声が高まっている。その一つの試みが藤沢市で続いているようだ。自由度の低い公立学校の枠内での改革に限界を感じた教師たち、既存の学校に不満を抱く親たちが集まり、チャータースクール設立に向けた話し合いや運動を続けている。その中心になっている教師は、かつて公立学校での改革に参加し、担任制を廃したグループ指導制による学級崩壊を救ったものの、「担任を廃止するなんてとんでもない」といった匿名の(というのが卑劣だが)電話などにより、翌年には元の担任制に戻さざるを得なかったという経験をもっている。匿名の、いわば無責任な声により新しい試みが潰されたのは残念だ。その反面、この事件は担任制という旧来の手法に対して、例え無根拠ではあっても信頼感があり、またそれを変えることに対する感情的な反発があるということを示している。これはむしろ、公教育というものが保守的な立場に立たざるを得ないという、越えられない限界の存在を示しているのだと思う。だから、その「外」で新しい教育を追及しようという姿勢は正解だろう。しかしまだまだ文部省などの反応は鈍い。政治家の関心を呼び始めているものの、立法への道はまだ遠いという感じだ。
 チャータースクールの成立には異存はないものの、少し気がかりなことがある。僕は学校には訓練の場、特に動物的な本能に反して成立している現代社会への適応の場としての意味があると思うのだ。卑近な例を引けば、時間割という奴は、統一された時系列に沿って調整されている実社会への適応訓練という意味が大きいのではないだろうか。人間に、生まれつき時間に合わせて生きてゆくという本能があるわけではない。あのくだらな~い「前へ倣え」だの組み体操だのにも、いわばある型に人を嵌めてしまうという意味付けが大きかったはずだ。その型を取り払って、果たしてこのクロノポリスを生き延びる人間が形成できるだろうか。アメリカでチャータースクールの試みが始まってまだ9年。それが社会にどんな影響を与えてゆくのか、まだ確かではない。チャータースクール制の導入は、その影響を見極めてからでも遅くはないのではないだろうか。などと結局文部省のお役人と似たようなことをいってしまったりして。
 しかし、今我が子を抱えている親たちには切実な問題だろうと思う。彼らにとっては、今まさに問題の真っ只中にいるわけなのだから。そんな、いわば現実にドロップアウトしてしまった子供を抱える親たちのために、限定的にでもチャータースクールの試みを始めることは、意味があるのではないだろうかと思った。
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2000年11月12日(日曜日)

恐怖と対決すること

テレビ 23:03:00
 鍋を作りながら(といっても鋳造したり鍛造したり溶接したりしていたわけではない)NHKスペシャルを見た。昨夜から続けての教育問題、というか子供はどうなっとるのだ問題だ。
 なにせ鍋を作りながらだったのでよく見ていられず、印象を語ることしかできないのだが、主に引きこもりに関してのレポートだったと思う。番組では引きこもってしまった子供(といっても20代の大人が多いそうだ)と苦闘する家族の姿を追い、公的な支援がなかなか得られない現状を訴えていた。引きこもりに限らず心に病を抱える人口はますます増大しているわけだから、公的なカウンセラーの増員は必須だろうなと思った。
 それにしても、なぜ引きこもってしまうのだろうか。きっかけはいろいろあるのだろう。僕もなんとなく外に出たくない時期が続くことがある。しかしいざ引きこもってしまった人々がその状態をさらに続けざるを得ない理由は、なんとなくわかる気がする。簡潔にいえば、外が怖いのではないだろうか。外に出れば何が起こるかはわからない。どんな不条理な理由で傷つけられるかわからない。いや、たとえ道理に合っていても傷つけられるのに耐えられないことさえあるだろう。しかし家にいればとりあえずこれ以上傷つくことは無い。だから今の状態、引きこもっている状態を続けざるを得なくなるとまずは考えられる。
 しかしテレビでは、引きこもっている人の口から、引きこもっていることでさらに傷ついていく心境も語られていた。引きこもっていても苦痛に感じるのは同じなのではないだろうか。つまり「傷つくから」は引きこもりつづける第1理由にはならない。だから「怖いのでは」と考えるのだ。傷つけられるというのは、怖い理由の一つに過ぎないのだろう。
 どうして怖いのか。それは「わからない」からではないだろうか。引きこもりにより、引きこもった個人は外部とのチャンネルを絶ってしまう。すると当然情報が途絶するわけで、引きこもり者は外で何が起こっているのかを知ることができなくなる。いや正確には「外があるということが分からなくなる」のかもしれない。するとすべての判断が自分の内部情報だけに基づくことになり、未来予測がネガティブに傾きがちになり、さらには支離滅裂になる。その結果、「外」に対して闇雲な恐怖を抱くことになるのではないか、と。
 でも外界の未知さというものは、いつでも人間を取り巻いてきたはずだ。それなのに、なぜ今になって引きこもりが増えたのだろうか。
 理由の一つは、かつては引きこもるという行動に対する社会的な制約が強く、家から強制的に排除されることが多かったからだろう。しかしそれ以上の理由として、外への好奇心が失われているからというのもあるのではないだろうか。恐怖の最大の理由は未知であることだ。もしも対象が既知のものならば、それに対する対策も講じようがある。恐怖を克服する手段はある。しかし対象が未知ならば講じようが無い。恐怖は恐怖のままとなる。誰でも、いつでも、未知なものに対して恐怖を抱くのはごく自然な感情だと思う。しかしそれを克服するための知的な好奇心を持てるのが、人間の最大の特徴なのではないだろうか。かつてはそれが人を引きこもりから救う鍵になっていた。それが教育の失敗なのか悪霊のせいか分からないが、我々の生活の中から徐々に失われてきてしまっているように感じるのだ。そういう感覚を共有している人は多いように思う。
 一時期「何故殺してはいけないか」という子供からの質問を想定したような問いに、どのように答えるかが(大人の間だけで)話題になったことがある。あたかも子供が疑問を発しているように見えるが、実際にそれが問われている状況、そして回答が考えられている状況を考えれば、大人が自問自答しているだけなのは自明のことだと思う。そして答えはある程度問いそのものが内包していると思う。なぜならば、単に「殺してはいけないか」という問いに対してだけならば、「本当は殺していい」という合意が社会の広い範囲で共有されているからだ。それは死刑制度の存続、戦争に対する反応、そして以前の玄倉川の痛ましい事故で見られたような「死んで当然だ」という反応を見るだけで充分だ。これらの問題に対する社会の反応は、命より優先すべきものがあるという認識が、かなり広範囲に共有されていることを示している。つまり、場合によっては「殺していい」のだ。
 しかし「何故~」となると少し趣が変わってくるかもしれないと思う。「何故~」と問うからには、「殺したい」というより積極的な意思が存在するはずだ。何故ならば、「殺したい」という意思を止める理由を欲しているという構造が存在するわけなのだから。そしてその裏返しは、「何故殺さなければならないか」ではないだろうか。つまり、「殺したい」という衝動の理由を問う自問自答がその正体なのではないだろうか。
 どうして「殺したい」、それも自分でも分からない理由で「殺したい」などと思うのだろうか。これを僕は「怖いからだ」と思うのだ。「怖い」のは理解できないからではないだろうか。例えば少年が浮浪者を襲うということがあるが、彼らは浮浪者が「怖い」から襲うのではないかと思っている。身体に危害が加えられるなどと考えているわけではないだろうが、なぜあんな無為な状態でなおも生きているのかが理解できず、その存在そのものが怖いのではないだろうか。そう考えないと、単に反撃可能性が低いからというだけでは、いくつかの残虐な事件の謎は解けないと思う。大人にも同じ傾向が存在するように思える。
 知的好奇心の喪失という謎を解くには、情報の氾濫を想起すれば充分かもしれないと思う。僕たち(なかんずく僕のような知識人まがい)は、周囲に溢れる出来合いの知識を受け容れるだけで精一杯だ。それ以上の、本当の意味での未知に挑む気力はそんなに無い。あるいは教育カリキュラム、教師の資質双方の問題が、現代の日本人から知的好奇心を喪失させたのかもしれない。なにより、恐怖に立ち向かう意思を、僕たちは失ってしまっているのではないか。これをどう立て直せばいいのか。どうにも答えの出せないでいる。
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2000年11月11日(土曜日)

国宝探訪

テレビ 23:55:00
 今日は鍋にしようと思い、材料を捌いていたら10時を過ぎてしまっていた。さっさと作り、鍋を平らげながら国宝探訪を見た。
 今夜は室生寺の五重塔。以前、NHKスペシャルで取り上げられたのをみたことがある。(7/29の日記)
 この寺の五重塔は、屋外にあるものとしては日本最小なのだそうだ。'98年夏、この塔を台風が襲った。1200年間耐えてきた塔を、強風にへし折られた大木が直撃したのだ。早速、五重塔の再建が進められた。この五重塔に関しては以前書いたから繰り返さない。
 室生寺には他にもいくつもの国宝がある。優美な姿を見せる金堂と、そしてそこに守られた仏像群だ。釈迦如来像を中心とした5体(この場合はやっぱり"柱"ではないだろうな)の仏像と、それを護持する十二神将像が安置されている。この仏像に魅せられた写真家は、これらの仏像群には不自然な点があると指摘する。まず仏像の大きさがまちまちである点。そして様式に不一致がある点だ。大きさの違いは措くとして、様式の不一致とはなんだろう。実は室生寺の仏像群は、ここにしかない特有の様式を持っている。たゆとう細波のように優美な曲線で構成された着衣。連波式衣紋というらしい。また光背を彫刻ではなく、杉の一枚板に彩色を施すという形で表現しているのも特徴らしい。これらを室生様式と呼ぶ。このうち、光背の彩色を比較してみると、結局5体のうち3体だけが当初からあったものと推測されるそうだ。
 しかしなおも不自然な点が残る。この3体のうち、地蔵菩薩の光背と本体の大きさが一致しない。通常、仏像の頭部は光背の中心に位置するのだが、それより小さいのである。写真家は、室生川の下流域にある別の寺に安置されている別の地蔵菩薩が怪しいという。それは室生寺の他に例が無い室生様式で作られ、さらに大きさも室生寺の光背と一致する。つまり、本来はこの地蔵菩薩像が、室生寺の3体のうちの一つだったのだ。
 この地蔵菩薩像がなんだって別の寺にあるのか謎だが、そんな大切なものがひょいひょい移動したりするのが不思議といえば不思議だ。
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2000年11月05日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:46:00
 今夜のNHKスペシャルは大量に輸入され、大量に捨てられてゆくペットの話題だった。
 最初に大量に輸入している当事者であるペット業者が「ペットは去勢して1代限りとして飼うのがベスト」(なので全部去勢している)といってはいたが、小さな昆虫類や小動物まで本当に去勢できているのだろうか。掌に載るくらい小さな生き物にとっては、去勢/不妊手術自体が危険なものになると思うのだが。
 ペットを実際に捨てた人の声を聞けなかったので本当のところは分からないが、問題の根底にはブラックバスなどの密放流と同じく、人間の対自然観に潜むエゴイスティックな所有感が横たわっているのではないだろうか。つまり自分の楽しみのために既存の生態系を壊してバスを放流してもいい(あるいはするべきだ)という認識と、目の前の生き物の生殺与奪の権利を持ちかつ個人的な罪悪感を逃れるためにその生き物を外に放ってもいい(放つべきだ)という認識とは、同じように既存の生態系が自分の所有物であるという認識がない限り生まれてこないはずではないだろうか。どっちが生態系にダメージを与え、どっちがより個人的かという差はあるかもしれないが、この二つの立場は基本的に同じくらいエゴイスティックに思える。そもそも、ペットを飼うということ自身、相当にエゴイスティックな行為だとも思うのではあるけれど。
 こう考えてみると、ポストペットだのAIBOだのは、案外にペット問題の解決に役立つアイテムになるのかもしれない。
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2000年11月04日(土曜日)

小さき人々

テレビ 23:41:00
 今夜のNHKスペシャルは久しぶりにガツンとやられた気がする。ロシアの女流作家、スベトラーナ・アレクシェービッチが混迷にあえぐ祖国の様々な人々について語る。
 アレクシェービッチ女史は、ゴルバチョフ政権下の'85年に、WW2時独ソ戦に動員された女性兵士の苦渋を描いた「戦争は女の顔をしていない」で一躍脚光を浴びた気鋭のノンフィクション作家だ。それ以来、アフガニスタン戦争、チェルノブイリなど、ロシアを中心としたスラブ諸国を襲う災厄に関して書きつづけてきた。
 近年、ロシアは2度にわたる崩壊を体験してきた。一つは'91年のソ連邦解体に連なる共産主義社会の崩壊、そしてもう一つはその後に豊かな富を生み出すはずだった資本主義社会の失敗だ。今、ロシアは一部の成功者を除いて、経済的などん底にあえいでいる。日本のそれなど比較にならないほどの破綻だ。人々はかつて信じていたモノたちがあっけなく崩れ去るさまを目の当たりにし、誇りを傷つけられている。
 日本でもそうだが、ロシアでは毎日のように自殺者が電車を止めてしまう。最近、一人の老人がやはり電車の前に身を投げた。彼は独ソ戦緒戦において絶望的状況の中で陥落したブレスト要塞の生き残りの一人、ソ連邦英雄とされた元兵士だった。ブレスト要塞の陥落は、それを予期していなかったスターリンの名誉を傷つけるものとされた。捕虜となった人々はシベリアへと送られ、その存在そのものが抹殺された。ところがフルシチョフ政権が登場するとスターリン批判の格好の題材として取り上げられ、彼らブレスト要塞の生存者たちは逆にソ連邦英雄へと祭り上げられた。この老人はそれに奢ることなく、模範的労働者としてその後の人生を歩んできた。「ソビエト連邦」、「社会主義社会」という枠内での栄誉に、十分に満足していたのだ。ところがそれらの栄誉も、ブレスト要塞での悲劇の後に得た勲章も、ソ連邦の破滅ですべて無に帰してしまった。名誉を得るだけで満足し、決して財産は望まなかったのに、その名誉さえ奪われてしまったのだ。既に老境にあった彼は生きる意味を見失ったのか、ついに自死へと至った。彼の妻は、彼が「休暇に出かける」という書置きだけを残して出て行ったと証言する。彼女はそれを額面どおり受け取ったようで、さして不審に思わず農作業を続けたという。生活は楽ではない、というか苦しい。そのような想像力を働かせる余裕が無かったものと思われる。彼女は「あなたは死んでしまったけど私は生きつづける。あなたより強いのだから」と涙ながらに老英雄をなじるのだ。この言葉は痛ましくはあるけれど、同時になにか救われるような強さを感じさせてくれる。しかしアレクシェービッチはいう。「彼がブレストの罪を負わされたとき、彼は彼女だけのものだった。しかし彼が英雄とされたとき、国家が彼を奪っていった」と。この過酷で醒めた短評は、アレクシェービッチが単なる民衆の代弁者でないことを物語っているように思える。彼女は「権力者は人間の生の声を一番恐れる」からこの仕事を続けているのだと語る。権力者による隠然たる暴力を暴き立てる。そこに彼女の関心があるようだ。
 巨大な権力機構であるソ連崩壊のきっかけになったとさえいえるのが、悪夢のようなチェルノブイリ原発事故だった。アレクシェービッチの故郷は、ソ連邦崩壊により誕生した小国ベラルーシにある。ベラルーシはチェルノブイリ原発が存在するウクライナと国境を接している。そのため、事故が発生したときには莫大な量の放射性物質が降り注いだのだ。その影響は計り知れない。今に至るも多数の人々が汚染地帯での生活を余儀なくされている。
 事故が発生した当初、多くの人は単なる火事だと考えたそうだ。当の技術者たちが原子炉の崩壊という現実を認めたのは、空からの観測や外部の専門家による指摘を受けてからのことだったのだ。そのため、ろくな装備もないまま、あまりにも多くの人が致死量の放射線を浴びてしまった。
 原発のすぐ近くに住んでいた消防士も、事故発生とともに駆けつけ、莫大な量の放射線を浴びてしまった一人だ。その結果、彼自身が高レベルの放射性を持つことになってしまった。看護婦さえも近寄ることを拒んだという。彼は新婚ほやほやで、家では妻が帰りを待っていた。しかし「すぐ戻る」と告げて事故現場に駆けつけた夫が、いつまで経っても帰ってこない。やがて夫は入院しているという情報が飛び込んできた。しかも彼はモスクワの病院に移送されるという。地方の病院では手のうちようが無いほどの事態が、彼の身に起こっていたのだ。
 発電所所属の消防隊が現場に到着したのは、事故発生からわずか5分後のことだったという。この迅速な活動開始は任務を考えれば当然のことではあるが、その結果として十分な情報もなく、闇雲に危険に立ち向かわざるを得なかった。チェルノブイリでの初期の死者は、原発技術者を除けば消防隊に集中している。記録によれば急性放射線障害で倒れた消防士は17人、そのうち6人がモスクワの病院で、手厚い介護の甲斐なく死に至った。彼もその死者のうちに含まれている。莫大な放射線を浴びたとき、彼は現代医療でも手の届かない彼岸に去ってしまっていたのだ。彼はもはや生かされる死人となっていた。
 絶望的な状況にもかかわらず、医療テクノロジーの力、そしてなによりも妻の献身により、彼はその後の数カ月を生き延びた。最後は組織の壊死が全身に広がり、関節が外れてしまうほどの状態になったという。考えるだけでも気が滅入りそうだ。しかし妻の献身は、彼にとって救いになったと考えたい。彼の最後の時間は無駄ではなかったのだと。
 だが彼の死を看取った妻には、チェルノブイリはなおも災厄をもたらした。事故当時身ごもっていたのだが、夫の死後に出産した子供は生まれつき内臓障害を持っており、出産からわずか数時間で世を去った。その後、彼女は別の男性との間に一子を設けたが、その子供も障害を負っていたという。彼女は心の中で最初の夫の面影を追い求め、その肉体は放射線障害の影におびえている。
 事故から14年経った今、チェルノブイリ一帯は住人がいないという意味での無人地帯になっている。しかしチェルノブイリの無事だった原子炉の運転は続いている。これもようやく廃止されることになったようだが。
 チェルノブイリ事故での被災者は3群に分けられる。一つは先の勇敢な消防士、原子炉の技術者など直接被爆したグループ。次にチェルノブイリ原発近辺の清掃、修繕や、事故を起こした4号炉を"埋葬"するための"石棺"作りに携わった労働者、軍人、技術者たち。そして最後に事故による汚染域内にいたため被爆した人々だ。最初の群、次の群も問題だが、今最大の問題となっているのが第3群、汚染地域に住んでいる人々だ。公式には、健康に問題が発生するほど汚染された地域からは住民が退去させられ、別の地域で生活しているとされている。しかし実際には避難範囲である半径30km圏内の外でも汚染はひどく、さらには"無人地帯"にも多くの住人が舞い戻っているという。舞い戻らざるを得なかったのだ。移住先では十分な支援も職もなく、生きてゆくためには汚染されている故地に戻らざるを得なかったのだ。そうした地域では、主に食料からの経口による被爆が続いている。
 そうした食料による汚染を局限しようと、医学アカデミーを辞してまでも被爆量の測定、住民の指導を続けている医師がいる。彼は簡単に被爆量を計測できる機械を製作し、放射線の影響を受けやすい子供たちの調査を続けている。彼には気がかりな子供がいた。その子供は計測の度に異常に高い被爆量を示すのだ。家庭に問題があるとにらんだ彼は、その実際を調査した。すると貧しい小作農である両親は、子供たちの栄養源として牛乳を与えていることがわかった。牛乳は牛のえさ、牛、そして牛乳という方向に濃縮が進む結果、放射能汚染度が高くなってしまう食品だ。当然、医師は牛乳を与えることをやめるよう両親に告げた。しかしそれは無理だと両親は言う。経済的に貧しい彼らにとって、牛乳は他に代替しようのない重要な栄養源なのだ。生きてゆくために、たとえ将来に影響が残るとしても、牛乳を与えることをやめるわけにはいかないのだ。「どうしようもない」と彼らは言う。いかに危険が潜在しているとはいえ、他の道は選べないのだ。
 この状況は、一見して貧困とチェルノブイリ原発事故が重なり合った特異な状況にも見える。だが果たしてそうなのだろうか。
 この農夫の悲劇の根底は、目の前に苦難があっても避け得ないこと。そしてその苦難がいつまで続くかわからないことに端を発する。アレクシェービッチは「これは新しい状況だ」という。戦争とは違うのだと。戦争ならば、戦争が終われば人々が傷つけられることはもうない。生まれてくる子供たちも、恐らくは健常者だろう。だがチェルノブイリで災厄に見舞われた人々にとって、その傷害はいつ果てるとも知らず、将来生まれてくる子供たちにまで影響が残ってしまう。だがそのような状況ならば、僕らの身の回りにも簡単に見出せる。例えば環境ホルモン、例えば薬害エイズ、例えばPCB汚染など、思いもよらないところに顕在化し、しかもそれを避けるのが困難な状況ばかりだ。現代人は、そのような不条理で、しかも後遺症の果てしない苦難に取り囲まれているといっても過言ではないだろう。先の勇敢な消防士と、日本で起こった東海村での臨界事故の犠牲者との類似点を指摘するのは容易だ。アレクシェービッチは「チェルノブイリの惨禍は終わってない。今まさにその状況にある」という。それならば僕らもその状況下にあるといえるのではないだろうか。人間は、今やその全員がチェルノブイリ状況下に生きているのだ、と。
 それにしても、いつもより長い75分の番組は、とても数日では消化できないほど重い内容だった(冒頭の石鹸の話など)。頭を一撃されたように感じる。
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2000年10月29日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:37:00
 今夜のNHKスペシャルはボスニア紛争(ユーゴ内戦というべきか)に暗躍した米情報コンサルタント会社の話題。
 '93年、ユーゴ連邦からの離脱を宣言したボスニアに、セルビア軍が介入した。恫喝により、できればボスニアの離脱を阻止したかったのだろう。しかしボスニアの抵抗で、介入は本格的な内戦の様相を呈し、セルビアによる更なる攻撃を誘発することになった。これは独裁的な体質を持つといわれるミロシェビッチも、本心では望んでなかった事態のはずだ。しかし資源にも産業にも人口にも恵まれてないボスニアは、軍事的な圧迫に窮地に追い込まれる。
 内戦勃発から3ヵ月、事態打開のために就任したばかりのボスニアの外務大臣が渡米した。ボスニアは「世界全体から見れば取るに足らない地域」と自ら認めるだけに、国力の乏しい小国家だ。外務大臣も単独での渡航だった。彼は強大で、なおかつ正義なるものに乗せられやすいアメリカの力を利用しようとした節がある。もちろん、ニューヨークには国連本部があるので、国連での活動をも睨んだものであるのも間違いないだろう。しかし最終的には、最大の狙いはアメリカ政府を動かすことだった。
 ボスニア政府はまずボスニアがこの世のどこにあるのかをアメリカ人に知らしめなければならなかった。ボスニアでオリンピックが開かれたことをおぼえている人は多かったろうが、そのボスニアがバルカン半島に位置することを知っている人は少なかったようだ。僕も、マケドニアの位置をイタリア側にあると間違えておぼえているのに気づいた。
 こんな頼りない状況を打開するために、渡米した外相が契約を結んだのが大手情報コンサルタントだった。情報コンサルタントは世論形成に大きな力を持ち、クライアントが情報発信の過程で有利に立つようにアドバイスする立場にある企業だ。この件を担当したコンサルタントは、早速記者会見を開いて外相自らボスニアの存在と、そこで起きている事態をアピールし始めた。
 最初は"つかみ"が悪く、記者会見にも人が集まらない状況だった。しかしコンサルタントはボスニア政府が主張する非セルビア系住民への虐待行為をアピールするために、ある言葉を借用した。いまや新聞の国際面にこの字が躍らぬ日は無いとさえいえる「民族浄化」だ。元々はナチスの非アーリア系住民根絶政策で用いられた用語だ。cleansingという肯定的な響きを持つ言葉を"虐殺"に用いることは、大きなインパクトがあった。
 狙いは当たった。Esnic Cleansingはアメリカの世論に大きな衝撃を与え、アメリカによる対ユーゴスラビア経済封鎖へとつながった。この結果、ユーゴスラビア政府がアメリカ国内で同様の活動を繰り広げることが困難になり、この"情報戦争"で小国ボスニアが優位に立つ下地を作った。この劣勢はユーゴにとって最後まで堪えた。ユーゴが免れたいと思っていた国連からの追放へと事態が進行してしまったのだ。そのように広範なユーゴ非難の世論を形成したという点で、"Esnic Cleansing"という借語を見出した情報コンサルタントの手腕には、目を瞠るものがある。小国ボスニアを守るためにNATOが介入するという事態は、このようにして形成された国際世論の後押しがなければ生まれなかったはずだ。
 しかし情報戦争には負の面もある。なぜならばこれは戦争だからだ、と言ってしまえるだろう。敗者となったユーゴは「ボスニア側もセルビア人の強制収容所を作った」と主張し、それはハーグの戦争犯罪法廷でも事実とされたことだ。しかし圧倒的なセルビア=悪のイメージを前に、そうした事実はほとんど意味を持たない。ある単純な図式を認識するだけで、国際世論は満足してしまうのだ。そこには正負双方の価値があるが、いずれにせよ充分な資金とタイミングに恵まれれば、個人にも国際世論を左右する力があるということを意味するのだろう。
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2000年10月22日(日曜日)

Linuxの台頭

テレビ 23:21:00 天気:くもり
 前日、ドラクエ2をやっているうちに夜が明けてしまい、それから眠ろうにも目が妙に冴えて眠れない。6時間弱うとうとしただけで起きださざるを得なかった。
 ドラクエ2は上の世界に一気に上ってしまったので、後は聖なる祠を拠点にじっくりレベル上げをやっている。アークデーモンの強いこと強いこと、1戦交えると必ず誰かが戦死している(笑)。泣きながらプレーするハードさよ。この世代のドラクエまでは妥協が無いなあ。SFC版なのでふっかつのじゅもん制では無い。それが優しくなった点だ(笑)。
 さて、夕方になって眠くなってきたので一眠りしたら、NHKスペシャル「世紀を越えて」が始まった。今回は公開技術の衝撃と題し、Linuxの普及を追う。
 中国ではインターネットの普及が急激に進み始めている。まだ人口の一部だけしかカバーしてないが、全人口を先進諸国並みのカバレージで普及すれば、世界最大のインターネット市場が出来上がる。中国はその膨大な人口をどうやってまとめて行くかという難題を抱えている。従来型のトップダウン式情報網では"中央"の負荷が高くなりすぎるのは明らかだ。中央で処理するまでも無い情報は当事者のうちで処理するのが、為政者から見ても得策だといえる。
 これまで、中国でクライアントOSとして普及してきたのはWindowsだった。しかしもしもこのままWindowsクライアントが増大してゆけば、莫大な富が国外(アメリカ)へと流出することになる。これを嫌う中国政府が、無償で使用しうるLinuxの普及を後押しするのも、やはり当然の施策と思う。
 中国では大手から中小の企業までがしのぎを削りあい、Linuxの中国語ローカライズを進めている。元々、Li18nuxなんて言葉があるくらい(真中の18はinternationalizationから最初のiとnをのぞいた18文字を意味する)で、Linuxはマルチリンガル、マルチロケールを強く指向している。この点は、Linuxカーネルがフィンランド人のLinus Torvalsによって開発され、日本を含む非英語圏にもメインテナが豊富に存在したことが大きい。まだ完璧とはいえないが、ロケールに従って言語環境を切り替えるという事が、OS、アプリケーションを含む包括的なレベルで可能になっているのだ。
 自国のOSを持ちたいという心理は、日本人がTRONを推したがることを思えば不思議でもなんでもない。いかに従来のLinux開発者たちがi18nに傾注してきたとはいえ、中国語特有の事情に精通しているのは、やはり中国人自身だろう。中国人にとって最適のOSを作るという事業は、オープンソースのLinuxが登場しなければ出来なかったことだと彼ら自身も言う。
 たぶん、MINIXを改造するなどしてマイナーな中国語OSの開発は幾度か試されたのだろうが、OSに関わる全ての機能を持つ大規模OSを自家薬籠中の物にするという経験は初めてのはずで、中国の人々の舞い上がりぶりも分かる気がする。またマイクロソフトのおこぼれに細々と与ってきただけの業界人たちが、Linuxという格好のビジネスチャンスに飛びついたという側面もありそうだ。
 もともとLinuxはGNUが主張するGPLというライセンス条項に従っている。開発した結果をオープンにすることを強く促すこのライセンスに従ったLinuxの開発モデルが、オープンソースというGNUの主張するフリーソフトウェアとは微妙に異なるモデルに同定されているのは不思議な話だ。たぶん、GPLはあまりに「強すぎ」て、より緩やかなライセンスが必要とされたという事情があるのだろう。
 さて、巨大市場中国でのクライアントOSの座を占めるのはWindowsか、Linuxか、あるいは思いもよらず他の何かが普及するのか。忘れられた巨大市場インドの動向も含めて興味は尽きない。
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2000年10月21日(土曜日)

テレビ見た

テレビ 23:55:00
 ということでテレビを見た。ビデオに撮っていた番組をしばし眺める。見たのはNHKで火曜日にやっている「プロジェクトX」。難題に挑戦する人々の姿を描き出そうという趣旨の番組だ。今回は飛鳥寺金堂再建に挑んだ硬骨の宮大工たちの話題。飛鳥寺は奈良時代以来の歴史ある寺院だが、その本堂である金堂は戦国時代に焼け落ち、昭和に至るまで仮の本堂で凌いできた。これを再建しようという気運が、昭和30年代に入って最高潮に達した。しかし資金面を別にしても、大きな難題があった。再建の担い手である宮大工がいないのだ。宮大工は高い技術を持っているので、需要が急増していた都市部での建築現場に引っ張りだこだったのだ。金堂の再建は東大寺の鬼と呼ばれた宮大工が請け負ったが、その手足となる宮大工が集まらない。しかし思いもよらないことに、ふつうの大工仕事に飽き足らない若い大工たちが数多く集まってきたという。まあどこにでも高い技術を持つことにあこがれる者がいるのだ。
 ボーっとしている間にNHKスペシャルが始まった。今日はカナダはバンクーバー島の湾内に形作られた不思議な生態系の話題。
 バンクーバー島は北米大陸本土の近傍に浮かぶ細長い島だ。その地形は氷河に削り取られた複雑なもので、海の底までそんな地形が続いている。このバンクーバー島と大陸の間にある袋状の細長い湾は、多くのイルカやシャチ、そして数多くの海の生き物を育む豊かな海だ。海中にはイソギンチャクやナマコ、カニなどが生息しているが、いずれも他の海域では見られない生態を見せる。また非常に大型化するのも特徴だ。
 大型化するのはこの海が養分に富み、餌が豊富で、かつまた危険を逃れられる隠れ家に事欠かない点に由来する。哺乳類などの複雑な生物を除き、軟体動物や魚類などは生涯に渡って成長しつづける。この海の生き物たちはその寿命をまっとう出来るほど長生きするので、その間成長しつづけるというわけだ。
 この海域の養分は湧昇海流にその源がある。湧昇海流とは深海底から湧き上がってくる海流のことで、窒素、カリウムなどの養分に飛んでいる。深海底は生命の総量から言えば寂しい世界だが、実は表層から沈んでくる生命の死骸や様々な有機物が沈殿する、養分に富んだ世界でもあるのだ。湧昇海流の基本パターンは、地球の自転により生じる気流とコリオリの力で海岸近くの表層水が沖に押しやられ、それを補う形で深層から海水が湧きあがってくるというものだ。
 しかしバンクーバー島のそれはやや様相を異にしている。バンクーバー島と大陸との間にある狭い湾には、大陸に降り積もった膨大な積雪がもたらす真水が注ぎ込んでいる。真水は海水より軽いので、表層の海水を沖へと押しやる。そのときにその海水の流出を補う力が働き、海底から海水がせりあがってくる、ということらしい。しかしこの説明をなんとなく納得できなかったのは僕だけだろうか。真水の流入が止まれば湧昇海流が生じるのも分かる気がするが、常に流入しつづけていたらそんな力は働かないのではないだろうか。まあこれは大海嘯(アマゾンにおけるポロロッカね)と同じように、自然は必ずしも人間の直感に従わないということなのかもしれない。
 この湧昇海流がもたらす養分は、雨季が明けた5月に植物性プランクトンの大繁殖を促す。そしてその植物性プランクトンは動物性プランクトンを、動物性プランクトンはさらに大型の生物を養うというわけだ。
 この海域はこのようにして莫大なバイオマスを保持している。そしてそれは、この海域での熾烈な生存競争をももたらしている。番組中、座布団くらいありそうなヒトデに対し、様々な生き物が対抗する様子が撮影されていた。この海域に密集している二枚貝の一種は、ヒトデが触れると海水を噴出して逃げ去る。日本など他の海域に住む近縁種はこうした行動をとらないそうだ。またナマコも活発に動いて逃げてしまう。そしてなんと、一般的には定着して動かないと思われているイソギンチャクまで、ヒトデに襲われると岩場を離れ、泳ぎだしてしまうのだ! 今回の仰天画像といえよう(笑)。泳ぐイソギンチャクなど、本邦初公開ではないだろうか。
 この爆発的なバイオマスの増大も、日照時間が短くなる冬季には退勢に転じる。そしてまた次の春を待つのだ。
 23:00からの国宝探訪。今回は縄文遺跡からの出土品2点。
 一つは縄文のビーナス(ぱちもん臭い名前だと感じるのは僕だけだろうか)と呼ばれる高さ30センチほどの地母神像。縄文の土偶の多くは、その全身に刺青を施していることを表す修飾が施されている。しかしこの像ではそうした修飾を省かれ、面を強調したマッシブな造型が施されている。縄文土偶の多くは、不思議なことに手足などをバラバラにされた状態で出土する。これは呪い師が依頼主の悪い部分に相当する部分をもぎ取り、呪術を施していたことを表わすと考えられている。しかしこのビーナス像などの大型のものでは、不思議なことにそうした扱いを免れているものが多い。これは大型の土偶が公共の、祭りなどで据えられる礼拝の対象であったことを表わしていると解釈しうる。
 このビーナス像よりも強烈な印象を受けるのが、もう一つの国宝、有名な火焔土器だ。ビーナス像が祭祀に用いる非実用品なのに対し、火焔土器は煮炊きに用いる実用品だ。それなのに、おおよそ現代では考えられないほど過剰な修飾が施されている。その修飾がもたらす印象は強烈で、見るものの精神に訴えかけてくる衝撃力を持っているように思える。それも、精神の暗部、光の届かない部分に。暗部、というとネガティブな価値をもっていそうに思えるが、この造型が与えるインパクトはそうした既存の価値観を土台から揺さぶるような、精神世界のあり方を覆すような力を秘めているように感じる。ぜひとも、この目で見てみたいと思った。
 火焔土器の複雑極まりない造型は、実は数種類のモチーフの組み合わせで構成されている。そして越後近辺に散在する他の火焔土器も、同じモチーフを使用している。これは製作者集団が参照すべき原器を共有していたと考えるより、その描くべきモチーフを共有していたと考えるべきだという事らしい。モチーフの一つは"S"字型の曲線だが、これは宇宙が広がっていく様と、それが一点に集中する様とを併記したモチーフだという。つまり、火焔土器のモチーフは具象ではなく、抽象なのだ。火焔土器は縄文人の豊かな精神世界をうかがわせる、ホンの小さなのぞき穴でもあるのだろうか。
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