Strange Days

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2000年6月17日(土曜日)

今夜の世紀を越えて

思考 23:32:00
 帰宅してふとテレビをつけたら、今夜のNHKスペシャルは世紀を越えてだった。いつもなら日曜日にやるのだが、危ない危ない。
 今夜は今シリーズの最終回、第6回目。実は第5回目を先週録画したまま見てなかったので、順番が逆転してしまった。まあ順番は関係ないシリーズだが。
 今回はシリーズの最終回「自分らしく死にたい」。最終回にふさわしく死を取り上げた。
 アメリカ、オレゴン州では、世界でも例の無い法律が成立し、運用されている。これは余命幾ばくも無く、苦痛を和らげる手段の無い患者に対し、医師が致死量の睡眠薬を処方することを許可する法律だ。医師による自殺幇助と呼ばれている。
 オレゴン州に住むある女性は、肺機能が次第に低下するという病気により、余命半年と診断されていた。彼女は自分がかかった病気に関して徹底的に調べ、自分が既に末期であることと、そしてこの病気が末期に大変な苦痛を味あわせるものである事を知った。彼女は主治医に法律に基づいた自殺用睡眠薬の処方を依頼するとともに、その法律で定められた別の医師による診断を受けた。法律では、まず主治医に処方を口頭で依頼するとともに、余命半年以下であるという診断書を得る。次に別の医師による同様の診断書を得て、初めて書面による処方の依頼をする。そこでさらに時間を置き、再び口頭で処方を依頼すると、初めて自殺用の睡眠薬を得ることができる。それを使用するかどうかは、後は患者の自由意志にゆだねられるのだ。
 この女性は自分の容態が油断なら無いことから、一刻も早く処方を受けたかったのだが、二人目の医師の診断は意外なことに余命1年以上というものだった。
 このような処方を受けた患者は、既に40人以上に上っていると見られている。
 州内の別の女性は、筋肉が無力になる病気にかかり、やはりこの処方を受けた。彼女は自分が完全に無力化し、家族に迷惑をかけることを避けたかったのだ。自分がそのような状態になる前に自ら命を絶つのが、自分の尊厳を守ることだと考えたのだ。死ぬときは自分で決めたい、というのだ。そしてこの女性は、処方を受けた薬を間を置かず服用することに決めた。
 彼女は家族と、処方する医師の囲む中、自宅で服用した。それは彼女なりの尊厳ある死だったが、しかし家族や医師に波紋を投げかけるものとなった。夫は妻の"自殺"に耐えられず、別室に逃れ、しかし進行している事態に耐えられず、さらに車で近くの海岸へと向かった。そこは妻との想い出の海岸だった。彼はとうとう妻の死に立ち会わなかった。
 子供たちも自分を育ててくれた母親の死の手助けをしなければならなかったことに、それぞれ複雑な思いを抱いた。医師にとっても耐えがたいことだった。本来、患者の命を例えわずかでも延ばすことを正義とする医療の現場では、積極的に死へと導くこのような処方への抵抗が大きいのも当然のことだろう。
 この女性は長い眠りの後、そのまま事切れたという。
 医師による自殺幇助への風当たりは強い。オレゴン州の他にも三つの州で同様の法律の制定が叫ばれたが、強い反対にあっていずれも否決されている。また連邦議会でも強い非難を浴び、医師による自殺幇助を禁じる法律の制定も目論まれている。「死へと逃れることなく、一分一秒でも長く生きることが絶対的な正義だ」というわけなのだろうか。だがそれはどういう正義なのだろう。
 最初の女性はこの動きを見ながら、「あの人たちは本当に死にかかっている人間の事などわかってはいない」と切り捨てる。彼女の苦しみの質を理解してないというのだ。「あの人たちは私を拷問にかけている」とまでいう。彼女はそこまでして生きる意味がないと感じている。しかも耐えがたい苦痛に耐えながら生きるなんて。それを命を危険に曝されてもいない議員たちが勝手に「生きろ」と命じるのは耐えがたいことだ、ということなのだろう。
 しかしオレゴン州のこの法律は世界に類例の無いものだ。日本でもホスピスの普及などによって終末医療への関心が高まってはいるが、積極的な自殺やその幇助までは視程に入っていない。苦痛を和らげつつ、末期の時を自然に迎えようというのがその全てだ。日本でも短い生を続ける意味を見失い、自殺を図ったり、周囲に殺害を依頼する患者がいるという。だがそれらは心のケアにより、かなりの程度回復できるものらしい。だが最初の女性の例でいえば、その苦痛は心の不安とは別の次元に属するといえる。
 オランダでは、積極的に医師による自殺「介助」が認められている。自殺幇助というレベルではなく、医師により致死性の薬物の注入などが、社会全体で容認されているのだ。余命幾ばくも無く、治療方法が無く、苦痛を緩和する手段も無く、本人の意思が明示されている場合、オランダの医師は患者の命を終わらせる手助けができるというのだ。この場合、医師に関しては犯罪として記録に残るものの、罪に問われることは無い。そしてこの慣習を法律化しようという動きがあり、成立する見込みだという。日本でも積極的な自殺介助は認められていないものの、自殺介助の基準(それを逸脱すれば殺人に問われる基準)としてオランダのそれと同様のものとする判例が出ている。
 このように、死生観は変わりつつある。生を絶対的な正義とみなす近代の死生観は、生をそれを遂行するに足る価値があるかどうかで決める、相対的な死生観へと取って代わられつつあるように見える。しかし注意しなければならないことは、死が個人的な価値観では決して決まらないものだということだ。その意味では死の価値(生の価値でもある)は、以前から相対的であるのがふつうだったということだろう。僕たちは、生がたまたま絶対的な正義であるかのように映る異常な時代を生きてきたというに過ぎないのではないか。
 そして死は死する者だけにとって意味を持つのではない。残されていく家族の痛みを思えば、死する人は長く痛みを耐えなければならないと感じるかもしれない。逆にその痛みを思うとき、周囲の人々は、そして医師は死の痛みに耐えなければならないのかもしれない。その判定基準を死する当人へと委ねようというのが、僕たちが受け容れつつある新しい死生観の正体なのではないだろうか。いずれにせよ、死は案外多くの時代、その個人の自由意志に委ねられてきたように見える。
 最初の女性は、二人目の医師による診断を得られないうちに、とうとう激しい呼吸困難のうちに死に至った。逃げているのではと勘ぐりたくなるような二人目の医師の態度や、連邦議会での対抗法案制定の動きなどの雑音に悩まされながらの最期は、さぞかし不本意だったろう。
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2000年6月16日(金曜日)

皇太后逝く

思考 20:27:00
 皇太后、つまり昭和天皇の奥さんが亡くなった。この場合は明らかに神式なので、きっと冥福は祈っても差し支えないだろう。仏教的には冥福など無意味だろうから。
 激動、というにもあまりにも凄まじい疾風怒濤の時代となった昭和を生き通した彼女の生涯は、春風駘蕩とした平安時代の皇后たちとは質的に異なっていただろうと思う。昭和天皇が戦争を始めたとも終わらせたとも思わないが(とはいえ無関係ともいえない)、彼女の内助の功が昭和天皇を支え、戦争終結に多少なりとも好影響を与えただろうと評価したい。敗戦という局面で、夫が、そして自分が戦犯に問われないか不安の日々を過ごしただろう。もちろん、天皇制を支えたという意味で、WW2時のおびただしい死者に責任を負わねばならない立場だったともいえる。しかしそれは、おおよそ個人が負いうる責任の範疇を逸脱しているのではないか。むしろ天皇という神格的個人に国家の存在理由の根拠を置いた戦前の日本が間違っていたのだというべきだろう。
 彼女には冥福よりも必要なものがあるはずだ。お疲れ様、そしておやすみなさい。
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2000年6月13日(火曜日)

幽霊

思考 23:29:00
 結構怖い心霊話サイトを見つけた。 ここはテケテケもの、湖から無数の手ものなどの類型が少ないので、なかなか楽しめるサイトだ。といっても夜遅くに読む気にはなれませんが。
 こうした心霊話に仏僧(フランスの坊さんにあらず)が出てきて人間の霊魂に関して実しやかに説諭するということがしばしば書かれているのだが、これは本来の仏教からいえば噴飯もののことなのだそうだ。本来、仏教は魂のような永劫普遍のものの存在を認めていない。これが絶対神だのなんだのを教義とする他の宗教との違いだ。我々が目にするところの世界には、永劫普遍に変わらぬものなど何一つありはしない。そのような観測から、移ろい行く諸々のものへの執着を捨てるために修行し、そのような心の平静を得よというのが仏陀の主張らしい。何かをひたすら信ぜよとは説いていない。原始仏典には「信仰を捨てよ」とまであるという。原始仏教は自らを信仰ではないとみなしていた、ということらしい。
 そういう本来の仏教の姿からすれば、事あるごとに魂だの死後の世界だのが語られ、織田無道のような人まで闊歩する日本の仏教は堕落しているともいえる。しかし古来からの御霊信仰とシームレスに接続できる霊魂説を採らないで仏教の興隆があったとも思えない。
 急いで付け加えておくと、仏教では魂の存在を否定してはいない。しかしそのようにあるのかないのか分からないものを語ることは無意義だという立場から、少なくとも原始仏教では魂に関して何も語っていない。仏陀も「魂はあるのですか」とか「死後の世界はどうなのでしょう」とかいった人間の知覚の及ばない世界に関する質問に対し、沈黙を守ったという。そのようなあるのかないのか分からない事に関わりあうよりは、現実に存在する病老貧苦などの災いを克服せよというのが仏陀の態度だった、らしい。
 こんな話を聞くと、例えば超心理学の発展で霊魂や死後の世界の実在が明らかになったら、仏教者はどうするのだろうと思ってしまう。それを取り込んだ新しい教義を発展させるのだろうか。それとも所詮外道の説として切り捨ててしまうのだろうか。確かに、人間の知覚と言う問題に関して、現代科学と仏教とでは大きな隔たりがあるように感じる。
 ともあれ、仏教的には魂は「無い」として良い。少なくとも、それは人間には知覚し得ない世界のことだ。また科学的、唯物論的な態度を取っても魂は存在しない。幽霊なんていやしないのだ。
 とまで考えてはいてもやっぱり幽霊は怖いのである。だって、我々の想像も及ばぬなにかが存在するかもしれないじゃないですか。それを僕の頭のどこかが恐れつづけているのだ。
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2000年5月30日(火曜日)

怪談

思考 22:27:00 天気:まあくもりかな
 夏が近づくと活発化する怪談サイト。(主にマシンの)暑さにうなされつつうろつきまわった。
 定番の新潟発・ちょー電脳心霊怪奇倶楽部を見に行くと、そろそろ怪談の登録が増え始めているようだ。テケテケもの、「死ねば良かったのに」ものも相変わらず元気だ(なにがだ)。しかし定番ものと、落ちに由縁話がついたものはいまいち怖さに欠ける。やはり日常でいかにも起きそうな、しかも落ちらしい落ちの無いような話が恐い。最近結構恐いと思ったのが、鏡を見続けていると、自分の横の何も無いところに顔が見えてきたというもの。これは精神医学的には良く知られている現象で、一応の説明がつくものではある。しかし何かしらその説明では包括しきれないような、不気味な印象をぬぐいきれない現象でもある。光学的には鏡というものは単純な現象だが、そこに人間が見出す印象は複雑で、豊穣なものだ。どこかに死角があるのではという期待を持てそうな気がするのだ。人間の精神の内部は複雑だし、自然界はなおさら複雑だ。光学という人間の創造物では割り切れないなにかが。
 なんて事を考えていると、歯を磨きながら鏡を見ているだけで恐くなってくる(爆)。このままではまたお化けが恐くて眠れなくなってしまうので、早々に布団に潜り込んだ。
 自分ではかなり強固な科学主義者で唯物論的な思考傾向だと思っているのだけれど、なぜだかお化けは恐い。情けない奴である。
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2000年5月16日(火曜日)

ともに生きる

思考 20:04:00
 僕たちは様々な身体的機能差を持つ人々と共存している。なぜかこのところ足を骨折した人を街中でよく見かけるのだが(スキーで足を挫いたのかな)、こうした人々は一時的な身体機能差を獲得したと考えるべきだろう。職場には事故かなんかで片腕を切断してしまった人もいる。
 なかでも不自由そうなのが視覚障害者だと思う。目が見えているのならば、自分の能力に合った行動パターンを選ぶことで、危険を低減できることだろう。しかし目が見えてないと、自分の現在位置を見失ってしまえば、今自分が危険なのかどうかさえもわからなくなる。人間の生活に視力による検証というものが濃厚に盛り込まれている以上、もっとも割を食うのが視覚障害者だろうと思うのだ。
 東京かどこかの鉄道で、視覚障害者が発車直後の車両に引っかかり、数十メートルも引きずられて大怪我をするという事故があった。被害者はこの鉄道会社を告訴している。鉄道会社は一応点字案内板と点字パネルを巡らせてはいたのだが、それは視覚障害者の事故を防ぐには不十分だったというわけだ。視覚障害者の事故を防ぐには、車両とホームを分離する柵とドアが必要だと被害者と支援者たちは主張している。ちょうど新幹線の新横浜、新神戸駅のホームの装置が該当するのだろう。
 彼らはこのような装置が鉄道会社に過大な経済的負担を与えるものではなく、また必須のものだと主張している。視覚障害者が今のように狭いホームを安全に通過するのは、利用者の多さとともに確かに困難そうな感じがする。だって、満員のホームの端に立ってる時、すぐ横を列車が発車していくのは怖くありませんか?
 しかし経済的負担が小さいというのはどうだろう。経済的負担というものは負担に見合った効果によって大小が云々されるものだ。この場合、健常者にはさほどうまみが無い。今の方式の制約の少ないホームの方が、様々な行動をとりやすいからだ。歩行障害者にとっては難所になる高さ20cmほどの段差も、それを難なく飛び越えられる健常者にとっては、長さ2mほどのスロープと手すりのコンビよりは好都合なのだ。スロープと手すりの工費は、健常者にとっては無用な負担と解釈しうる。もちろん、その段差に引っかかって転倒してしまうこともあるだろう。しかし日常的に問題なく通行できている健常者は、そのような不測の事態を都合よく忘れてしまえるものなのだ。
 同じように、それなりに運動の自由な健常者にとって、ホームの幅を実質的に狭めてしまう柵は邪魔に感じられるだろう。
 この訴訟に関わる支援者が作るサイトを僕が見たときに感じたのは、なぜだか怒りに近い不快感だった。それは民事訴訟にありがちな「私は悪くない!」「あいつが悪いんだ!」「あいつは社会の敵だ!」というややヒステリックになりがちなトーンを感じ取ったからだというのもある。しかしそれとともに、原告側が主張する「健常者へのメリット」が胡散臭く感じられたからだというのもあったのだ。要するにそんな負担は不要なのではないか、と。
 果たしてそうだろうか。「健常者」にだって運動や視覚の機能に差があるのはまず間違いない。万人が青年期の体力を維持できているわけではないのだ。老年期に入ると、体は健やかでも体力は着実に落ちてしまう。同じように視力も着実に落ちてくる。そうなってきて始めて、それぞれの障害者の主張する「健常者」へのメリットも実感できるようになるだろう。僕個人にとっては、今は幸いにして想像の域にとどまっている。しかしそれを実感する日がくるのも、まず間違いないことだ。
 このように、本当に人間にとって住みよい社会を作るには、様々な局面で想像力を要求される。思いやりという言葉に代表させたくは無いが、それも人間が持つべき想像力の一つだと思う。この点で、障害者とその支援者たちは日々を迂闊に生きる僕のような「健常者」よりもはるかに先達だ。この件をしばらく考えてみて、少しばかり蒙を啓かれる思いがした。
 しかしながら、社会全体を見ると、こうした想像力が発揮される余裕が失われているようなのが気にかかる。犯罪者、特に若年犯罪者に対する論調の険しさだ。なんというか、問題のすべてを犯罪者当人に求めようという姿勢が気にかかる。確かに純粋に個人の責任に帰すべき犯罪もあるのだろう。しかし多くの犯罪が社会的に醸成されてしまうものであるという認識に立てば、彼らは結果に過ぎない。終わりの無いもぐらたたきゲームに興じながら、そのゲーム機の存在に気づかないような迂闊さを秘めてしまっているように思える。
 逆に全てを社会に帰す姿勢も歓迎できない。個人の行為が社会と個人の相互作用のなかで生み出されていく以上、個人と社会という二つの地点の間のどこかに、本来求めうる力点があると思うのだ。そしてそれがどこにあるのかを推し量るのに必要なのが、結局は「健常者」を「障害者」へと敷衍していくような想像の目なのではないだろうか。犯罪の要因を個人に求めれば事足りるとする姿勢は、結局のところ人間を社会に関連無く点在するだけの個人として孤立させてしまうだろう。
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2000年4月20日(木曜日)

地下車道

思考 20:44:00 天気:雨のち雨(なにがだ)
 さてさて、今朝は朝から雨だ。傘を差して駅に向かう道すがら、国道の横断歩道の少なさと、信号間隔の長さにあきれ果てる。これなら歩道橋の方がいい。もっともこれは僕の主観によるものだが。
 歩道橋も万能ではないのは確かだ。金がかかるし、体の不自由な人には大層つらいものだと思う。しかし常時横断可能になるという利点はありがたい。
 金がかかるのはどうしようもないとして、体の不自由な人にとって障害にならないような歩道橋は作れないのだろうか。要するに歩道橋は車と歩行者の通行空間を分離させるものといえる。それなら車のほうを上にすればいいのだ。これが恐らく都市高速の発想の原点だろう。ところが都市高速のような巨大な構造物を街中に作ることは、都市空間の有効利用という観点からは優れた策といえない。なら車の方を地下に追いやってしまってはどうだろうと思うのだ。車道を都市の地下に張り巡らし、地上はあくまで歩行者の空間とするのだ。
 すると騒音問題がかなり解決する。地下車道を密閉型にして、防音壁で囲めばシャットアウトできるだろう。そうすると大気汚染が心配になるが、これも強力な空調装置を巡らせれば問題にならないのではないかと思う。それを外気と交換する際に、フィルターなどで清浄化すれば、都市部の大気汚染も改善されるのではないだろうか。ヒート・アイランドの問題も含めて、要するにこれらはアン・コントロールドな場所に原因があるから対処できないのだから。
 しかし歩道と車道を完全に分離してしまうと、タクシーやバス、あるいはもっと単純に自家用車での外出の際などにいろいろ困ってしまうだろう。したがってスポット的にでも車道が地上に出ている場所が必要になると思う。エレベータなどで結ぶという手もあるが、利便性という点で大きく劣ってしまうのは避けられない。
 この程度の発想ならたぶんゼネコンの企画室とかで扱われていることだろう。しかし一向に話題にならないのは、都市の地下空間の再利用の難しさ、ありていにいって高くつくという点に尽きるのだろうと思う。それならば予め地下利用を前提とした都市計画を立てればいいのではないか。要するに都市開発区域の地下を予め人工建築物化しておけば、後々に再利用する際にも有効に働くはずだ。
 もっとも、これほどまでして地下利用に執着する理由は日本国内では無いかも知れない。日本では都市の建設可能な場所は、すでにあらかた使い尽くされているからだ。北米のように土地に恵まれた場所ならば、こうしたビジョンも有効なのかもしれないが。
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2000年4月15日(土曜日)

寝週末と心霊体験

思考 20:23:00 天気:雨
 せっかくの週末だというのに雨。出かけるのも本を読むのも面倒になった僕は、日がな一日寝てすごした。日ごろの睡眠不足をまとめて解消しようとでもいうのか。
 世の中には寝溜めができるという人もいるようだが、僕はまったく駄目だ。最近、星を見る習慣が出来たので、帰ったらすぐ寝て、夜中に起きだして星を見た後で、また寝るという生活をしている。一応、一日7時間程度の睡眠時間は確保できているはずだ。ところが体の方は明け方までの数時間の睡眠しか憶えていないらしく、目覚めると肉体はなお睡眠を欲しているのだ!(単なる寝不足という意味だが) 要するに帰ってすぐ寝る分はあまり意味が無いのだが、その頃には睡眠不足で意識不明寸前なので、どうしても寝ざるを得ない。
 そういうことで週末に寝まくってもあまり意味が無いのだが、半分眠りかけつつも頭はさめているという状況が好きなので、ゴロゴロしていることにした。この状況で様々な論理の飛躍が果たされるということは、今読んでいる「臨死体験」にも出ている事例である。この状況では、通常の負荷にさらされつづけている状況では果たせない種類の情報処理を、無意識のうちに遂行しているようだ。
 この半覚醒状態では、ココロとカラダの同期がずれて、通常では体験できない現象が起こることがあるという。事実、僕はオカルト用語でいう幽体分離と思しき現象を何度も体験している。誰もが体験するであろう金縛りの状況で、強く外界の事を想うと、視点のみが想った場所に移動する。カラダから抜け出して、部屋の中を漂い、さらには屋外に出て空を自由に飛ぶことが出来る。それも非常にリアリティを伴った体験なのだ。ところが、後で言語化しようとすると、実は体験の細部が非常にあいまいで朧であることに気づくのだ。思うに、「明瞭であると感じること」と「体験の細部まで明瞭に記憶すること」はまったく別種の体験なのだと思う。ここで前後の体験を等号で結んでしまう人は、無意識のうちに日常得ている他のデータを拝借してきて、結果的に「明瞭な体験」そのものを捏造しているのではないだろうか。
 まどろんでいて眠りに落ちる寸前で頭に浮かぶ映像は、時たま非常に明晰なものになる。これも僕が体験するところの幽体分離と同質の体験なのかもしれない。このことを考えてみると、人間の想像の不明瞭さは、実は身体感覚というノイズの存在ゆえのものなのかもしれないと思われる。眠り込む寸前、カラダの感覚が消失し、想像のほうのリアリティが向上する。そこで人間の恐怖心やその他の性質が幻視させるのが様々な心霊体験の正体なのではないだろうか。事実、金縛り状態で「のどを締め上げる腕」だとか「背後に添い寝する誰か」を想像すると、その通りのものを体験できる。それを消すように強く念じると、その通りに消えてしまう。明らかに幻覚なのだ。まあこれは、僕個人の体験という、それ自身では一般化も解析も出来ないモノに依拠しているのだけれど。
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2000年4月04日(火曜日)

仮想世界と信頼性

思考 22:53:00 天気:くもり
 むー、けだるい一日。
 疲れ目がきつかったので、1分仕事しては1分休みという感じで目を労わりながら(というか酷使しながら)終日過ごした。
 帰って寝る前にチャットをしていると、各種コンテストの話題が出ていた。神奈川新聞の30万円/15枚という文芸コンテストは割が良さそうだ。が、15枚などという短さで何を書けることやら。
 それよりエルフ(18禁ゲーの雄)が主催しているゲームコンテストの方が凄いかも。こちらは1000万円だ。いったいどういうゲームを望まれているのか不明なのだが(18禁じゃなくても可らしい)、ひとつJava3DでQuake系ゲームでも組んでみるか(同案多数かも知れず)。
 文藝に命をかけることを誓った(誰にだ)僕ではあるが、20世紀末の一大消費文明の中を生きてはいるので、やはりゲームにも色気がある。ネットワーク接続が様々な形で提供されていく事になる近未来では、それがゲームに与えるインパクトも巨大なものになるだろう。今のようなコンシューマーゲーム機の世界は、案外に長生きできないのかもしれない。UO2やDiablo2が未来のゲームを垣間見せてくれるだろうか。それともまったく新しいコンセプトのゲームが登場するのだろうか。この先、携帯電話の高性能化などで、普通の人々も含めてますますゲーム世界での滞在時間が長くなるだろう。そうするとゲームの中ですべての生活を送れること(例えば日用品を届けてもらえるように手配すること)が望まれるようになると思うのだが。そういう推測からは、ゲーム世界とショッピングモールが一体化するのは、もう時間の問題だと思う。信用の置ける決済手段が確立されれば、ゲーム世界の形は大きく変わっていくのではないだろうか。逆に今ゲーム世界(はもとよりインターネットそのもの)の足かせになっているのが、信用の置ける決済手段がないという点に尽きるのではないだろうか。
 電子出版が取り沙汰されているが、現状では紙に取って代わるのはかなり難しいだろうと思う。可読性云々のハード的なハンデも大きいのだが、100円、200円といった小額決済が簡単には出来ないという点も大きいと思う。店員と直接顔を付き合わせたまま、商品と貨幣を直接交換する。この信頼性の高い決済手段に変わる電子決済が登場しない限り、小額商品を取り扱う電子出版(ようするに最大のマスを望める分野)が確立できる望みは低いのではないだろうか。むしろオンデマンド出版のように、現状の紙出版を補完する形での電子出版に可能性がある。
 要するに、ゲームにせよなんにせよ、信頼の置けないものに金を払いたくないのが人情というものだし、物の道理だろう。
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2000年3月21日(火曜日)

耳に残るあの曲

思考 20:05:00 天気:晴れ BGM:TAISO/YMO
 数日前から頭の中をぐるぐる繰り返されている曲がある。ハミングできるくらい曲も音も明瞭に覚えているし、いかにも英語圏のロックらしい歌詞も書き出せそうな気さえする。音的にアンスラックスのような気がするがインペリテリだったような気もする。まあ音的にはスラッシュぽいのだが(アンスラとインペリでは、やすきよとダウンタウンくらい違う)。
 こういう時に頭の中の"音"を取り出す技術はどれくらい可能性があるのだろう。音とはもちろん主観的なものだが、絶対音感とかあるいはもっと素朴に譜面というものが成り立っている事を考えると、ある程度客観的にも成立しているように見えるのだ。人間の頭の中で起こっているあまりに複雑な事件を再現する事は不可能かもしれないが、もしも可能ならば従来の芸術論に大きなインパクトを与えるだろう。音を取り出せるなら文章だって取り出せるはずで、やはり文藝へのインパクトも大きそうだ。
 音楽家にしても小説家にしても、譜面や原稿用紙という客観的なモノの上にごく個人的なモノを展開できるのが面白い。音楽や小説という個人的な世界が、譜面上の音符や原稿用紙の上の文字という抽象的な記号列に置き換えられ、それらはさらに受信者によって様々な解釈をされる事で超個人的な発展を遂げていく。
 まあ記号列というものが客観的な存在であるとするのは一種の信仰なのかもしれないけれど、先の構図からすればこれらがボトルネックになっている事は確かなような気がするのだ。それを脳内の情報(と決め付ける事で科学的価値観に屈従しているのかもしれないが)を直接やり取りする事で、乗り越える事は出来ないだろうか。記号がもたらす客観化を回避する事で、個人的な情報をあくまで個人的なままに受け取れないだろうか。
 しかし個人的な情報はあくまで個人の内部にしか成立していないという観察からすると、いったん記号化しない限り個人の内部情報を他者が受け取る事は出来ないような気もする。つまり生の個人情報を受け取ったところで、それを解釈する手がかりが無い限り、無意味なノイズに過ぎないだろう。記号化は情報を共有化する上で避け難い作業なのかもしれない。
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2000年3月15日(水曜日)

速さ

思考 20:48:00 天気:曇り
 眠さに死にそうな日だった。ゆっくりフレックスで出勤したかったのだけど、全員出席が求められた予算説明会が朝早くにあったのでそうもいかず、その説明会の途中で眠りこけそうになりながらなんとか乗り切った。
 こういう時に後ろの方から眺めていると、真剣に聞き入っている者、内職している者、寝ている者が一目で見分けられて楽しいもんだ。期末が近づいているせいか、睡眠不足の向きも多いようだ。不思議な事に、同じような生活をしながらも、十分寝足りている人とそうじゃない人の差が生じるのだ。あたり前の事だけど、人は一人一人体質も生活のリズムも違うのだ。本来ならば。
 しかし社会で生活する限り、社会が強制するリズムに合わせて生きていかざるを得ない。例えば、9:00に出勤して17:00に帰るという生活だ(実際にこの通りに生きている人は少ないだろうが)。現代人は都市で生きる限りなんらかの形で生きる速さを強制される事になる(今や田舎も小都市という位置付けに過ぎないのは言うまでもない)。特に企業で生きるサラリーマンにはそれが著しい。僕たちは母親の膝の上を離れて這い始めた時から、いつの間にか本来自分のものでない速さで歩く事を強制されてきた。
 なぜ速さを強制されるのだろう。それは結局のところ文明の本質がそうだからと答えざるを得ない。現代が文明優勢の時代である事はほぼ断言できそうに思う。ふつうは文明対文化という視点は成立し得ないのだが、個人の速さというものに対する作用という点では、この二つは鋭く対立している。
 文明の本質は汎的である事だ。文明とは異なるモノどもに同じ物差しを当てて行く作業に他ならない。そして物差しというものが登場する以上、その物差しで指し計れる数値以外の何者も無視される運命にある。酒池肉林の生活を送り無頼の日々を送るA氏と、花鳥風月を愛で詩的精神世界に生きるB氏は、同じ仕事をこなす以上、企業にとっては同じ人間に過ぎない事を意味する。この事は両氏にとって有利にも不利にも働く。
 しかし高度に細分化された専門分野での仕事を除けば、大部分の企業人が決められた手順をこなす事だけが求められる。どのような作業も、それが決められた基準に沿う事を求められる以上は、ルーチンワークの域を出ない事は言うまでもない。残念な事に、創造性を求められるような作業はごく少ないのだ。となると、どんな人が担当しても、その結果に質的な差は少ないだろう。いや、実は順序が逆だ。質的な差が生じないように、基準に沿って作業する事が求められているのだから。
 質的に差が出ないのなら、量的に差を付けるしかない。時間当たり多くの仕事を処理できる者が有利になる。ここでようやく速さの話に戻ってきた。つまり、企業というものの内部で生きる以上、質的な差などほぼ問題ではなく、量的な差だけが評価される事になる。その結果、多くのごくあたり前の能力しか持たないサラリーマンは、朝早くから夜遅くまで働き詰めになり、道を早足で歩き、発車間際の電車に駆け込んでコートの裾を挟まれる事になるのだ。
 唐突な思い付きを書くと、学校とは、人に社会で(企業で、ということとほぼ等価)生きるための術を学ばせる場所だと思う。事に小中学校では様々な形で速さを守る事を教え込まれる。その意味では学校とはどこまで行っても非人間的な存在に過ぎないのだろうと思う。この事を忘れて、学校を人間の本質を伸ばせる素晴らしい場所である"べき"だ等と規定してしまうと、どんな教育政策もうまく行かないのではないだろうか。学校は概ね会社人間を作る場所である、という確信を持った上で、それでも幾ばくかでも個人個人の抱える差異を残してやろうという方法論以外、教育の現場では生き残れないのではないだろうか。
 こんな事を取り止めもなく、会社のマシンでコンパイル終了を苛々と待ちながら考えていた。恐らく、出来ればこんな事ばかり考えている社員は、どんな会社だって欲しく無いだろう。
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2000年2月13日(日曜日)

ボノボと人間原理

思考 22:51:00
 21:00からのNHKスペシャルは面白かった。今夜はチンパンジーの親戚に当たる類人猿、ボノボを使って文化人類学的な研究を進めているという話題。
 ボノボはアフリカ中央部の森林に住む類人猿で、人類と種族的にはごく縁戚にあるといわれている。非常に賢い猿で、記号を憶え、人間の言葉をも理解するという。アメリカのある言語学研究施設が、このボノボを人工の環境の中で育てる実験を続けている。
 実験を実施しているのが動物学者ではなく、言語学者たちだというのが面白い。この実験の目的は、人類の祖先に近い生態と能力を持つボノボに記号や言語(つまり純人類的な産物)を教え、人類の祖先がどのようにして記号や言語を扱う能力を獲得していったのか、その道筋を類推する手がかりをつかもうという事にある。
 実験施設には2匹の大人と1匹の子供がいる。大人たちは兄妹で、それぞれ多少の得手不得手はあるにせよ、既に記号を扱う能力と言葉を聞き分けて判断する言語能力とをかなり獲得している。彼らは256個(妙に切りが良い数字だが)のアイコンで構成され、押すとそれに対応した言葉が流れる特製のキーボードを使い、ヒトと対話する。アイコンにはモノ、動きという具象だけでなく、形容詞なども含んでいるのだ。
 研究が始まった当初、彼らがどの程度人語を受け入れるか未知数だった。だが実験が進むに連れ、彼らが高い能力を潜在させている事が分かってきた。彼らはヒトとのその場限りの対話だけでなく、時制を意識し、記憶を織り込んだ会話を交わす能力もある。またヒトの思考を推測する能力もある。与えられた課題、例えば「鏡を割るな」というそれに対して、合理的な解を導き出す能力もある(この課題への解は「他の研究者に預ける」というものだった)。
 ボノボの(と書くと直立歩行するラッコを思い浮かべてしまうのだが)こうした高い能力には、他の分野の研究者も注目している。ある人類学者は、ボノボに石器を作らせる事で、人類の祖先が石器を作る様子を類推しようとした。様々な証拠から、現在発掘されている最初期の石器は、2本の手でそれぞれ石を保持し、叩きあわせて作ったものである事が分かっている。ところがボノボは意外にも、片手に石を持ち、地面に転がしたもう一方の石に叩き付ける事で石器を得た。この事からこの研究者は、最初期の石器は想像していたよりも更に素朴なもので、もしかしたら過去の発掘調査では見逃していたかもしれないと考えるようになったという。
 ボノボはその後、両手で石器を作る技術もマスターしたが、その過程で人類になぜ利き腕の概念が発達したのかという問題を解き明かす鍵をも提供してくれた。
 彼らは特製キーボードでヒトと対話するだけでなく、自らチョークを使って記号を描き、意思を伝える能力を獲得しつつある。ボノボの寿命は50年といわれ、彼らはまだ10代なので、ようやく青年期というところだ。その能力をどこまで伸ばすのか、注目に値するだろう。
 この研究は、もちろん言語学的な命題(言語獲得は文化に由来するのか、生物学的装置によるものなのか)にもインパクトを与えるのだけれど、哲学的な命題にもインパクトを与えるだろう。つまり、人間の論理体系は、人間自身から自由なのか、人間の論理による様々な諸認識は、どの程度他の生物に通用するだろうかという命題に。例えば天文学はもっぱら天体の観測や他の(物理学など)分野からの知識を元に、宇宙がなぜこうなのかという答えを探る人間の活動の一つだといえるだろう。しかしそれは果たしてどこまで汎宇宙的なものなのだろうか。人類が地球近傍でたまたま観測しているだけの事象でないといえるのだろうか。科学のごく足下で幾度と無くこうした素朴な、しかし答えられない問いが繰り返されてきた。答えられないのは言うまでもなく、人類が地球以外の別の場所で観測を行った事が無いためだ。ようやく、太陽系内での観測が始まったばかりだ。この問いに対する答えは、人類の活動拠点が広まるに連れ、次第に確証に変わっていくだろう(どっちに向かってかはまだ分からないが)。しかしその天文学も基底に置いている人類の論理は、はたして人類の思考様式から独立して存在できるのだろうか。この問いこそ、人間の論理学、あるいは科学の諸分野に投げかけられた難問だ。人類はいまだ他の論理に出会った事が無いので、それこそ宇宙人にでも出会わなければ解は得られないだろう。
 しかし、とりあえず人類の縁戚であるボノボとはある程度論理が合い通じるように思えるので、懐疑論者以外は多少の安心が得られたかもしれない。
 この実験に関わっている人々は科学者なので、ある程度厳密な手順を踏んでいるのだろうけれど、このボノボが「賢い馬」の類なのではないかという疑いは多少ある。それは実験の事例を他の研究者が検証したり、同じような実験を進めたりする事で明らかになるだろう。
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2000年2月05日(土曜日)

2/5の思考

思考 23:55:00
 そうそう。前に書いた「つかぬことをうかがいますが……」の原著を出したNew Scientist誌はアメリカではなくイギリスの雑誌でした。イギリスの方々、ごめんなさい(こんなページ見てないと思うね)。
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2000年1月02日(日曜日)

日本人はつらい民族だ(司馬曰く)

思考 19:31:00
 「つかぬことをうかがいますが…」(早川書房、ISBN4-15-050232-3)という本を出勤途上に読んでいる。これはアメリカのNew Scientistという週刊科学誌(週刊だぜ)の末尾にある読者の疑問コーナーをまとめたものだ。日本の科学雑誌にも同じようなものが設けられていたりするが、違うのは答えるのも読者だという点だ。面白い事に、答えには誰も責任を取れない構造になっているのだ。必ずしも正解が得られるとは限らないのだ。
 例えば、「眩しいものを見るとくしゃみをするのはなぜ?」という問いがある。それに対する一人目の読者の答えは「光子が鼻に飛び込むからさ」というふざけたもの。しかしありえない事ではない(マジかよ)。そこで次の読者の答え。「光に反応するくしゃみ遺伝子があるからです」というこれもちょっと待てといいたくなるような答えだ。遺伝子に絡めればなんでももっともらしくなるってのか。ところが三人目の読者も「それはくしゃみ遺伝子のせいです」という回答をしている。しかもそれは全人口の10%程度に遺伝している云々......というまことにもっともらしい説明さえついている。うーむ、これは科学的事実なのか、それとも血液型と性格の関係のように科学的には証明されていない風説が流布しているのか、これだけではなんとも判断がつかない。ともあれ、欧米では「くしゃみ遺伝子」なるものが信じられているという事が分かる。~
 こんな感じで、権威ある専門家がずばり答えてみせる場合より、むしろ科学的な探求心を刺激するような作りになっているのだ。そういう意味では良書だと思うので、暇つぶしに読んでみる事をお勧めしたい(誰にだ)。
 寂しいのは、英語圏の読者(欧米や香港、他の非英語圏も)が和気あいあいと参加しているのに、日本からのそれはどうも皆無らしい点だ(熊本からの参加者もあったが、名前からすると在日外国人らしい)。日本は1億超の人口を持っているので、大抵のものは良くも悪くもその内部で賄う事が出来る。科学雑誌もそうで、権威という点で海外のNatureなどに遠く及ばないものの、科学総合雑誌や専門誌、一般誌など、大抵の種類は揃っている。それが英語圏にアクセスする必要を低めている観は否めない。日本人に、そのセルフイメージでも、また海外の人々のイメージの上でも異質感があるとされるのは、こうして大抵のものを賄ってしまえるが故の閉塞性があるように思える。とすれば、なんとも皮肉な話だと思えるのだが。

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