Strange Days

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2000年10月15日(日曜日)

世紀を越えて

テレビ 23:07:00
 帰宅してさらにドラクエ2を進めていると、NHKスペシャルが始まった。今日は夢のテクノロジー、人間型ロボットの話題。
 本田技研では2足歩行型ロボットPシリーズの開発を続けている。Pシリーズの最新型P3では、速度こそ遅いものの、人間のそれにかなり近づいた歩行を実現している。最大の特徴は、電源や外部の認識という点でかなり自立している点だ。
 Pシリーズの初期コンセプトは、人間の歩行という動作をどれだけ少ない関節数で実現できるかを追求していた。最低限必要な関節は股関節、膝、足首の3点なのだそうだ。なんとなく直感的にも理解できる気がする。そしてこの試作機は、平らな場所なら2足歩行で移動できる。ところがこの試作機は地面の凹凸にあまりにも敏感で、階段はもとより、ホンの数センチの段差があってもバランスを崩してしまう。
 技術陣、特に制御用プログラムのチームはこの点で苦戦したが、やがて体操競技会の演技をヒントに乗り越えることが出来た。従来の制御では、バランスを崩しかけたときにはぐっと踏ん張るようにされていた。しかし実際の人間の動作を見ると、バランスが崩れたときには倒れかける方向へと足を踏み出し、慣性で上体が起きあがるのを利用して踏みこたえるという動きをしている。これに気づいた技術者たちは、制御プログラムに同様のアルゴリズムを組み込むことで、バランスに関しては飛躍的に改善できたという。
 最新のP3はさらに腰椎部での回転機構を組み込み、上体を回転することでさらに複雑な動作、開いたドアを支えたままくぐりぬける、などが可能になった。重量も実に80kgにまで軽量化された。実用化まであとわずかだ。
 人間型ロボットはどういう用途に使われるのだろう。直感的には、人間と同じ行動能力を持っているのだから、人間の活動範囲での補助ということになるだろう。しかし現状ではまだまだ人間の行動能力を下回っているので、当面は病院などの介護に当たるのではないだろうか。家庭に入るのはその先だろう。
 潜在的には人間以上の大重量を運搬できるだろうから、軍事用途にも使われるかもしれない。人件費の高さに兵員数を揃えられず、結果的に火力が手薄になっている自衛隊にはうってつけかもしれない。
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2000年10月14日(土曜日)

深夜のETV

テレビ 23:45:00
 23:00からは国宝探訪。今日は奈良唐招提寺の鑑真和上像の話題。この像は歴史の教科書には必ず載っていた有名なものだ。最晩年の鑑真の死を予感した弟子たちが作らせたものだという。
 鑑真は唐で高位の受戒僧として名高い人物だったが、日本にも受戒制度を伝えて欲しいという日本から渡来した僧侶の願いに動かされ、渡海を決意する。しかし5回に渡る企てはことごとく頓挫し、苦楽を共にしてきた弟子を失い、自らは失明するという苦難に遭う。しかし6度目にしてようやく来日を果たし、日本に初めて正式に受戒制度をもたらした。日本の仏教界にはじめて権威が伴ったといっていいだろう。
 鑑真来日のタイミングは良かった。当時、奈良東大寺の大仏開眼から2年、国中が仏教受容の熱気に溢れていた。そこにちょうど開いていた権威付けという間隙を埋める人物が来日したのだから、鑑真が熱烈に歓迎されたのも当然の話だ。
 しかし鑑真を取り囲む空気は大きく変転する。鑑真が担った役割は、いわばその瞬間だけ存在すればよいような性質のものだった。日本最初の受戒僧は、受戒僧足りうる僧を量産すれば、もう必要とされなくなったのだ。鑑真は国の中枢を追われ、弟子と共に小さな学問寺を築き、そこで残りの人生を過ごした。しかし僕は想像するのだが、こうした日本の公の仕打ちに対し、鑑真はさして気にもとめなかったのではないだろうか。彼は確かに学識高い受戒僧として来日し、その役目を担わされたが、一人の僧としては朝廷の奥深くに鎮座するような役目を喜んでいただろうか。それより彼を慕って集まってくる民衆や、熱心な若い僧侶たちに彼の知識を伝える仕事のほうが、はるかに実り多いと感じていたのではないだろうか。朝廷など、彼からすれば日本の野に仏教を伝えるために通らねばならない、厄介な関門程度の認識に過ぎなかったのかもしれない、と。
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2000年10月14日(土曜日)

犯罪被害者は訴える

テレビ 22:02:00
 今夜のNHKスペシャルは、犯罪被害からの救済に自ら立ち上がり始めた被害者の話題。
 特に'90年代に入ってから、犯罪被害者の救済という観点から法律のあり方が論じられるようになってきた。死刑廃止に関する論争でも感じられることだが、犯罪者をどう処分するかという観点からは熱心に論じられるのだが、その被害に遭った人々に対する処置は往々にしてなおざりにされてきた。被害によって肉親を失い、あるいは心身ともにダメージを受け、精神的にも経済的にも困窮しがちな被害者に対しては、人権保護に熱心なはずのNGOも結果的にはほぼ無関心に見過ごしてきた。
 こうした境遇に貶められてきた犯罪被害者たちが、ついに立ち上がり始めた。今年、被害者たちが全国的に大同団結した組織が設立され、各政党への働きかけを開始したのだ。会長を務めるのは、自らも妻を殺害された犯罪被害者である老弁護士だ。
 老弁護士は、これまで三十数年にわたって法廷での弁護に参加し、もっぱら犯罪者の権利保護に尽力してきた経験をもつ。老弁護士は、その過程で犯罪被害者の気持ちを踏みにじってきたかもしれないと回顧する。「泣く泣く示談に応じた被害者もあったでしょう」と。彼はそんな被害者の立場の弱さを、自らが犯罪被害者になってやっと分かったという。
 刑事裁判は、被害者による犯罪者への報復という機能を極力排除することを狙っている。刑事裁判の目的は、実は犯罪者による国権侵害、あるいは治安撹乱を罰することに他ならない。また刑罰の内容も報復を目的としたものではなく、あくまでも犯罪者の更生を目的とした教育主義的な機能を担っている。この辺は死刑制度の特異さとの関連でよく語られる部分ではある(死者をどう教育するというのか)。
 では被害者が立つ位置はどこなのだろう。実は被害者の立場はどこにも無いのだ。刑事裁判においては犯罪者と国家という立場のみが存在し、被害者の立つ場はどこにも無い。刑事裁判において、国家、あるいは犯罪者(こっちは滅多に無いだろうが)が求めない限り、被害者が法廷に立つことはありえない。目の前で被害者が辱められても、一言の反論も許されないのだ。またそもそも損害賠償を請求することも出来ない。
 こうした日本での刑事裁判のあり方に対し、諸外国はどうだろう。実は欧州では被害者(あるいはその代理人もありうるだろう)が検事と同席するという形態が広く見られるという。被害者は事実認定の過程で意見を陳述する権利を認められ、さらに損害賠償をも併せて求める権利が認められている。この制度は日本にも導入されるべきだとの意見があり、自民党などの後押しにより、法務省での検討が進められている。また犯罪被害者への裁判記録の開示などを盛り込んだ初めての指針も示されている。
 被害者が裁判に参加する権利を積極的に認めることは、その心理的な窮状を救済するのに役立つだろう。しかしそこには犯罪者対被害者という構図が再度生じ、近代的な法制度が否定してきた私刑的な意味合いが復活しないだろうか。特に陪審員制が導入されるとなると、ますます私刑的な意味合いが濃くなるのは否定できないように思う。それを検事のコントロールによって払拭しようというのだろうが。
 そもそも、被害者たちがもっとも困窮しているのは、経済的な意味合いにおいてである。被害者たちは公共的な救済制度が欲しいと願っているのである。
 犯罪被害者への視線が、せいぜいその憤りという観点(だいたいは殺人者が存在するのに死刑を廃止してよいのか、といった類の論議で見られる)にとどまっていたのは、犯罪の多様さに対し、その被害者の困窮のあり方も実に様々だという事実に拠っていると思う。それ以上に、被害者への眼差しに、その根源にあるべき共感と想像力が欠如していたのだと思う。僕自身、被害者は悲しみに暮れながらも日常をまた送っていくという、あまり根拠の無い漠然とした予想を持っていた。しかし事実は元のような日常を二度と送れなくなり、また時にはいわれなき中傷にも傷つけられるというふうに、精神的にも経済的にも困窮してゆくのだ。これを救済する公共の制度が望まれるのは当然ではないだろうか。自己責任において破綻した私企業を救済するのに何千億円も使うよりも、僕たち自身がいつか同じ立場に立つかも知れない被害者を救済し、その本来の能力を社会に生かせる方向に使う方が、よほど実りある金の使い道というものではないだろうか。それは、僕たちが漠然と抱え始めている、不条理な犯罪に対する恐怖感を、いくらかでも軽減してくれることだろう。
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2000年10月08日(日曜日)

テレビでも見るか

テレビ 14:13:00 天気:くもりのち雨
 休みの中日ともなると外に出かけたい気もするが、今日はさぞかし人出が多かろうと思った。よって家でゴロゴロすることに決定。
 昨日録画しておいたNHKスペシャルを見た。アメリカはフロリダ半島の地下に広がる、広大な地下水脈を探検する人々の話題。
 フロリダ半島は地下水に恵まれた土地で、飲料水の90%を地下水で賄っているという。半島のあちこちには多くの泉があり、澄んだ水が滾々と湧き出ている。そうした泉は、その底で地下深く走る地下水脈とつながっている。
 地下水脈の形成には、フロリダ半島の成り立ちが関わっている。フロリダ半島はかつて水面下にあった。地球が温暖な時期に水に覆われていたフロリダ半島では、サンゴ礁が発達し、膨大な石灰質が堆積していった。やがて氷河期に入り海面が下がると、石灰石の塊が地上に現れた。それが長い間に侵食されて鍾乳洞となり、フロリダ半島に降り注ぐ雨が地下水となって流れるようになったというわけだ。
 この地下水路を潜水調査しているのは、厳しく訓練されたダイバーたちだ。かれらはボランティアとして実地調査を任されている。調査は10年以上にわたって続いているが、9年前にメンバーの一人が事故に遭い、水路内で亡くなっている。この事故をきっかけに徹底した安全対策がとられた。流れのきつい水路内の探査に適した装備を自力で開発する。また実際に潜水するダイバーを多数のサポートダイバーがバックアップする体制などなど。一般ダイバーが300名も命を落としているというのだから、こんな対策が必要になるのだろう。
 泉の多くは水路で連絡しあっていることが確認されている。調査した中では最も南のワクラ泉の場合、南方に実に5km以上も延びていることがわかっている。そしてこれらの地下水脈は、はるか北方から連なっていると考えられている。状況証拠があるのだ。
 '99年、調査範囲のはるか北方にある湖が、ホンの二晩で干上がるという椿事があった。調査の結果、この湖の地下にも地下水路があり、旱魃によって地下水位が下がったために湖の底が抜け、水が一気に流れ出してしまったためと判明した。一月後、今度はワクラ泉の水位が急上昇し、かつ透明度が下がるという事件が起こった。この二つの事件は密接にかかわっていると考えられた。すなわち、北方の湖から流れ出した水が、未知の地下水路を通ってワクラ泉から流れ出したのだと推測されている。
 水路ははるか南にも続いていると考えられている。メキシコ湾には真水が湧き出す海中泉がいくつもある。それらはフロリダ半島の地下水脈の終端だと考えられている。
 このプロジェクトを引率するのは、地元で証券会社に勤めているダイバーだ。完全にボランティアでこうした科学的調査が進められるというのが、アメリカという国家の面白いところだ。このダイバーは、「丘を越えると何が見えるのだろう。角を曲がると何が見えるのだろう。そういう好奇心がプロジェクトの原動力になっている」という。実際、地下深くに広がる大洞窟、パワーケイブを目にする人はごく少ないはずで、なんともうらやましい趣味だと思う。しかし14時間も潜水しているなんて。
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2000年10月01日(日曜日)

NHKスペシャル

テレビ 23:32:00
 今夜のNHKスペシャルは北極海の横断に挑んだ人たちの話題。ある冒険家の呼びかけに集まった市井の人たちが、徒歩で北磁極への横断に挑んだのだ。60kgのそりを引いての旅は想像以上に過酷で、体力に自信がある人でもうまく環境と折り合えなければ挫折することになる。むしろ己の限界をわきまえて自然と折り合えば、多少体力に自信が無くともやっていけるものらしい。この旅に参加したのはそれぞれ人生にアクセントをつけたいとか、何か日常では得られないものを求めている人が多いようだ。そういう意味では、山にこもって山岳修行に励む人々に似ている。しかし僕ほどなまりきった肉体の持ち主には、どうあがいても達成できそうに無いな。

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2000年9月24日(日曜日)

テレビ見たよ

テレビ 22:30:00
 今夜のNHKスペシャルは、ようやくオリンピック縛りから逃れての新展開だ。というか通常営業なんですけど。今夜はスーダン内戦とその過程で出た多くの難民の命を支える国連援助活動の話題。
 スーダンは北部がイスラム圏、南部が中央アフリカのネイティブ・アフリカ圏と接している。北部にはイスラム化したアラブ系住民、南部にはキリスト教などを信仰する黒人系住民が分布している。これらの人々は、長い間に大きないさかいも無く暮らしてきた。しかし'80年代に北部のイスラム系住民が掌握する政府が、急進的なイスラム政策を推し進めようとしたことから、宗教弾圧を懸念する南部の住民との間に内戦が勃発したのだ。今は南部の広範な地域を拠点とするスーダン人民解放軍と、北部の政府軍とが、南部の都市部を中心に激戦を繰り広げている。以来10年条経過しているが、いまだに終息する気配はいない。
 紛争が長期化している背景には、南部に豊富な石油資源が眠っているという事実がある。これが無ければ、あるいは北部のイスラム政権も、南部の住民にある程度の自治を認めることで終息したかもしれない。しかし石油資源が存在する以上、南部の住民の自治をびた一文足りとも認めるわけには行かなくなったのだろう。
 南部でゲリラ戦を繰り広げるスーダン人民解放軍にも問題がある。彼らが非常に精強ならば南部を完全に掌握することで内戦をこう着状態に持ち込めた可能性がある。しかし装備に勝る政府軍に対して都市周辺でのゲリラ戦を挑むしかなく、また南部の全ての部族が解放軍に同心しているわけでもないため、十分な掌握が出来てないのだ。その結果、南部では熾烈な殲滅戦が延々と続くことになり、都市を追われた住民や、農地の耕作が不可能になった農民が難民化し、食糧事情が極端に悪化しているのだ。そして彼ら難民の命を支えているのが、国連による食糧援助活動だ。
 国連は周辺諸国から、トラックを使って直接食料を難民キャンプに送り込んでいる。その輸送を請け負っているのは、なんと周辺諸国の民間業者だという。この仕事は非常に報酬が大きいので、危険に関わらず請け負っているという。実際、トラック群が行く道は地雷が敷設されている可能性があり、また正体不明の武装勢力による攻撃がしばしばあり、コンボイに死傷者が出ることも度々だという。人民解放軍はこれらのトラックの通行料などを徴収するが、身の安全を保障するわけではない。また政府軍機もしばしば空爆を繰り返すので、四方八方に危険が満ちているといっても過言ではないのだ。
 こうした援助活動は、実は飢餓の長期化を帰って推し進めるという主張がある。番組中でも住民の依存心が強まる一方で、自立する気持ちが薄れていることが描き出されていた。またこうした無償の食糧援助は、これらの地域本来の商業活動を効果的に破壊してしまうという指摘もある。いつぞやの他の番組での話だが、ノーベル賞受賞者の経済学者、セン博士が、「飢餓は食料全量の確保が足らないためだけではなく、流通がうまく機能してないためにも起こる」と話していたのを見た記憶がある。そのような目で見れば、例えばベトナム戦争中でさえもベトナムの農民は危険と隣り合わせのまま食料を生産しつづけていたのであり、その結果ベトナムでは餓死者が出るような飢饉はあまり見られなかった。問題は農民が危険を冒してまで農事に従事できる動機をもてるかどうかだ。そしてさらに効率的な流通機構が整っていれば、これほどまでに深刻な飢餓が長期化することも無かったのではないか。国連の配給する無償の食糧は、農民に死ぬ気で農作業を実施する動機を奪い、さらに戦地での脆弱な流通機構を破壊してしまっているという可能性は否定できないように思う。
 しかし僕だって砲弾が降り注ぐ中での農作業はゴメンだし、実際に飢えている人がいるのに「自分で何とかしろ」とはいえない。難民たちの気持ち、そしてその救援活動に従事する人々の止むに止まれぬ気持ちも良く分かるのだ。
 なんとも割り切れない気持ちだが、この紛争は結局どちらかの勢力が強大化するか、あるいはこれらの土地の価値が下落するかしないと終息しないだろう。煮え切らない紛争を前に、「国連軍の強化」という甘い夢を主張する人々の気持ちも、あながち分からないでもないような気がする。
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2000年9月23日(土曜日)

テレビ見た

テレビ 23:55:00
 今日も今日とてオリンピックばっか。23:00からの国宝探訪でようやく一息つく。
 今夜は兵庫県にある浄土堂というお堂を取り上げた。このお堂と、そしてそこに収められている3体の仏像が国宝に指定されている。この寺は鎌倉期の東大寺再建に功があった僧、重源の建てたもので、再建資金に充てる浄財を募る際に建てられたものだ。重源はそこで戦乱に苦しむ民衆の声を聞き、当時信仰を集めていた阿弥陀菩薩の来迎をこの目で見たいという願いが大きいことを見抜いた。そしてまさにその阿弥陀来迎を再現してみせた巨大ジオラマが、この浄土堂なのだ。
 重源は宋に渡ること三度という。その宋で見聞した新しい様式を取り入れて建造したのが浄土堂であり、弥勒菩薩像だったのだ。
 浄土堂は外光を巧みに利用している。夕暮れ時、西日が差す頃に西側から外光を取り入れると、その暖色の光が黄金色の弥勒像をまるで後光のように照らし出し、荘厳な光景を作り出す。番組中登場した建築家は、建物と菩薩像がせめぎ合っているという。建物を設計したのは重源だが、弥勒像は各地の仁王像に名を残す運慶の作だ。信仰心に裏打ちされた技術が、気迫のこもった美を後世に伝えることになったのだ。僕もいつかは、夕暮れ時に沈んで行く弥勒像を眺めに行きたいものだ。
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2000年9月09日(土曜日)

寝過ぎですよあなた

テレビ 22:03:00 天気:晴れ
 前日寝たのが4:00頃だったろうか。目が覚めたのはなんと17:00。それ以前に14:00頃に起きだした記憶は在るのだが、どうもまた寝床に逆戻りしたらしい。これでは日記に「今朝起きたら夜だったので寝た」くらいしか書けないではないか。それにしても、二度寝の快感は捨てがたい。
 スーパーに出かけた。盛んに「食欲の秋」を連呼していたので、思わずキノコだの野菜だのを買い集めて鍋をすることに決定した。季節的にまだ暑かったが、うむ、美味なり。
 思ったより大量になった寄せ鍋を片付けていると、ETVの「国宝探訪」が始まった。今夜は京都の東寺講堂にある立体曼陀羅の話題。
 東寺は京の守りの一角として建立された寺で、空海が責任者に任命された後は真言宗の中心となった。高野山が総本山なら東寺は朝廷との外交機関だったのだろうか。空海と言えば辞を低くして教えを請うた最澄を追い返した鼻持ちならない奴というイメージがあるが、同時に現実的な感覚に優れた活動的な人というイメージも在る。最澄のような(言い方は悪いが)学者バカと異なり、政治的な感覚をふんだんに備えた事業者という側面が非常に強い。日本中あちこちの残る(全部が空海自身の仕業とは思えないが)土木事業者としての彼の足跡を見てもわかるように、なにかの概念に現実的な形を与えるのが得意だったように思う。
 その空海を責任者にしたのだから、東寺に大掛かりな建造物が次々に建立されるのも必然だったろう。意味付けはいろいろ在るのだろうが、とにかく作りたかったというのが本音だったのではないだろうか。その空海が最後に情熱を傾けたのが、唐より持ち帰った曼陀羅を仏像で表現しようという立体曼陀羅だ。これは密教で世界の中心に位置し世界を理解する智慧を表す大日如来を置き、向かって右手に5体の菩薩、左手には同じく5体の明王を配したものだ。1体でも古刹の本尊足りうる程の仏像をこれだけ配したものだから、そのマスの迫力は相当なものだと思われる。当時の人々は、マンハッタンを目にした移民くらいのインパクトを感じたのではないだろうか。
 これらの仏像群には、内部に仏舎利が収められていることが分かっている。唐から持ち帰った貴重な仏舎利を封じたことからも、空海の思い入れの強さが分かる。先に書いたように空海は概念に形を与えることを追求してきた人だったのだから、密教の本質を大掛かりな立体曼陀羅に顕す事はその生涯の集大成のように思えたのだろう。事実、空海は完成を見ずして亡くなったので、結果的にも集大成となった。
 曼陀羅というものが人間の世界認識の根底に関わっているというユングや仏教の主張は怪しいものだと思うが、図形としての曼陀羅には確かにあらがい難い魅力が秘められているようにも思える。空海という人は、その曼陀羅から様々な啓示を受けて形にしていった人だ。そのような定義付けをしたくもなる。
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2000年9月02日(土曜日)

ちょっとテレビを見た

テレビ 23:48:00
 23:00からETVでやってる「国宝探訪」。今夜は僕にとってはお馴染みの厳島神社と、そこに平家が奉納した写経を取り上げている。このどちらももちろん国宝だってさ。
 厳島神社は参拝する度に回廊の長さにあきれ果てるが、アレは寝殿造りを模したものなのだそうだ。それでぐるりと回り込んだ回廊の内側は、満潮時には海になる。以前は厳島は全島が神聖視され、人が住むことを禁じられていたそうだ。当然、神社の祭主も本土に住んでいるのだが、必要に応じて舟で直接神社の乗りつけられるようになっている。それで回廊が大きく回り込み、本殿の真正面が空いているのだ。
 この厳島神社に平清盛ら平家一門が奉納したのがいわゆる平家納経だ。これは和紙を赤く染め、そこに金箔、銀箔などをふんだんに使った豪華絢爛なもので、平家一門の富の凄さを見せつけるものだ。その製作手順を再現して見せていたが、非常に根気と注意力を必要とする、見ていて胃が痛くなりそうな作業の連続だ。僕にはとても務まるまい。
 この経の一部の地に用いられている波の文様が、この納経から20年ほど前に製作された後白河法皇らによる別の教典のそれと一致することがわかった。この事は、朝廷に仕えていた工芸者集団を、武門である平家が受け継いだことを示している。恐らく、貴族から武士へという権力の推移の様を表しているのだろう。それにしても美しい。
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2000年8月27日(日曜日)

世紀を越えて

テレビ 22:35:00
 今回の「世紀を超えて」は、超微細機械の話題だった。
 日本ではその全長がミリ単位、構成部品に至ってはマイクロメートル単位の「マイクロマシン」の研究が進んでいる。マイクロマシンの研究は'90年代初頭に一部の学者たちが研究会を作り、進めてきたものだ。この微細な機械の製造には、マイクロプロセッサの製造技術が応用されている。つまり感光、エッチングという工程をいくつも組み合わせ、最終的に超微細な部品の製造を実現するのだ。
 マイクロマシンはどのような用途に使われるのだろう。まず医療への応用が期待されている。医療の現場では、手術の際に患者に与えるダメージを減少させることを目論み、できるだけ切開が少なくて済むマイクロマシンの開発が急がれている。さらに体外からの切開では到達が難しい体内奥深くへのアクセスや、脳内の動脈瘤などの微細な患部へのアクセスへの適用も考えられている。また原発の内部など、人によるアクセスが難しい入り組んだ場所への適用も考えられている。特に原発の熱系統などの過酷な場所では、微細な損傷が大きな事故につながる可能性が高い。そこで微細な損傷の検知も可能なマイクロマシンへの期待が大きいというわけだ。
 アメリカではさらに小さなナノマシンの概念が取り上げられている。'60年代にファインマンが予言したように、いまや原子一個の操作すら可能になっている。そこでこの原子配列の加工技術により、原子数個で構成されるほどの微細な部品を作ろうという試みが続けられているのだ。原子数個というサイズの部品になると、原子そのものが内部構造をもっている関係で原子同士はある程度自由度のある結びつきをする。そのため、ナノマシンが動作する状況のシミュレーションを見ると、ナノマシン全体がうねうねと動き、なにや生物的でいかがわしく感じられるのが楽しい。
 ナノマシンはやはり医療への適用が考えられている。これほどのサイズになると細胞一つ一つの処置が可能になるので、人体内部で絶えず欠損し、癌化の危険性がある損傷細胞を修復することが可能になるという。
 それにしてもこれほど小さな機械になると、その存在を検出したり排除したりするのが難しくなるだろうと思われる。万が一暴走したらどう対処するつもりなのか、応用の可能性はようやく検討され始めたばかりというのが実情だろう。
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2000年8月26日(土曜日)

サイエンスアイ

テレビ 23:55:00
 23:30からのサイエンス・アイは例の国際宇宙ステーションの話題だ。これはNASA、ESA、NASDA、そしてロシア宇宙局などが参加している恒久的な宇宙ステーション計画のことだ。ロシアの財政難などによりかれこれ2年以上遅れている計画だが、番組を見た限りではロシアだけを責めるわけにはいかないようだ。最初の一歩から、すなわちレーガン政権下でFreedomとして企画されたときから、ボタンの掛け違いは始まっていたようだ。当時のNASAは計画を生き残らせるため、意図的に見積額を低く算定したのだ。そして実は技術的にもNASA単独では遂行できないことが明らかになった。スカイラブ以来、長期滞在の経験がないアメリカは、恒久的な宇宙ステーションの実現に必須な空気、水のリサイクル技術を持っていなかったのだ。つまり、計画の実現にはロシアの参加が不可欠だったということになるのだろう。また資金的にもアメリカ単独ではまったく賄えないことは明らかだった。アメリカが広げた大風呂敷を実現するために、他の国の参加は必然だったのだ。やれやれだ。
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2000年8月20日(日曜日)

NHKスペシャル「世紀を越えて」

テレビ 23:15:00
 今夜は久しぶりに「世紀を越えて」があった。新シリーズではテクノロジーの発達に焦点を合わせるようだ。
 去年、日産から新型車の発表があり、世界中の自動車関係者の注目を集めた。注目を集めたのは、実は新型の変速機だった。この車は新しいタイプの無断階変速機(CVT)を搭載していたのだ。
 CVTは90年代に入って相次いで登場したが、その概念は古く、自動車の登場とほぼ同時だったといってよい。動力軸の終点と駆動軸の始点に円盤を取り付け、その二つを直行させて接触させる。その接触点を変えることで駆動力を無断階に伝達できるというのが原型だ。しかし初期のCVTは伝達部分の磨耗が激しく、車の能力が向上するに従って姿を消した。
 '70年代、オイルショックがCVTの再登場を促した。当時も今も変速機の主流はギアを使った機械式変速機だが、これは大動力の伝達にも耐えられるものの、機械内部での動力ロスが大きいという欠点があった。これを改善すれば莫大な量の石油を節約できると見たアメリカは、国を挙げてのCVT開発に乗り出したのだ。
 この動きを日本のメーカーも見ていた。動力ロスの少ないCVTを実用化できれば、自動車の燃費をさらに伸ばせる。メーカーの一つ、日本精工でも、若手技術者をCVT開発要員に当てて、独自に開発を始めた。
 CVTにはいくつもの形式がある。'90年代初頭に富士重工が開発したのはベルト式の物だが、これは大動力の駆動には向かないとされる。またベルト自身のフリクション・ロスも大きい。伝達に流体を使う形式も考えられるが、原理的に動力ロスが非常に大きくなってしまう。CVTは結局隔たった動力軸と出力軸の間をなにで繋ぐかが問題になる。日本精工が選んだのは、アメリカの発明家が研究していたローラーを使用する形式だった。二つの軸の端に取り付けたディスクで二つのローラーを挟む。このローラーの角度を変化させると、それぞれのディスクでの接触位置が変化する。これにより各軸間の伝達比を自由に変化させることができる。日本精工の技術者はこの発明家との共同研究を進めた。
 最初の試作機を搭載しての耐久試験は、しかし潤滑油に起因する障害で失敗に終わった。このCVTでは特殊なオイルを使って各軸、各ローラー間の焼きつきを防ごうとしている。オイルは各部品の接触面に膜を作り、ごく小さな間隙を確保することで接触を防ぐ。しかしこのままでは部品間にすべりを生じ、動力の伝達ロスが大きくなる。この発明の核心はオイルの性質にある。すなわち高圧がかかると固化する特殊なオイルを使い、肝心の接触部ですべりを防ごうというものなのだ。ところがこのオイルは超高温、高圧になる接触部の過酷な状況に耐えられず、分子がばらばらに切断されてオイルとしての用を成さなくなってしまったのだ。
 日本に帰国した技術者は、より耐久性の高いオイルを求めて日本石油の技術者とコンタクトを取った。この技術者は潤滑性の高い新型オイルを相次いでリリースしていたのだが、過酷条件で確実に「滑らない」オイルの開発という要求に驚いたという。しかし500に上る物質の分子形状を洗い直し、検討に検討を重ねた結果、意外なヒントにより滑る/滑らないという二律相反する性質のオイルを開発することに成功した。ヒントは作業服に縫い付けられたマジックテープだった。マジックテープは水平方向に引くと決してはがれないが、垂直に引くと簡単に外れる。このマジックテープの接触部の形状をヒントに、新しい潤滑油の開発が成されたのだ。
 このオイルを得たCVT開発は新しい段階に進んだが、ここでまたしても新しい課題に直面した。このオイルを用いての耐久テストを実施中、部品の破損という深刻な問題が発生したのだ。原因は部品を形成している鉄の質にあった。当時最高級の鉄を用いていたのだが、それでも僅かな不純物が混入している。通常の部品としてならなんら問題にならない程度の不純物が、CVT内部の苛酷環境では破断を生むのだ。
 この問題は素材のメーカー、山陽特殊製鋼に委ねられた。高純度の鉄は、溶解した鉄に吸引ポンプを差し込み、含有している酸素を吸い出すことで得られる。しかしこの吸引ポンプ差込のとき、径の大きな吸引ポンプにスラグが取り込まれ、これが溶け出してしまうことで不純物を残す要因となっていた。この問題は現場の職人のアイデアで解消されたという。吸引ポンプに薄い金属で出来た覆い(陣笠という)を着けるのだ。この覆いは溶解した鉄に差し込んだときに、表面のスラグを取り除けてくれるが、間もなく完全に溶解してしまう。この結果、吸引口にはスラグが取り込まれず、高純度の鉄を得ることが出来た。
 いわば究極のオイル、究極の鉄を得たことで、CVTはいよいよ実用間近と思われた。この頃には日産が研究に参加し、実用化に向けて走り出していたのだ。ところが、ここでまたしても大問題に突き当たった。
 日産は大出力向けのこの方式のCVTを、自社の大排気量車に搭載したいと考えた。そこで小型車向けに考えられていたプロジェクトを改め、大動力を伝達可能な設計に改めた。そしてこれを耐久試験にかけたところ、今度はローラーの破断という恐ろしい現象に見舞われるようになったのだ。現象的には、ローラーの破断面に白色組織と呼ばれる変質が表れていた。
 全ての関係者による原因究明が進められた結果、意外な事実が明らかになった。このCVTのために開発された新型オイルと、強い相関を持つことが分かったのだ。日石の技術者は丹念にチェックを行い、最後にようやく原因を突き止めた。オイルの添加物に問題があったのだ。
 オイルは基本となる潤滑油の他に、その性質を改善するために様々な添加物が加えられる。日石では耐久テストに向けての最後の調整として、硫黄化合物の一種を添加していた。ところがこの物質が苛酷環境で変質し、ローラーの表面を侵し、その内部に水素を浸透させてしまったのが白色組織の成因と考えられた。そしてこの化合物を別の物質に変えたところ、ついに問題は解決された。CVTはようやく実用化されたのだ。
 このCVTは市場に出るなり大きなインパクトを与えた。しかし既にCVTという技術に対する開発競争は激化している。このCVTはライバルメーカーによって調査され、これに打ち勝つ技術の開発が進められているのだ。この開発競争無くして20世紀における技術の進歩はあり得なかったろう。しかしその行き着く先を誰も考えてないのが面白い。速く走ることに夢中で、どこに向けて走っているのか、誰も確信していないのだ。果たして21世紀にも同じ傾向が続くのかは、まったく予見できないことだが。
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2000年8月19日(土曜日)

NHKスペシャル「4大文明」

テレビ 23:11:00
 21:00からのNHKスペシャルは「4大文明」最終回の「エピローグ謎のマヤ・アンデス」。
 今まで登場したエジプト、メソポタミア、インダス、そして中国の4大文明は、いずれもユーラシア大陸の周縁部に栄えた文明だ。これらの文明は長い距離を隔てながらも、陸路で到達できるという有利さから交通があり、それぞれの文明に影響を与え合った。これらの文明に似通った点が多いのは、実はそうした理由からなのだ。
 しかし地球上にはユーラシア大陸周縁部以外にも古代文明があった。それはユーラシア大陸とは広い海で隔離された別天地、アメリカ大陸にだった。
 マヤ文明は中米のメキシコ南部のユカタン半島に栄えた文明で、メソ・アメリカの文明という括りでいえば4500年ほど前に勃興したという。中米という隔絶した地にありながら、4大文明とさほど変わらぬ時期に勃興したという事実が面白い。
 4大文明がそれぞれ大河のほとりに興り、その豊かな水を灌漑で用いるという方法で農業を延ばしたのに対し、マヤ文明は灌漑を一切用いない焼き畑農業を採った。焼き畑農業は乾季の終わりに森を焼き開き、雨期の始まりとともに熱帯の豊富な雨が降り注ぐことで成り立つ。そのため、季節の変わり目を4大文明並みに、あるいはそれ以上に精密に知る必要があり、天文学が発達し、精密な暦が編まれた。そしてマヤ文明は巨大な神殿を築き、そこに無数の生け贄を捧げたのだ。
 マヤ文明が生け贄を盛んに捧げたのは、近縁のアステカ文明を見聞した欧州人たちの記録からもうかがえる(もっとも、マヤに比較するとアステカは「ひどすぎる」ものだったらしいが)。中米における文明は、やはり中米に栄えたオルメカ文明に端を発する。マヤやアステカの暦は、実はオルメカのそれを発展させたものだという説もあり、強い影響下にあったことは間違いない。そしてこのオルメカの頃には既に生け贄の風習があったようだ。中米の文明はある文明が衰退するとその周辺の別の部族が簒奪するという風に回転していったのだが、その結果中米では非常に等質性の高い文明形態が編まれていった。
 マヤの人々は太陽のことを恒久的な存在ではなく、人間からの働きかけがないと衰退してしまう存在だと考えた。太陽も養分を欲しがるというのだ。そして太陽の養分として最適なのが、人間の血だと考えられた。その結果、生け贄が非常に重視されることになる。天変地異があれば、雨が降らなければ、長雨ならば、頻繁に生け贄が捧げられた。
 生け贄が多かったのは彼らが残酷で命を軽んじていたからだとは限らない。メソ・アメリカの生命観の特徴は、この世はヒトをその他のものが取り囲み、対立するというものではなく、それらすべてが同じ世界に属するという点にある。キリスト教的な価値観のようにすべてをヒトの対立項に置くことで軽重を量ろうと考えるのではない。人の命と、太陽の健康とは等価なのだ。彼らは太陽に対して「思いやり」があったのかもしれない。しかし、生け贄にされる方は、いかに宗教的な価値観に裏打ちされていたといえど、やっぱりたまったものではなかったのではないだろうか。なにせ、生け贄は心臓をえぐり出され、生皮をはがれたそうだから。
 マヤ文明自身は西暦800年頃に突然衰退してしまう。番組では人口が増大して食料を賄えなくなったためという説を取っている。しかし異説もある。マヤ文明の暦に秘密があるという説だ。マヤ文明の暦は256年ごとに大きな周期を繰り返している。この大周期が文明の盛衰に当たるという文明観を持った結果、その256年が到来した頃(ちょうどA.D.800辺りだったらしい)に文明の終末を信じて都市から去ってしまったという説だ。もしそうならば、文明観が文明自身の寿命を決めたことになり、大変面白い説だと思う。番組の説に沿っていえば、文明の衰亡を信じた人々、特に農業に当たっている農奴が逃亡した結果、食料調達が不可能になって滅亡した、とも考えられる。また生け贄に勤しんだ結果、文明にとって最大の資源である人間を殺しすぎたとも考えられる。いずれにせよ、マヤ文明も4大文明と同じく人口増による飢饉で亡びた可能性はあるわけである。ここから蘇ったのは中国古代文明だけだ。
 マヤ文明はアステカ文明に受け継がれたが、これもちょうどスペイン人が到来する直前に滅亡状態になっている。
 しかし最盛期にスペイン人の侵略を受け、滅亡してしまった文明もある。インカ文明だ。
 インカ文明は、やはり4000年以上前に勃興したプレ・インカ文明に端を発する。それが長い間に発展し、スペイン人到来の頃、西暦1500年の頃にはアンデス山中にまたがる一大帝国として統一されていた。
 インカ帝国を支えたのは、高度差を利用した農業だった。高地ではトウモロコシやじゃがいも、低地では果物などを作り、栄養を確保していた。さらに、太平洋岸にまで降りて海藻も採っていたらしい。当然、海辺と高地の交易も盛んだったろう。こうして富が蓄えられていったのだ。
 インカの特色は、鉄器も文字も持たなかった点だ。しかし高度な天文学の知識があり、様々な天測用の建築物が建てられた。それが文字の替わりに知識を伝える一助を担ったのだろう。
 インカ帝国の最後は良く知られているように悲惨だ。インカ文明は洗練された技術を持ち、高度な社会組織を持っていたが、こと戦争となると悪逆なまでに強い西欧文明の侵略を受け、ひとたまりもなく亡びてしまった。インカが接触していた文明は、遠距離にまで波及する余力のないメソ・アメリカ文明だけで、それだけに「外部」という意識が希薄だったのだろう。
 人口増による自然破壊で衰亡したメソ・アメリカの文明とともに、インカ文明の最後は文明の本質を垣間見させる。文明とは物差しだ、という説を司馬遼太郎が唱えたが、それに即していえば戦争という物差しの下にインカ文明は西欧文明に敗れたのだ、といわざるを得ない。なぜ物差しとして戦争だったのかといえば、それは偶々だったのではないだろうか。文明が接触するとき、どのような物差しが当てられ、それぞれの文明の「優劣」が量られるかは一様ではないだろう(戦争が多いとはいえるが)。しかし一度交通が成立すれば優劣を定めずにはいられないのが文明の本質だと思う。生まれ出でて以来の孤立で、優劣を量られるという試練を経験しなかったインカ文明の悲劇だったのだろう。
 実は10世紀にはバイキングたちがグリーンランド経由で北米に到達しており、また神話に近いがフェニキア人も北米に植民地を持っていたという説がある。もしそうならば、メソ・アメリカ、さらにはアンデスにまで、これら冒険心に富んだ人々が足を伸ばし、これらの地域の人々が「外部」の実態に触れる機会も皆無ではなかったはずだ。もしもそんなことが起きていたのなら、両米大陸における古代文明の存在も、謎とはならずに済んだのかもしれないのにと残念に思う。
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2000年8月13日(日曜日)

テレビ

テレビ 10:55:00 天気:晴れました
 それにしても、人はなんだってテレビを見つづけるのだろう。
 実家に帰ってびっくりするのは、母や兄がずっとテレビを見ているということだ。朝起きて、夜寝るまで、外出する時間を除いてずっと見つづけている。いや実際にはあまり見てないのだが、暇なときにフッと空虚な時間があるのを避けたいという心理が働いているのだろう。
 しかし僕だって実家にいた頃はそうだったはずで、いつのまにかテレビを見なくても生きて行けるように自分を改造してしまったらしい。その代わりに時間を埋めているのは、まあやっぱりパソコンなんだろうか。あんまり変わり映えしない面は否定できない。何も無い時間は確かに少し怖いからな。
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2000年8月06日(日曜日)

8/6

テレビ 22:45:00 天気:晴れ BGM:HIROSHIMA MON AMOUR/ALCATRAZZ
 またもや爆睡に次ぐ爆睡に尽きた一日。Diablo2やりすぎです、はい。
 さすがに夕方には起きだして、いずみ野方面にちと散歩。本屋に寄って軍事モノのコーナーで立ち読みし、WW2終結時の帝国海軍残存艦艇について当りをつけた。
 帰宅して、夕食を取ってベランダに双眼鏡を持ち出したが、今夜は雲が多くて観望は断念した。そう毎日好機が続くわけがないのだな。
 21:00からのNHKスペシャルは、「オ願ヒオ知ラセ下サイ」。日が日だけに広島の原爆投下にまつわる話題だ。
 広島市街にある袋町小学校は、原爆ドームから500mの位置にある。原爆投下当時、この学校の校舎も大きな損害を受けたが、焼け残った校舎を利用して臨時の救護所が設けられた。
 最近、この校舎がついに取り壊されることになった。そこで壁に塗られた漆喰の一部を剥がしてみると、その下に被爆当時に書かれたと見られる伝言があった。調査のために慎重に壁の上塗りなどを剥がしてゆくに従い、新しい伝言が次々に見つかった。被爆当時、この校舎に人探しの伝言が多数書き出されたことは知られていたが、現代にいたるまで残されていたというのは意外なことだったという。
 広島市のある女性は、その中に姉の名を見出した。その姉は被爆時、路面電車に乗り合わせていたことが分かっている。しかしその後の消息は不明で、今に至るまで生死が確認されていない。女性は、姉が市電から這い出して、川原で息絶えたものと考えていた。それほど苦しむ時間がなかったろうと、そればかりを救いのように考えていた。ところが、やや離れた袋町まで姉が運び込まれていたとすれば話は別だ。姉はかなり苦しんだかもしれない。女性は、そのような複雑な感情を抱いたという。
 しかし、専門家が参加しての解読作業により、実は名前の誤読であることがわかった。そのことを知らされたこの女性はさほど落胆の色を見せなかった。姉はやはりさほどの時を置かずに逝ったのだろうと考えられるからだ。
 誤読された本当の名前の持ち主は、実は袋町小学校の近隣に建つ医院に住み込みで働いていた、別の女性のものであることが分かった。伝言を書いたのは、この女性の世羅郡に住む母親だった。女性の家族は、被爆直後から何度も女性を探しに来たのだが、ついに探し出せず、遂に女性が死んだもの考えるようになった。しかし母親だけは諦めきれず、娘の消息を尋ねる伝言を書き残したのだった。
 情けない話だが、番組を見ながらやはりどうしても目頭が熱くなるの抑えきれなかった。こういう話にはどうにも弱いのだ。被爆直後の極限下で、それでも家族の消息を必死に求める人々の姿には、どうにも心が動かされてしまう。しかしこうした体験を伝えることは、果たして核兵器を無くすという被爆者たちの悲願に、どれほど役立っているのだろうか。
 昨夜のNHKスペシャルで取り上げられたように、核兵器廃絶という目的に大きな意味を持つのは、実は国家と国家の利害を巡っての駆け引きなのだ。新アジェンダ連合を動かしているのは広島、長崎の被爆体験などではなく、核兵器という巨大な火力に自国の国益が損なわれるかもしれないという恐怖なのだ。細かい部分を端折れば、ほぼそういってよいように思う。もちろん、新アジェンダ連合に連なる国々も知識としては日本での被爆体験を心得ているだろう。しかし自国から遠く離れた、しかも過去の死者がどれほど多かろうと、それは自分たちの利益と関わりの薄い事項でしかない。被爆体験という細々とした肉声を除いた数字の塊だけが、これらの国々にとって意味を持つに過ぎない。自国でも同じだけの死者を出すかもしれないという被害可能性だけがこれらの諸国に共有され、非核へと向かう原動力になっているのである。被爆体験は、各国の国益に沿って都合よく類型化されているのだ。
 しかし、実は「被爆体験の類型化」というのは、その発信元である日本でさえも既に進行しているのではないだろうか。僕たちが接する被爆体験は、必ずといってよいほどその悲惨さと残酷さを伝えるものだ。だがなにかがすっぽり抜け落ちてはいないだろうか。それはそのような運命をもたらした者たちに対する「怒り」だ。
 被爆者たちは、そして彼らを目にした人々は、そのような残酷な運命を強いた大日本帝国、そしてアメリカ、さらには当時の世界に対する怒りを抱かなかったのだろうか。そして彼らに直接的に報復しようとは考えなかったのだろうか。
 僕が目にする「被爆者の怒りの姿」といえば、平和公園での座り込みと、世界中の大都市で行われるデモ行進だけだ。だがそれらのお行儀の良い抗議行動が伝えられるものは、「被爆者の悲しみ」といったようなお行儀の良い、清められた「怒り」に過ぎないのではないだろうか。例えばアメリカにとって、自国民でもない日本国民がいかに苦痛を感じようとも、自国の国益になんら影響が無ければ無視しても構わない事項だ。広島、長崎で繰り広げられる抗議行動にせよ、あちこちの政治団体が主催するそれにせよ、アメリカにとっては安保闘争ほどの深刻さすら持たない政治行動に過ぎない。もしかしたら、ある種の風物詩としてすら見ているかもしれない。そして原水禁だの原水協だのといったふうに、政治団体別に無意味に並立する抗議集会の意味付けは、まさにナマの怒りとはかけ離れた純政治的行動に過ぎない。共産党風の、社会党風の「怒り」などにわずかでも意味はあるのだろうか。愚行というほか無い。
 被爆体験にはもっと伝えるべき形があったのではないだろうか。それは例えば、被爆者一人一人が拳銃を手にし、昭和天皇や旧軍部を、そしてアメリカのトルーマン、メイ、アインシュタイン、ファインマン、さらにはエノラ・ゲイの乗員などを暗殺に向かう。そのような直接的な行動でしか伝えられない種類の「怒り」こそが、実は核保有国にとって最大の脅威になりうる「怒り」足りえたのではなかっただろうか。単に「被爆しました。悲しかったです」という作文を送りつけるだけでは、例えばライフ誌のベトナム報道写真ほどの訴求力も持ち得ないだろうと思うのだ。こう考えてくると、被爆体験の持続性というものに対して絶望的な想いを抱かざるを得ない。
 いずれにせよ、被爆者の平均年齢が70歳を越えている今、生の被爆体験が滅却されていくのはもう避けられないだろう。本当に非核の世界を目指すのなら、原爆記念日のたびに金切り声を上げているという様式化された方法論は、いいかげん見直さざるを得ないのではないだろうか。
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