Strange Days

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2000年2月20日(日曜日)

誰もいない部屋

テレビ 23:54:00
 今週の誰もいない部屋。第一の部屋は一見して自己啓発セミナーの講師かと思わせるような部屋構え。トレーナーかなと思っていたら、その通りだった。久々の正解だった。
 2番目の部屋は有名人の部屋の紹介で、いつもは取り上げないのだが、今夜は面白かった。デジタルクリエイター(と昔は名乗っていたような気がするのだが)の高城剛の部屋で、部屋の中には生活の臭いが全く無い。台所のコンロは使われた形跡が無く、冷蔵庫も無い。ベッドがあるだけといっても過言ではない。ではどうやって生活しているのかというと、いつも持ち歩いているバッグに生活必需品を詰めて持ち歩いているというのだ。このバッグにはモバイルPCやポータブルDVDプレイヤーも入っていて、いつ、どこに行っても生活できるというのだ。これが真のモバイラーだぜ。
 最後の部屋は肌に悪そうな乾燥しきった部屋。最初の和室はお茶の道具に造花っぽい生け花(?)。次の部屋ではパスタマシンや筆、絵の具。なにか作っているのは確かという感じ。お茶の葉を使ったアクセサリーデザイナーという説を取ったが、答えは大外れで和菓子職人だった。あんな巨大な和菓子ってのもあるんだねえ。
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2000年2月20日(日曜日)

世紀を超えて

テレビ 20:53:00
 今夜のNHKスペシャルはシリーズ「世紀を超えて」。今夜は20世紀の医療に革命を起こした抗生物質とその耐性菌との戦いの話題。
 今世紀初頭にイギリスで発見された抗生物質は、今世紀中葉には実用段階に達し、急速に世界中に普及していった。抗生物質は医療の現場で猛威を揮っていた感染症の撲滅に大きな力を発揮し、'60年代にはアメリカ保険局によって勝利宣言が出されるほどになっていた。勝利は目前だと多くの人々が考えていた。ところがフレミングが早期に指摘していた通り、抗生物質の多用は耐性菌の顕在化を促す方向に働く。個々の細菌は突然変異によって様々な形質を獲得し、中には抗生物質を無効化出来るものも現れる。そうした特殊な種類の細菌は、抗生物質によって他の種類の細菌が根絶された環境では資源的に有利になり、むしろ増殖を促される事になるのだ。'70年代、'80年代と抗生物質の使用量は増大し、家畜にまで用いられるようになった。耐性菌が増殖する環境は、いたるところに整いつつあった。したがって「抗生物質の多用はやがて大きな失望をもたらすだろう」というフレミングの予言が、'80年代に入って現実のものとなる。
 強力な抗生物質の耐性菌の登場は、医療の現場に大きな課題を与えるものとなった。旧来の医療"習慣"では、医師は患者の病因が細菌によるものなのかを見極める前に、とりあえず万能薬として抗生物質を与えてしまう傾向が強かった。ところが抗生物質の濫用は耐性菌の増殖を促し、場合によっては病状をさらに悪化させるリスクが伴う。そのリスク評価を巡り、一般の医師と、感染症に詳しい医師たちとの間での意見の対立が日常化しているようなのだ。
 医学者たちも耐性菌に手を拱いているわけではなく、新型の抗生物質の開発に余念が無い。しかしこうした抗生物質にも、いつかは耐性菌が生まれてしまうだろう。この戦いに終わりはない。
 全く新しい試みもある。耐性菌の近似種を遺伝子操作し、毒性の無い細菌に変えて役立てようというものだ。この細菌は人体に有害な毒素を全く出さないので、組織が破壊される事はない。しかしこの細菌も増殖のためには資源を消費する。すると耐性菌が独占できるはずの資源が制限され、結果的に耐性菌の増殖が抑えられる事になる。細菌を根絶するのではなく、その増殖をコントロールしながら共生しようという狙いだ。
 その一方、抗生物質の使用もコントロールしようという動きが活発だ。まずは家畜に無制限に使用されていた抗生物質を規制し、さらに医療の現場で用いられる抗生物質も出来るだけ抑制しようという方向で調整が続いている。しかし安い畜肉は抗生物質の使用に支えられてきたもので、一朝一夕には使用を止める事が出来ない。しかしいずれ、リスクと効果を秤にかけながら、妥協点が見出されていくだろう。
 こうして番組を振り返ってみると、20世紀末に登場した新たなキーワードが注意を促しているように思える。共生と制御だ。自然界の事象を敵対的に評価し、根絶と抑圧という暴力的手段を取ってきたのが、産業革命以来の科学的自然観だと思う。しかし20世紀も末になり、そうした科学的自然観が先鋭的になるに連れ、次第に自然界からの反撃も激しいものとなってきた。あるいは反撃、という概念そのものが旧来の科学的自然観に毒されているのかもしれない。
 しかし人為的多様性など比較にならないほど多様な自然界に対し、これ以上征服的な事業を展開できる見込みは既に薄い。無限を相手に勝利できる人間はいないのだ。するとどうしても自然界と共生する事を、その苦い半面と共存していく道を取らざるを得ないのだ。その為には自然界(として科学が観測するものども)の仕組みを抹殺し、人為的な仕組みに作り替えるという旧来の手法を捨てる必要がある。むしろ自然界の仕組みを利用し、その矛先が人間に向くのを逸らすために制御するという道を選ばなければならないだろう。
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2000年2月20日(日曜日)

笑夢っちお別れオフ

暮らし 17:51:00 天気:雨のち曇
 前日、チャットしてちょっと原稿用紙に向かってと遅くなったので、寝たのは5時過ぎだった。起きたのは10:30。意外にスッキリした目覚めだ。今日は長らく研修で東京にいた笑夢くんのお別れ会。明日戻ってしまうのだとか。そそくさと身支度をして出かけた。
 エアコンの気温センサーの申すところ、外気温は5℃。ベランダ観望用のつもりで買っていたダウンのコートが、この所働き詰めである。
 家から渋谷まで75分くらいかなと見込んでいたのだが、実際には1時間程度で着いてしまった。運賃も戸塚までは地下鉄の定期があり、戸塚渋谷間が690円で済んでしまう。横浜の果てのような土地なのだが、結構交通の便はいいのかもしれない。
 渋谷のハチ公口は一目見ただけでウンザリしてしまうような人込みだった。雨のぱらつく寒い日だってのに、この有象無象どもはなにを楽しみに来ているのだ(それをいうなら僕はなんなのだ)。ともあれ、ハチ公口の派出所を見渡せる地下道入り口の側に立っていたら、間もなく笑夢くんがやってきた。
 寒い日なので震えながら久遠さんを待つ。メンバーはこの3人らしい。やはりさすがにオフ続きで、みんな飽きたか。やがて雨がぱらつき始めたので、傘を差して待っていた。
 久遠さんは例によって来ない。いつもの事だなー、と話しながらふと笑夢くんの隣の男性を見ると、なにやらゼッケンのようなものをつけている。よくよく見ると、「UFOの恐怖」なる文字が見えた。また手提げ袋に本を詰め込んでもいた。思わずたま書房の関係者かと疑う。自著を宣伝するつもりなのか、あるいはそれを売り歩くシンパなのかは不明だが、ちとイってしまっている人のように思えた。やがてその関係者かと思える男性も合流し、かれらはそそくさと出発準備を始めた。しかし笑夢くんはその二人に気付いていない。
 笑えるのは、我々二人がそのUFO組二人と隣り合わせで、あまりにも自然に立っているので、どう見ても関係者としか見えないという事だ。しかし個人的には愉快なので黙っていた。
 やがてその二人の異様さに笑夢くんも気付き、密かに慄きながら離れようとした。が、その二人組みは我々を気にも留めず、渋谷の人込みに紛れていってしまった。その行動が妙に気に掛かる我々だった。
 久遠さんは来ない。寒いし雨は降ってるしで気分的に最悪なので、これで見つからなかったら見捨てていってしまおうと、周囲を巡検し始めた。するとハチ公口から久遠さんが登場したではないか。いま来たのかと思って聞いてみると、実はしばらく前から待っていたという事。広場の中央、目立つ場所に立っていた我々に気付かなかったらしい。
 とりあえず飯を食おうという事で、適当な焼き肉屋に入り、カルビ定食を平らげた。コーヒーで一服し、本日のメインイヴェント、Book 1st攻略に向かった。
 Book 1stは一つのビルが丸ごとという巨大な本屋で、久遠さんの証言では他の店ではとても手に入らないような品揃えだという。まずは、というつもりで文学書のフロアを攻めたが、確かに品揃え豊富で、他では見かけないような出版社のものとかがゴロゴロしている。早川、創元の品揃えも豊富だ。だがどこに行っても下巻しかない「キャッチ22」は、ここでも下巻しか発見できなかった。もしかしたら「キャッチ22」上巻だけを買い占める秘密組織でもあるのだろうか。
 我々は文学方面ワナビーである以前に本好きなので、必然的に何冊かの本を買ってしまう事になった。特に当面、もしかしたら一生再訪できないであろう笑夢くんは、10冊前後の本を抱えていた。僕も白水社から出ているヴォネガットの見た事の無い小説、タルフィーこと稲垣足穂(こんなこといってるのは僕だけだが)の小説、それからなにやらもう一冊を入手した。僕の場合は再訪可能なので、焦る必要はないと思った(のだがこうしていると欲しいものが売り切れてしまうのが世の常)。
 まずは、と思っていたのだが、この文学フロアだけで体力を使い果たした一行は、その後は適当な喫茶店で喋くり、明日は仕事なので18:00に解散した。笑夢くんとの別れを惜しむような涙雨の日だった(と心にも無い事をいってみる)。
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2000年2月19日(土曜日)

いのちの日々

テレビ 23:49:00
 その後はNHKスペシャルの再放送で、'93年放送の「いのちの日々」というホスピスの日々を追ったドキュメンタリーだった。
 日本にホスピスの思想が本格的に導入され始めたのは多分'90年代のことだと思う。'90年代に入って、ようやくあちこちの大病院を中心にホスピスが開設され始めたように思う(あるいはなんらかの法改正があったのかもしれない)。長岡の大きな病院に開設されたビサーラ病棟も、そうしたホスピスの一つだった。ここでは死病との無意味な闘争に残された日々を費やすよりも、心安らかに死ぬ道を選んだ人たちが、最新の医療機器と仏教を中心とした物心両面のケアを受けながら、最後の日々を過ごす。恐らく、すべての患者が長岡出身なのだろう。故郷で親族に看取られながらの死を待つのだ。
 ここに入院したある女性は、長岡の夏を飾る大花火大会を心待ちにしていた。しかしその願いをかなえる前、初夏に臨終を迎えた。あるいは悔いは残ったかもしれないが、家族に看取られながら、苦痛を出来るだけ抑制しながらの死は、無数の管を接続されて機械に生かされつつの死よりも、どれほど心安らかになりうるものなのだろうか。
 長らく大工として働いてきたある男性も、やはり花火大会を心待ちにしていた。彼は病棟に設けられた木工室で大工としての腕を揮い、一対のベンチを作っていた。それに座って花火大会を見物するのをなによりも楽しみにしていたのだが、無理がたたったのか当日は車椅子に座っての見物となった。しかしホンの一瞬だけベンチに腰掛け、願いを果たす事は出来た。この男性は夏の終わりには逝ってしまったが、少なくとも満足感はあっただろう。
 長らく東京で暮らし、小料理店を営んできた男性も、故郷長岡で死を待つ道を選んだ。7人兄弟の末っ子という彼は、妻に先立たれたばかりだ。妻と二人で切り盛りしていた店を置いての、心残りのある入院だった。彼は入院後しばらくして、無理を押して上京し、店を知人に譲り渡す手当てをつけて、心置きなく死を迎える事が出来た。
 長岡で薬局を営んできたある女性は、できれば正月を自宅で迎えたいと思っていた。今でこそ在宅ケアが盛んに取り沙汰されてはいるが、番組制作当時の段階ではまだその体制は整っていなかったため、心ならずも病室で迎える新年となってしまった。彼女は自らの生涯を手記につづっている。それは残していく夫や家族へのせめてもの遺産となりうるものだ。次第に悪化する体調に、好きだった川縁の散歩もままならぬようになってしまったが、それでも「心は少女時代のまま駆け回っている」と彼女はつづる。芭蕉の辞世の句、「夢は枯野を駆け巡る」を思わせるような心境に達していたようだ。この女性は番組中では存命のままだったが、放映直後に亡くなったそうだ。
 こうしてみると、それぞれ小さな思いは果たし、確かに家族に囲まれての死ではあるが、実際に死に赴く人々の気持ちは、死を体験した事の無い僕にはうかがい知る事は出来ない。満足感はあったのだろうが、同時に苦い現実を無理に受け入れるような面もあっただろう。しかしこうした必然の、受容の苦みをいくらかでも和らげるのがホスピスの役割であるはずだ。機械に生かされ、死と生の境界が限りなく曖昧になっているような現代医療の現場で、だからこそホスピスは重い意味を持つのだろう。
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街道を行く

テレビ 22:05:00
 今夜の街道を行くは、ここのところ続いている中国シリーズ、45分間の長尺版だ。今夜は中国福建省の回。
 中国には数多くの少数民族が共存していて、福建省にもかつての海洋民族の子孫がひそりと暮らしている。またそうした古い非漢民族圏の風俗も良く保存されている。それは福建省が文明の中心、黄河流域から少し離れ、周囲を峻険な山に囲まれていたためだ。この地は長らく漢民族の視界の外に置かれ、ようやくその版図に組み込まれ始めたのが三国志の時代、呉の臣民が入植を開始してからだという。それ以降、大規模な潅漑によって福建省は大人口を養えるようになり、漢民族の流入が活発化した。
 この潅漑の規模というのがなんともでかくて、広大な湿地帯の水を集めるためのため池(当然、日照りの際には給水もするのだろう)を掘りぬいたというもの。日本の讃岐地方に見られる可愛らしいため池の類とは隔絶したような、ちょっとした湖ほどの規模があるものだ。日本ではまだ文明時代も始まっていない時代に、こうした工事を行えるだけの人間を養っていた漢民族の凄みを感じさせられる。
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2/19の暮らし

暮らし 17:47:00 天気:曇り
 前日深夜まで(どころか夜明けまで)うだうだしていたせいか、目覚めたのは夕方16:00。こんな時間に目覚めてもどうしようもないのだった。わはは。
 まあ明日は渋谷でオフがあるわい(当面、最後のオフになりそう)と思い、とりあえず近場のヨークマートで食材だけ買い込んだ。今夜は寄せ鍋にしよう(しかしそうすると必然的に明日も鍋になる)。
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2000年2月18日(金曜日)

へそがかゆくなるわよ

暮らし 21:45:00
 というのはきんどーさんの台詞だが、昨夜からなんだかへその横がちくちく痛む。最初、毛でも挟まっているのかとゴマを掃除したりしたのだが、触っているうちにへその脇の辺りがちくちく痛むのに気づいた。前にも似たようなことがあって、しばらく(といっても数日)気にしながら過ごしていると、突然腫れ上がってつぶれ、膿が出たところで治ってしまったことがあった。今回も同じような経緯をたどるのだろうか。多少気にしながらも放ってある。
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薄曇り

星見 20:43:00 天気:晴れ時々曇り
 23時くらいまでは空は晴れていたのだが、3時くらいに西に傾いた月を見ようとベランダに出ると、空全体に薄い雲がかかってどうにもよろしくない。
 月には暈が被り、全体に薄ぼんやりと滲んでいる。月の直径の10倍くらいの所にはもう一つ暈が見えた。観望には最悪の条件だが、一つの夜景としては幽玄でもあり、味なものでもあった。
 双眼鏡で見ると月のクレーターまでくっきり見えたので、ものは試しと望遠鏡を向けてみた。失明するかと思った。満月に近い月がこんなに明るいとは。数秒間右目でのぞいただけで月の輪郭が目に焼きつき、数分間消えなかった。ムーングラスというものが必要になるはずである。
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2000年2月17日(木曜日)

2/17の暮らし

暮らし 20:39:00 天気:快晴(寒い)
 帰りが遅かったので望遠鏡は出せず。夜半には雲がやや多かったので、月も隠れていた。
 明日はフレックスで出勤するつもりだったので、夜はかなり夜更かししてしまった。真夜中に外に出てみると、いつの間にか雲が消えて月が浩々と輝いていた。ちょっと路上にでも望遠鏡を出したい気分だ。明日は晴れるといいな。
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2000年2月16日(水曜日)

ベランダ観望の敵

星見 23:05:00 天気:非常に寒い快晴
 それにしてもなんと寒い日なんだろう。昼になっても気温はさほど上がらず、夕方にはまた急激に下がってきた。夜半には零度を下回るほどだった。洗濯物を出しておいたら高野豆腐みたいになったかもしれない。
 早く帰れたのでさっそく望遠鏡で冬の大三角形周辺を眺めてみた。月の沈むのが遅くなり、頭上には月が浩々と凍り付いている。こんな寒い夜には本当に似合いの、冷たく白い月の光だった。月ものぞいてみたかったけど、昨夜決めた脚位置からは見えない。こういう場合には位置をずらして経緯台モードで向けるしかないようだ(極軸を真北に向けることができないため)。
 風があり、肉眼では星が瞬いて見える。望遠鏡の中でも、時々星が霞んで見える。そういう意味ではあんまりシーイングが良くなかった。しかし時折風が凪いでシンチレーションが向上する瞬間が来ると、星は嘘のようにクリアに見える。オリオン大星雲はかなり明るく見えたし、M41も久しぶりに位置が分かった(滅)。高度が低いと街の明かりに邪魔されて、M41のような天体は見難いのだ。しかし今夜はたくさんある星が一つ一つ分離して見え、あまつさえ背後の微少な星々さえ見えてくるような気がした。これは気のせいだろう。今夜は相当に寒く、風もあるので、最後には凍えつつの観望になった。部屋の中で凍死してはかなわんとばかりに望遠鏡を引き上げた。
 それにしても、赤道儀モードで使うと取り回しが悪くなるのには参った。追尾性は高くなるので痛し痒しだ。ベランダの手すりにでも取り付けられる手軽な経緯台でもあればいいのだが。
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2000年2月15日(火曜日)

赤道儀を調節した

暮らし 23:03:00 天気:晴れ(雲量少。寒い)
 夜、雲が少なかったので、望遠鏡の赤道儀を調節した。この望遠鏡、片持ち式赤道儀もそれが載っているカメラ三脚もさすがに剛性不足で、少し手が当たっただけでゆらゆらしてしまう。特にエレベータ(というのだろうか、赤道儀自身が載って上下できる台)を伸ばしたときには甚だしいものだ。逆にエレベータを下げておけばそこそこの強度ではあるが、視点が下がりすぎてファインダーが扱いにくい。また微動ノブの遊びもやや大きいようだ。しかし片手で持ち運べる軽さは本当に助かる。僕のような観望専用の素人には、この気軽に扱える軽さが重要なのだ。重くてベランダに出すのが一仕事になるのなら、やがて使わなくなってしまうに違いない。
 さて、まずは適当に南北を出す。赤道儀の軸をコンパスと見比べながらなるべく正確に北に向けた。それからシリウスを視界の中央に収め、一定時間待って赤経軸を回し、シリウスが上下方向からずれていないかどうかを確認した。まあ赤道儀の軸線の傾き36度がちゃんと出ていると信じてだ。
 すると視界の中でシリウスが上方向にずれていた。望遠鏡の視界は反転しているので、これは視点が下に行ったことを意味するはずだ。シリウスは西に傾いているので、軸線が東に寄りすぎていることを意味する(はずだよな)。そこで少しずつ三脚を回転させながら、大体常に赤経軸の回転だけで視界に収まるように調節した。その時の三脚の接地点をガムテープでベランダに示しておいた。これで設置作業がスピーディになる......はず。欲をいえばもういくつか別の星で試してみればいいのだが、どの道それほど精度を出せないのでこんなものだろう。
 その後、夜半に赤道儀の威力を試してやろうとベランダに出たが、その頃には雲が空を覆っていた。すごすごと引下がった。
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2000年2月14日(月曜日)

2/14のインターネット

インターネット 23:01:00
 ふと日記のアクセスログを見ていたら、いつの間にか虹野アンテナから飛んでくる人が増えている。どういう訳かいつの間にか捕捉されてしまっているらしい。誰かが登録しなければ捕捉されないんじゃなかったのか。まあ正直、嬉しいですけど。
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2/14の暮らし

暮らし 20:59:00 天気:曇り
 憂鬱な月曜日。機械的に仕事を片づけながら眠気に耐える。昼に飲むリポDだけが頼りだ。ってリポDで生きてるのか。
 帰宅して、飯を食った後、久しぶりに原稿用紙に向かった。日記を書いてると仮初めの満足感が得られていかんです、ハイ。今夜は空が曇っているから星を見れないからで、晴見雨書というところか(こんな言葉はない)。
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2000年2月13日(日曜日)

誰もいない部屋

テレビ 23:57:00
 今夜の誰もいない部屋。最初の部屋は一見貧乏学生の下宿風の小部屋。住人は非常に清掃に気遣っており、棚に謎の「もやし」(\8000!)を収納している。炬燵ではみかんではなくりんごを食べ、結構歳らしい。岩手県出身で、住民の職業にはこの職業の者が非常に多いという。
 なんとなく仮の宿っぽいなと思っていたが、答えは杜氏。酒を造る人だ。もやしは麹種だとか。
 最後の部屋は緑系が多い、カエルグッズの部屋。カエル、という辺りで冬樹蛉兄の事を思い出したが、こんないい部屋に住んではおるまいとすぐに捨てた。なにか工作っぽい事をやっているのでトロンボーン奏者かなと思ったら、答えは競艇の選手だった。エンジンと艇体を抽選で選ぶのは知っていたが、プロペラだけは持ち込みできるのだとか。
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ボノボと人間原理

思考 22:51:00
 21:00からのNHKスペシャルは面白かった。今夜はチンパンジーの親戚に当たる類人猿、ボノボを使って文化人類学的な研究を進めているという話題。
 ボノボはアフリカ中央部の森林に住む類人猿で、人類と種族的にはごく縁戚にあるといわれている。非常に賢い猿で、記号を憶え、人間の言葉をも理解するという。アメリカのある言語学研究施設が、このボノボを人工の環境の中で育てる実験を続けている。
 実験を実施しているのが動物学者ではなく、言語学者たちだというのが面白い。この実験の目的は、人類の祖先に近い生態と能力を持つボノボに記号や言語(つまり純人類的な産物)を教え、人類の祖先がどのようにして記号や言語を扱う能力を獲得していったのか、その道筋を類推する手がかりをつかもうという事にある。
 実験施設には2匹の大人と1匹の子供がいる。大人たちは兄妹で、それぞれ多少の得手不得手はあるにせよ、既に記号を扱う能力と言葉を聞き分けて判断する言語能力とをかなり獲得している。彼らは256個(妙に切りが良い数字だが)のアイコンで構成され、押すとそれに対応した言葉が流れる特製のキーボードを使い、ヒトと対話する。アイコンにはモノ、動きという具象だけでなく、形容詞なども含んでいるのだ。
 研究が始まった当初、彼らがどの程度人語を受け入れるか未知数だった。だが実験が進むに連れ、彼らが高い能力を潜在させている事が分かってきた。彼らはヒトとのその場限りの対話だけでなく、時制を意識し、記憶を織り込んだ会話を交わす能力もある。またヒトの思考を推測する能力もある。与えられた課題、例えば「鏡を割るな」というそれに対して、合理的な解を導き出す能力もある(この課題への解は「他の研究者に預ける」というものだった)。
 ボノボの(と書くと直立歩行するラッコを思い浮かべてしまうのだが)こうした高い能力には、他の分野の研究者も注目している。ある人類学者は、ボノボに石器を作らせる事で、人類の祖先が石器を作る様子を類推しようとした。様々な証拠から、現在発掘されている最初期の石器は、2本の手でそれぞれ石を保持し、叩きあわせて作ったものである事が分かっている。ところがボノボは意外にも、片手に石を持ち、地面に転がしたもう一方の石に叩き付ける事で石器を得た。この事からこの研究者は、最初期の石器は想像していたよりも更に素朴なもので、もしかしたら過去の発掘調査では見逃していたかもしれないと考えるようになったという。
 ボノボはその後、両手で石器を作る技術もマスターしたが、その過程で人類になぜ利き腕の概念が発達したのかという問題を解き明かす鍵をも提供してくれた。
 彼らは特製キーボードでヒトと対話するだけでなく、自らチョークを使って記号を描き、意思を伝える能力を獲得しつつある。ボノボの寿命は50年といわれ、彼らはまだ10代なので、ようやく青年期というところだ。その能力をどこまで伸ばすのか、注目に値するだろう。
 この研究は、もちろん言語学的な命題(言語獲得は文化に由来するのか、生物学的装置によるものなのか)にもインパクトを与えるのだけれど、哲学的な命題にもインパクトを与えるだろう。つまり、人間の論理体系は、人間自身から自由なのか、人間の論理による様々な諸認識は、どの程度他の生物に通用するだろうかという命題に。例えば天文学はもっぱら天体の観測や他の(物理学など)分野からの知識を元に、宇宙がなぜこうなのかという答えを探る人間の活動の一つだといえるだろう。しかしそれは果たしてどこまで汎宇宙的なものなのだろうか。人類が地球近傍でたまたま観測しているだけの事象でないといえるのだろうか。科学のごく足下で幾度と無くこうした素朴な、しかし答えられない問いが繰り返されてきた。答えられないのは言うまでもなく、人類が地球以外の別の場所で観測を行った事が無いためだ。ようやく、太陽系内での観測が始まったばかりだ。この問いに対する答えは、人類の活動拠点が広まるに連れ、次第に確証に変わっていくだろう(どっちに向かってかはまだ分からないが)。しかしその天文学も基底に置いている人類の論理は、はたして人類の思考様式から独立して存在できるのだろうか。この問いこそ、人間の論理学、あるいは科学の諸分野に投げかけられた難問だ。人類はいまだ他の論理に出会った事が無いので、それこそ宇宙人にでも出会わなければ解は得られないだろう。
 しかし、とりあえず人類の縁戚であるボノボとはある程度論理が合い通じるように思えるので、懐疑論者以外は多少の安心が得られたかもしれない。
 この実験に関わっている人々は科学者なので、ある程度厳密な手順を踏んでいるのだろうけれど、このボノボが「賢い馬」の類なのではないかという疑いは多少ある。それは実験の事例を他の研究者が検証したり、同じような実験を進めたりする事で明らかになるだろう。
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